屋敷が燃えていた。
 炎が夜を赤赤と照らし出していた。
 富士見の本家が、火に取り巻かれ燃えている。
 頭領と思しきは、具足姿の壮年。手に引っさげた大刀。
 屋敷を取り巻く松明掲げた無数の配下。
 油と紙とが母屋一帯に敷かれ、炎を上げていた。
 都の片隅と云えど、公衆の面前でこのような狼藉を行えば役人が飛んでくるはずだが、そのような気配は全く無い。
 してみると、役人も周知の上のことか。
 仁王像の如く立つ頭領の元に、数人の若者が駆けてきた。目標の捜索を命じておいた者共であろう。
「姿が見えませぬ。近隣にもあたってみましたが、かくまっている様子は皆無。既に山へと逃げたかと」
「となれば、我らの焼き討ちを察していたか。あの小娘にそのような真似が可能とも思えぬが」
「例の従僕も消えております。となれば……」
「……妖忌めが連れ出したか。小癪な」
 忌々しげに舌打ちすると、頭領はさっと手を上げた。呼応して配下がわらわらと集まり来る。
「捜索隊を編成せよ。直ちに追撃にかかる。国境へも使者を送れ」
「しかし頭領。そこまでやることは無いのではありませぬか。あの娘も望んで一族を滅ぼしたわけでは無い。罪無きものです。ここまで追い詰めるのは、どうにも……」
 気の弱そうな配下の者がおずおずと提言してきた。
「聞く耳もたぬ」
 泣き言をぴしゃりと遮る。繰言を聞いている暇は無い。
「追うのだ。何があろうとあの娘を生かしておいてはならぬ。罪が無い? 馬鹿な。仮に生かさば、また何処かで死骸の山が積まれることとなるのだぞ。それが我らでなくとも、見逃す事なぞ出来ぬであろう」
 鋭い語調で睨み付ける。
 何か云いたげに口を開きかけたものこそ数名居たが、結局、わざわざ反駁するものはいなかった。
 ぎょろりと眼球(めだま)開き、手を振って声を張り上げる。
「山を狩れ。川を漁れ。隣国への関所を見張れ。艪櫂の及ぶ限り、あの娘を追い続けよ。見付け次第叩き切っても構わぬ!」
 号令一下、松明をかざした男共は四方八方へと散っていった。



 冷たい雨だった。
 春夜の雨は未だ冷たく、一足を進めるごとに体温が奪われてゆく。草木の生い茂り藪も密な山中を歩むとなれば尚更であろう。
 ましてや此処は峰をぐるりと取り巻く、足を踏み外せば後が無い崖の山道。真暗な空にどんよりとかかる雨の雲。屈強の旅人とて踏み入るを躊躇すると思しき道行き。
 そんな中、深編笠に手甲脚絆。旅装束にて、闇に紛れて歩む影が二つ。
 一つは娘。その面は旅装束に隠れてはっきりとは見えぬにせよ、少女と呼ばれるべき年嵩なのは見当がついた。
 一つは男。六尺はあろうかという長身で少女の前を歩み、己の身体を雨風を防ぐ盾としている。
 男の吐いた息が白い煙として凝結し、直ぐ散った。雨に湿った土を踏めば、ぐにゃりとした肉のような感触が足裏に伝わる。流れ滴る泥が、濁り切った血のようだ。
 少女が崖下に目をやった。
 ちらちら、ちらちらと松明の篝火が明滅している。大勢で草の根掻き分けての探し物の模様。目を凝らせば、松明をかざした追手(おって)どもの姿までが見えてきそうだ。
 怒鳴りつける声の端までは流石に届かぬものの、騒騒(ざわざわ)とした様子だけは明瞭(はっきり)と見て取れる。
「――妖忌」
 不安げなか細い声に、妖忌と呼ばれた男は足を止めた。
 くいと編笠を上げ、少女を見やる。
 笠の下から精悍とも言える面構えが覗いた。
 年の頃は二十と半ばであろう。撫附けられた灰色がかる髮に、彫刻された峻嚴な面。鋭い瞳には明白な意志の強さが宿っている。
 背に負うたは二尺七寸、腰にたばさむ一尺三寸。
 立居振舞いから見るに、少女の従者か家臣の侍であろうか。重厚な物腰の、人品卑しからぬ若武者である。
「ご安心を。如何に奴らとて、ここまでは追うて来られますまい。どうぞ今しばしのご辛抱を。今宵の雨露を凌ぐ場を探さねばなりませぬ」
 錆を含んだ善く通る声に、少女は首肯(うなず)くのみ。
 答える気力も無いのか。
 ただでさえ白い肌は蒼白に近く、唇も青白く染まっている。雨の中で震える小さな身体が哀れを誘った。今にも倒れてしまいそうな風情。

 ――無理もない。

 吐息と共に妖忌は天を仰いだ。春雨がぽつ、ぽつと端正な顔を濡らす。
(どうしたものか――)
 歩き詰めの上、降り続けの冷たい雨は少女の体力を確実に奪っていた。日々の鍛錬と戦場往来で鍛えられた妖忌ならばいざ知らず、この行程、婦童(おんなこども)には少々荷が重かろう。
 ざあざあと。
 小粒だった雨は何時の間にか大粒に変わっている。
 雨露を凌ぐとて、当てがあるわけでもない。宿場街道ならばともかく、都より遠く離れた片田舎の山中だ。茶店の一つでもあれば救いとなろうが、人気の無い地を幸いに足を向けた山。そのような場があろうはずもない。
 隣国に続く古街道へ抜けるつもりであったが、そもそも辿り着けるかどうかが怪しいところ。
 仮に辿り着いたとしても、国境の河は濁流となっているであろう。粗末な橋がかかっていたはずだが、水が少し暴れれば流されてしまう程度のもの。
 ――この雨模様では無謀か。
 そうまで思うと身体の隅々まで、急に疲労が広がってきた。
 ――甘えるな。
 愚痴の一つもこぼさぬ少女の姿に、萎えかけた心を奮い立たせる。
 己一人ならば、天に生き死にを左右されようと恨むことは無い。だが今は、万策尽くしてでも少女の生と安全を確保する必要がある。
 まだしも歩み易そうな道を選び進みだす。
 道を曲がり尾根を登りまた下った。
 夜闇のせいで方角が正しいかどうかも心許ない。
 己一人が野垂れ死ぬならばともかく、まさかに主を野晒の憂き目に合わせるわけにはいかず。時を経るにつれて厳しくなる妖忌の面。
 休息出来る場所を求めてさらに歩を進めると、徐々に道幅が狭くなってきた。少女に手を貸しながら藪だの斜面だのを突っ切れば、耳に届くせせらぎの音。少女は耳聡くそれを聞きつけ、妖忌の袖を引いてくる。
「……川の音じゃないかしら?」
「――行ってみましょう。もしやすると、身を休める場があるかもしれませぬ」
 はて、この辺りに水源なぞあったかと、妖忌は心中首を傾げる。
 だが川の側ならば小屋の一つや二つあるやもしれぬ。少女を促して沢筋への道に足を向け往くも、水音は近づいたかと思うと遠離り、また近づいて遠離る。
 夜の山に惑わされたか、狐狸の類に化かされたかと不安に覚え、彼方此方(かなたこなた)へと迷うていたのがおよそ半刻。沢への筋も定かならず、いつしか四方八方には暗く繁った草草、四方八方を囲む藪。
「妖忌、あれ、何?」
「む……?」
 少女の言葉に藪の向かうを透かしてみれば、ぽっかりと岩穴が口を開けている。妙なことに水音は穴の奥から聞こえているようだ。さて、何処からか反響でもしているのか、穴の奧が川にでも続いているのか。
 せめて雨露と寒さを凌ぐ頼りにはなろうと、背を屈め大岩小岩を取り除き狭い岩穴を進めば、益々大きくなる水音。やがて視界が開け岩が尽き、急な斜面が現れ、さっと広がる異なる風景。
「これは……」
 妖忌は絶句し、少女は歎声をあげた。
 平原であった。
 草花が萌える一面の平野であった。
 絵巻物に見たことのある唐土の桃源郷の景色と異なろうとも思われぬ。足元の土と草との確乎りとした感触と、若草の柔らかい匂いが幻ではないことを伝えてきた。
 改めて見渡せば、目の前には清流。水音はここから響いてきたものか。
 申し訳程度にかかる橋を渡れば、黄連(おうれん)東一華(あずまいちげ)鈴蘭(すずらん)海老根(えびね)三角草(みすみそう)編笠百合(あみがさゆり)には蓮華草(れんげそう)杉菜(すぎな)(あぶみ)蒲公英(たんぽぽ)とを取り囲む一人二人の静御前。まこと一面に雪解けの花々。
 色取り取りの花々は美しけれど、さて、進んだものか戻ったものか。
 どうしたものかと戸惑っていると
 ちかり。
 人工の光が一瞬目に入った。
 遠方を透かし見る。
 彼方先に。
 大きな屋敷が建っていた。
 屋敷の内側からは燈が僅かに漏れており、何者かが住まうとは思われる。
 常ならばこれ幸いとばかりに足を向けるところだが、まさかこんな所に立派な屋敷があるとは欠片も考えていなかった。
 いかにも怪しい屋敷に妖忌が躊躇していると。

 ぽつん。

 平原の一点に影が浮かんだ。
 見る間にその点は妖忌たちへと向かい来る。
 するすると近づいてくるにつれて、金毛と尻尾を持つ大柄な獣の姿がはっきりとしてきた。
 それは一匹の狐だった。
 野山で見かける狐より二回り大きい。金毛が風にしなやかになびいていた。
 ついと全身が真っ直ぐに伸びており、一種の高貴さを感じさせる。
 妖忌と少女から少し離れた野の真中で立ち止まり、くるくると廻る。
 只の畜生ではないと判じ、妖忌は気を張り詰める。
 何か物言いたげな瞳には、明白に知性の輝き。稲荷神の使いか、人を取って食う妖の類か。
 少女を己の後ろに回さんとするも、その当人は物怖じせずに踏み出した。
 編笠を取るとふわりと広がる桜色の髮。
 草花を踏む軽い(あしおと)に、狐が首をかしげる。
 じい、と。
 少女と狐は見詰め合う。
「――お嬢様」
「静かにしてて」
 たまりかねて声をかけた妖忌をぴしゃりと遮り、少女は凝乎(じっ)と見つめ続ける。
 数秒。
 数十秒。
 数分。
 妖忌が痺れを切らさんとした頃、四つの瞳が、何やら合意に達した気配。出でた時と同じように、狐は突然に背を向けて尻尾振る。
 少女も妖忌を振り仰いだ。
「着いて来いって云ってるわ、行くわよ、妖忌」
「しかし、お嬢様……」
 珍しく妖忌が難色を示した。それもそうであろう。
 突如として出現した穴。
 その先に広がりし野原。
 聳える屋敷に金毛の狐――
 怪力乱神狐狸妖怪を恐れるわけではないが、何もかもが怪しすぎる。
 眉間に皺寄せる妖忌に向かい、少女が少しだけ笑んだ。疲れの所為か弱弱しい微笑ではあったが、鷹揚とした、どこか余裕を感じさせる笑みだった。
「行くも戻るも同じことよ。戻っても待ってるのは先も見えない山道と、追ってくる人たちだけ。それなら、何が居るか解らない邸に行ってみましょう」
「――仰るとおりですな。せめて拙者から離れずに居てくだされ。この妖忌、万に一のことがあろうとも命を賭してお嬢様をお守り申す」
「そんなに気張らないでいいわよ。妖忌のことは信じてるから」
「……む」
 率直な言葉への反応に困っている内、少女はぱさりと扇広げ、ふわりふわりと草を踏みながら尻尾の後を追うていた。



 ふいと狐が姿を消したのは、屋敷の前でのことだった。
 見上げれば、五層はあろうかという木造の絢爛な建築。
 屋根は千鳥破風付の入母屋。二つの両端翼部が突出しており、全体としてコの字型の印象だ。妖忌が見慣れた武家屋敷とは程遠く、かと云って南蛮渡来の建物にしては和風の面影が強すぎる。観音開きの扉の横には雪洞(ぼんぼり)が備え付けられてすらいた。
 まるで花街だ。
 和洋折衷と呼ぶのがもっとも的確であろうか。何とも境界が判然とせぬ印象である。
「失礼する。何方(どなた)か居られぬであろうか」
 二度三度と呼ぶも現れる人も無く、仕方なく扉に手をかけるとするすると開く。
 とまた、数間先にて見ている狐の姿。
 コン、と一声啼くと尻尾を振って歩き出す。
「心配ないわよ。こっち来いって云ってるわ」
「しかしですな、お嬢様――」
 未だに難色を示す妖忌の様子などどこ吹く風。無造作に狐の後を追う少女に致し方なく付き従う。
 無数の襖に挾まれた板張りの廊下に踏み入る。
 足を進めるたび、きゅ、きゅと、板が鳴った。うぐいす張りであろう。
 廊下の鳴る音が重なる。先導している筈の狐からはその音が聞こえてこないのが、益々妙だ。
 庭に面した橋懸かりを曲がると、狐が首を振り曲げながら待っていた。
 風に揺られる尻尾は二本。
 矢張り妖の類であろうか。
 狐が口元歪めて笑った気がした。
 嘲笑でも憫笑でもない、何とも謎めいた笑いだった。
 その笑いに、妖忌は腹を決める。
 からかわれているだけにしても、何やら意図があってのことにせよ、直ちに害を為してくるということは無さそうだ。
 万に一つの場合となれば、楼観剣が鞘走るだけのこと。かの名刀と妖忌の腕をもってすれば、現世にて断てぬものなぞ多分無い。
 眉根を寄せて難しい顔をした妖忌の様子に、狐は走り出す。しなやかな疾駆に、妖忌と少女も駆け足で着いて行く。
 何処を如何通っているものか。屋敷の構造がどうなっているのか。
 左に曲がり右に曲がり階段を上り下り、母屋へと続きそうな長廊下を渡ったかと思うと、斜めに折れたまた新しい曲がり廊下。
 その度追う二人の目に映るのは、新たな通路に丁度消える、ふさふさとした尻尾のみ。 三四五本。
 六七八本。
 角を曲がる度に、尻尾が一本、また一本と増えてゆく。
 七つ目の角を曲がった時に待っていたのは、金毛九尾の狐と、立派な襖。
 襖へと向かい頭を垂れると

 こおん。

 奇妙な獣は誰かに呼びかけるよう一声高く鳴き、くるりと回って姿を消した。
「置き去りねえ」
 呆然と虚空を見詰める妖忌の横で、のほほんと少女が呟く。
 その言の葉が消える直前に。
「あらあら、藍、お客様?」
「――!」
 雅な声と背筋への冷水とを覚え、言い知れぬ気配の正体を見定める前に、妖忌は反射的に背の刀に手をかけた。
 ぱたん、と。
 少し遅れて襖の音。
 其の奥に。
 異装の女が座して居た。
 一分の隙も無い妖忌の構え見やり、女は艶然と笑む。
 ぞくり。
 どこまでも華やかな笑みに、妖忌の総身が粟立つ。
 ――物の怪か。
 息を呑む。
 美しい。
 否。
 美しすぎる。
 白地に紫の紋樣を配した小袖とも打掛ともつかぬ装束を纏い、頭には奇妙な被り物。武家やら公家やら、あるいは道道の者か判別がつかぬ。おさえ髷にも似た頭は金色に彩られ、それにも増して明るい猫の瞳がじっと見詰めている。風流の者にも見かけぬ伊達にて婆裟羅な扮装(いでたち)である。
 これは確かに――人では在り得ぬ。
 ごくり。
 喉が鳴った。我意に反して緊張した筋肉を解きほぐす。
 無意識に刀の柄に手が伸びた。
 鯉口を切ろうとした刹那。
 女はひらひらと扇を振ってきた。
「物騷な物から手を離したらどうかしら。藍が案内してきたお客様だもの、取って食べてしまうような真似はしないわよ」
「む……」
 張り詰めた殺気を茶化すかのように、扇で口元隠しころころと笑う。
 鈴の音を転がすような楽しげな響きに、思わず毒気が抜かれてしまう。
 思うてみれば女の云う通りである。
 察するに先の狐は使いの類であろう。ならば、人妖の別が定かならぬ相手といえど、然程の害意があろうとは思いにくい。
 己らを狙う輩の一味かもしれぬが、かような人界とも思えぬ地で待ち構えていることはなかろう。
 仮にそうだとしても、その時はその時である。
 落ち付けそうな場所に一旦足を踏み入れた以上、妖忌としては一刻も早く少女の身を休ませねばならなかった。
「――失礼致しました。館の主殿とお見受けいたす。我らはしがなき旅の者。雨の山道に難澁しておりました。よろしければ一晩の宿をお願いしたく」
「こんな家でよければ構わないわよ。こっちもそのつもりがなければ、藍を使いに出したりしないわ」
 藍と云うのはあの狐のことであろうか。
 使いに出したということといい、あの振る舞いといい、思った通りに只の狐では無かった様子。
 女の好意に謝意を示し、姿勢を正す。真っ直ぐに見据えて
「拙者、妖忌と申す。こちらは――」
 妖忌と少女とが名乗ろうとすると、紫が手をぱたぱたと振った。
「堅苦しい挨拶はいいわよ。それより休む方が先でしょ。可哀想に、すっかり疲れちゃってるじゃない」
 やれやれ、とばかりに。女は少女を見やる。
 休める場を得て張り詰めていた気が緩んだか。
 泰然自若を装ってはいるが、其の身は微かに震え、肌は紅潮している。発熱まではしていないようだが、蓄積した疲労が表に出てきていた。早い所、湯を浴びて疲れをゆっくり取らねばなるまい。
 鉄のように頑丈な己の身ならばともかく――少女の身にはやはり少々強行軍であったかと、妖忌は慙愧の念に襲われた。我知らずに、言葉の調子が重くなる。
「――かたじけない」
「それじゃ、こっちよ」
 だらだらと長く延びる廊下を、女の後について歩み出した。
 冷たい床だ。
 香り高い、木の床と柱。
 天井の木目が、朦朧と光る燐光に照らされて浮き上がって見えた。
 湯殿と客間は直ぐとのことだったが、こうして歩いてみれば、道中は十分にも二十分にも、或いは数秒にも思える。
 屋敷自体もまた一つの化生であるのだろうかと、そんな疑念も頭に浮かぶ。
「――ところで主殿。少々お伺いしたき疑が」
 ここぞとばかりに妖忌が疑念を問い掛けた。
 険しい山で偶々見つけた洞穴。そこを抜ければ肥沃な平野に、このような立派な屋敷。現世のものとはとても思えぬ。
 山賊の隠れ家か山の隠れ里か。それにしたとて、様子が奇妙である。
 実在しようとは思わなんだが、或いは音に聞く山中異界か。
 となれば――現世ならぬ幻世なのであろうか。
「此処は一体いかなる――」
「幻想郷よ」
「幻想郷?」
 鸚鵡返しに妖忌が問う。傍らの少女は物問いたげに見上げてくる。
 女がくすりと笑った。
 何時の間にか女は足を止めていた。二股に分かたれた廊下と、庭に面した障子。
 壁面には「男湯」「女湯」の表示が一つずつ。
 女が指差した先からは、硫黄の心地良い匂いが香ってきていた。
「何にせよ話は後回し。見れば見るほどひどい濡れ鼠ねえ。取りあえず、湯に入ってきなさいな。そのままじゃ風邪引くわよ?」
「……重ね重ね、かたじけない」
 聞きたいことは山ほどあるが、なるほど、落ち着いてみれば己も少女も散々たる有様だ。旅装束もしとどに濡れて、雨水を吸い込んだ着物がじっとりと重い。
 渡殿へと足を向けると、思い出した様な声が飛んできた。
「そうそう、私は八雲紫。この邸は迷家(マヨヒガ)。湯から上がったら、床の間にいらっしゃいな。食事の用意をさせておくわ」
 幻想郷。
 迷家。
 そして、八雲紫。
 聞きやらぬ名ばかりである。
 山ほどの疑問を抱えつつ、妖忌と少女は湯殿に向かっていった。何はともあれ、汚れを落とさねばならない――



 床の間に座した湯上りの少女に、紫は感心したように息を吐いた。
 襟筋から覗く、湯浴みでほんのり紅潮した蝋めいた肌。
 背の半ばまで垂らされた、波がかった桜色の髪。
 大きく見開かれた下がり目に、小ぶりな唇。
 美貌であり、貴人の相である。
 何より――

「――紫殿」

 妖忌の声が横合いより、紫の思念を破った。
 背筋をしゃんと伸ばし、手足を揃えて少女の背後に控えている。
 絞り込まれた身体を木綿の着流しに包み、鋭い瞳はじっと紫を見据えている。改めて見ると、かなりの伊達男。小粋な着物でも纏わせれば、何とも涼やかな男ぶりであろう。
「まずは我等主従をお救いいただきかたじけない。感謝の言葉もありませぬ」
 深深と頭を下げる妖忌に、紫は華やかに笑う。
「だから堅苦しいのは抜きでいいわよ。外の世界とは違うんですしねえ」
「外――と申されるか」
 妖忌は疑念と得心とで相反する表情(かお)をした。
 外の世界とは、という疑義が半分、矢張り只の屋敷ではないという納得が半分であろう。次に出てくる質問も、容易に見当がついた。
「此処は一体どのような地なのでありましょうか。貴殿のような貴人が住まうて居られるにも関らず、噂の一端とて聞いたことがないというのはどうも得心がいきませぬ。拙者、然程見聞が広いわけではありませぬが――」
 矢張りそこかと、紫は少し笑う。
「云わなかったかしら。此処は幻想郷の一角。迷家と呼ばれる屋敷よ。聞き覚えはない?」
「はて、一向に――」
 妖忌が首を傾げると
「覚えがあります。丘に森、橋に辻の逢魔が時。道を外さば迷い込む。万物の近くに在るが故に、常では見出せぬ幻の地」
 横合いから少女がぽつぽつと答えた。
 紫は満足そうに頷く。

 俗に云う異界。山のあなたのもう知らぬ他国。
 神隠された者が招かれ、歌人修験者が幻視する地こそが幻想郷である。
 後の世こそ幻想郷への入口を見つけるのは困難になったが、この当時、外の世界と幻想郷との境目は薄かった。黄昏時に四辻に足を向け、山の奥へと少し入り込めば、そこは既に幻想郷であったのだ。博麗大結界によって、此方彼方(こなたかなた)の境が明確になるのは後年のことである。
 そのため、屋敷に人が迷い込んでくるのは、珍しくはあるが有り得ないことではなかった。そもそもからして、迷うて訪ね来る者が無ければ、迷家と呼ばれるはずもなかろう。紫が客人を迎えたのも、何もこれが初めてというわけではない。
「異界、でありますか――」
 訝しげな妖忌。
「余り考えすぎないほう方がいいわよ。少なくとも貴方たちが休める場所なのは確かね。どうする? 帰るって言うなら送っていかせるわよ」
 さらりと紫は言ってのけた。
 迷い込んできた人間には喰ったり供応したり色々だが、こうまで親切なのは珍しい。
 丁寧に迎えるにしても、いつもだったら式に任せきりだ。
 手ずから案内して色々世話をみるのは、奇妙な二人連れに興味をもったからに過ぎない。
 そして、紫にとってそれは、親身になって対応するのに十二分な理由だった。
「ご厄介になります」
 深々と頭を下げる二人に、紫はにこと笑った。
「それじゃ、食事にしましょ。ありあわせの鍋位しか出来なかったけどね」

 広い床の間に、箸と器が触れ合う音が響いた。
 ぐつぐつと良く煮込まれた鳥肉の鍋は美味だった。新鮮な春野菜と鳥の出汁が実に絶妙だ。相変わらず藍の料理の腕前は確かだと、満足気に考える。
「ご馳走様でした」
 箸を置いて手を合わせると、紫は扇一振りして姿勢を崩した。金の長髮がふぁさりと広がる。
 腹がくちると、またぞろ二人組みへの興味がわいてくる。
 常に一歩下がりつつも、必要とあらば庇い立て出来る位置に己を置く妖忌。
 それに全幅の信頼を置き、自然体に構えている少女。
 見れば見るほどに絵になる主従である。
 鑑賞しているうちに、また一つの疑問が頭をもたげてきた。
 扇を閉じて、ゆっくりと口を開いた。
「ところで――」
 短刀直入に切り込む。
「今まで何人死んだのかしら」
 少女がはっと視線を上げ、妖忌が食後の茶を噴きかけた。
「突然何を仰います。拙者、確かに数名の者を斬ったことはありますが、それは必要あってのこと。何ゆえそのような問いを――」
 妖忌が困惑げに答えた。
 それは云われずとも解る。
 追っ手のみではない。都には盜賊、野には山賊。山犬に狼といった獣達。
 己の誇りのために、生存のために、何より主を守るために斬ることもあったであろう。それは、妖忌の纏う気配と、使い込まれた刀から察しがついた。
 だが――
「あら、違うわよ。貴方じゃなくて――」
 ついと。
 しなやかな指が、妖忌の影に佇む女を指す。
「貴女の方」
 少女がぴくりと身を竦ませ、紫を見詰めてきた。
 そう。
 先に紫を驚かせたのは、少女の身に纏わりついた気配であった。
 流れ出でては地を濡らす血。
 断たれた肉から溢れる死臭。
 髑髏(されこうべ)から発する乾いた香り。
 違うべくもない――濃密な死の匂い。
 ゆっくり。
 少女が小ぶりな唇を開く。
「……幾人となく。思うてみれば、生を受けた時より周りに在ったは死の影のみ。余人は死霊と申しましたが、私にとっては親しいものでありました。この幾年かは、否も応も無く、我知らずに死の影を引き寄せる日々。西行寺の家と云えば、お聞き及びやもしれませぬ」
 涼やかな美声であった。
 哇哇、と。紫が得心して頷く。
「聞いたことがあるわ。花にもいたく散る別れ。桜が下で死を招く。不死視(ふじみ)の家の鬼娘――」
「――はい。西行寺本家が一子、幽々子と申します」
 そして、妖忌の主、西行寺幽々子は、ぽつりぽつりと己の素性を語り始めた。



 西行寺といえば、都でも知らぬ者は無かったと聞いております。
 慥かに、憶えている限りでも、ひどく立派な家でありました。
 敷地は優に数百坪。間口豊かな立派な母屋に漆喰の土蔵。
 道行く人で足を留めぬ者は無い、都外れの豪家、だったそうです。
 え?
 庭の枝垂桜(しだれざくら)――ですか。
 良くご存知で。
 はい、確かに庭に咲いていた記憶があります。
 春になればその下で高歌放吟、門を開いて人々を招きいれ、まさに門前市を成す様子でありました。
 幼ない折、妖忌に連れられはしゃいでいたのを思い出します。人が大勢いたのが嬉しかったのでしょう。
 ええ。
 そうです。
 その頃はまだ――普通の娘であったのです。
 彼らに気付いたのは、五歳(いつとせ)の頃からだったでしょうか。
 社仏閣街外れ、四辻を見渡せば見える、人のような姿。
 体が透けてしまっている者も居りました。
 臓物が出て仕舞っている者も居りました。
 恨めしげに眺めるだけの者も居りました。
 今とならば、死霊であることを心得ておりますが、何といっても子供のこと、そのような事が解ろうはずもありませぬ。
 父様あそこに人が居る、母様こちらに誰か来ると。
 何気なく告げる度、何を云うているのかと叱責されたものです。
 私の言葉を信じてくれたのは妖忌だけでありました。
 何故か、彼らは私に親切でした。
 色々と教えてもらったものです。
 他者の死期、死後の世、死霊の存在――
 その全てが目新しく、また刺激に満ち。家の中でのお仕着せの手習いよりも遙かに魅惑的であったのです。
 こんなこともありました。
 お婆様(ばばさま)が亡くなると聞いたは、確か七つの折。
 教えてくれたのは、屋敷に住み着いている霊であったと憶えております。
 既にもう、死霊を操ることは他愛も無い技でありました。
 婆様が今夜亡くなると、無分別にも口に出してしまったのです。
 それはもうひどく怒られました。
 婆様がどうなったかと仰いますか?
 当然、その夜に亡くなりました。
 お婆様は心の臓を病んでおりましたゆえ、然程の騒ぎには成らずにはすみましたが――周囲の私への目が変わったのはあの頃からだったようです。
 数年前の流行り病をご存知でしょう。
 ええ、虎狼痢(ころり)です。
 幸いにも、西行寺の家では誰一人として亡くなりませんでした。
 それが幸だったのか不幸だったのかは何とも云えませぬが。
 虎狼痢がようやく鎮まった頃。
 面白半分でありましたのでしょう。
 誰か死ぬのかと――愚かな親族が問うてきたのです。
 私も劣らずに愚かでありました。
 叔父叔母をはじめ七人が死ぬと、正直に答えてしまったのが運の尽き。
 ええ、外れるわけが御座いません。
 翌日虎狼痢がまた暴れ出し。親族七人が忽ちに命を奪われました。
 そのような事が幾度と無くあったのです。
 もう、私に近寄る者は誰一人として――いえ、妖忌を除いては誰一人近寄ろうとしませんでした。
 下女や馬飼いはとうに逃げ出し、尋ね来る親族の影も無く。
 富み栄え人に満ちていた屋敷は最早がらんどう。財を成すにも上手くいくはずもなく、蓄えを削って細々と生き継ぐ有様。
 両親もたまりかねたのでありましょう。
 或る日突然、私を睨み付け口から泡を飛ばして。

 お主の所為だ
 呪われておる
 鬼め悪魔め魔の使いめ

 罵られるには慣れておりました。
 だから黙っていたのです。
 やり場の無い怒りもいつかは鎮まろうと信じていたのです。
 けれども。

 ――産まねば良かったのだ

 其れを聞いた途端目の前が真暗になり。
 気が付けば両親は、倒れ伏しておりました。
 噂の足は速いもの。死を操る富士見の娘、親も殺した鬼娘と。都を駆けめぐる悪意と風聞。
 それから後はご推察の通り。
 都を総出の狩立てが始まり。
 私は妖忌に連れられ当所(あてど)も無く彷徨うていたので御座います。

 私はかように、死を招き害をもたらす富士見の娘。私めが居たら、いつ何時どのようなご迷惑をかけるかもしれません。
 今宵身を休めたら、直ぐにでも出立しようかと考えております――



「はい、私の上がり。幽々子のやり方は相変わらずぬるいわねえ」
「いやいや紫。これで丁度半々よ。次は私の勝ちじゃないかしら」
 庭に面した間から、幽々子と紫の笑い声が響いてきた。
 さいころを振る音と紙の擦れる音。双六でも愉しんでいるのであろう。
 心地好い声を耳に、日課である素振りを終えた。目にも留まらぬ速さで大刀を鞘に納めると、妖忌は汗を拭って息をつく。
(お嬢様は安らがれておられる)
 その思いが妖忌の心を穏やかにする。
 考えてみれば、幽々子の笑い声なぞ聞いたのは何時以来のことか。
 ここ最近で言葉遣いも随分とくだけてきた。
 妖忌の知る幽々子は、元々洒脱で飄々とした少女だ。追われる身であるという恐怖が薄れた分、天来の性情が顔を覗かせているのだろう。紫の気さくな性格が一役買っているのも疑うべくはなかった。

 ――迷家に辿り着いてからもう一月になる。
「何云ってるの。どうせ行く当てもないでしょ。好きなだけ居るといいわ。生きていくだけなら困らない場所だしねえ」
 辞意を告げる幽々子に対し、にこにこしながらそう云ってきた紫。
 言葉に甘えるのも気が引けたが、悪い提案ではない。
 追われる身という自分たちの立場や、安心して身を安らげることが出来る場があるかどうか心許ないことなどを考えると、魅力的な提案であった。
 これ以上のご迷惑は――と云っても
「誰が迷惑って云ったの?」
 そう答えるだけ。
 事実、紫は嬉々として客間の用意に余念が無い。
 湯殿に寝所から床の間、多彩な着物に日夜の食事と、何事につけても十二分に支度されていた。
 勿論、紫が実際に手を動かしているわけではない。命ずればあっという間に大抵のものは準備されてしまう。
 どのような仕掛けがあるにせよ、有難い事には変わりがなかった。
 妖忌自身も疲れがたまっていた。幽々子と共に都から逃げ出してよりの追われる日々。自分一人ならともかく、頑健とは云えぬ幽々子を支えながらの日々は、決して楽なものではない。幽々子への忠義は微塵も揺らがぬが、心身共に休息を求めているのは確かだった。
 かくして、妖忌と幽々子は未だに迷家に足を留めているわけである。

 妖忌殿――
 呼び声がぼんやりとした物思いを破った。
「おお、藍殿か」
 庭園の一角にある池の方から、袖口に手と手を入れて歩んで来る姿。白地に藍をあしらった大陸風の道服、二股に衣装された伊達な帽子、紫に比しても遜色ない金色の髮と、九つに分かたれた尻尾とが印象的だ。
 八雲紫の式にして従者、八雲藍である。
「精が出ますな。とはいえ、あまり根を詰めては却って毒。茶なりと一杯進ぜようか」
「何、これも日課故。されど藍殿の立てた茶とあっては断れませぬな。有難く頂こう」
 大きく「八雲」と記された湯呑を受け取り、妖忌は縁側に腰を下ろした。藍も尻尾を巻いて座り込み、茶をすする。
 迷い込んだ日に自分と幽々子を導いてくれた狐こそがこの式だと、今では妖忌も心得ている。
 飄々とした主人に仕えるという立場、生真面目で融通が利かないという気質的な相似もあり、妖忌と藍とは妙に気があった。茶飲み友達のようなものである。
 茶を干すと息をつく。
 何とはなしに天を見上げた。
 抜けるような――空。
 視界の端に多少の雲があるものの、快晴と云って良い空模様。
 空が抜けるのが視線が抜けるのかと、埒も無いことをふと思う。
 ぼんやりとした思念を、藍の声が破った。
「幽々子殿には随分とお元気になられた様子。塞ぎ込んでいるのは心身に良くありませんからな」
「いや、これも紫殿や藍殿のお陰。迷うていた時、貴公がおらねばどうなっていたことか。感謝してもし足りぬとはこのことで」
 絶えざる続く戯れ声が少し大きくなる。
 視線を向けると、風を吹き入れるためか、障子の隙間が開いて幽々子と紫の横顔が覗いていた。
 幽々子は笑っていた。
 紫との一挙一足が心底楽しそうだった。
 しかし――と。
 妖忌が何とも云えぬ苦味の利いた、それでいて安心したような複雜な表情で口元を歪める。
「腑甲斐ないものですな。この妖忌、幽々子様の幼なき折よりお仕えしておるが、あれほど楽しそうなご様子はこの幾年かとんと見た覚えが御座らぬ。我と我が身は果たして何をして来たのやらと――」
「それは私とて同じこと。幻想郷の外れも外れ、人も通わぬ迷家で、三國に渡り妖異をなした大化生。式と成りて早や百歳千歳になるというに、紫様が友と呼べるお方を得るを見たはこれが初めて。こちらも少々悔しい気が致す」
 お互いの口元に苦笑らしきものが浮かんでいたのは、致し方ない所であろう。

「して藍殿、拙者に何か御用でありますかな」
 うむと藍が頷いた。
 穏やかな面が引き締まる。
 優しげだった声色も、厳しく練り上げられた苦労人のそれへと変わっていた。
「――少々気になる儀が」
 妖忌は眉間に皺を寄せた。
「と、申されると?」
「之を御覧下され」
 幽々子と紫は既に障子を閉じている。
 何時の間にか日が翳ってきていた。
 燦燦としていた空に、ぽっかりと幾条かの暗雲が浮かんできていた。
 ぱさりと、藍の袂から、何者かの旅装束がこぼれ出る。
「野の外れに落ちておりました。中の者が見当たりませなんだが、大方、通りすがりの夜雀にでも喰われたのでしょう」
 取り上げると、じっくりとなだめ透かし見た。
 紋様に見覚えがある。
 桜をあしらい蝶を配し、渦巻状の円形を基調とする家紋。
 紛れも無く、西行寺に連なる一門のものである。
 即ち、都を追い、山に入るまで妖忌と幽々子を執拗に狩り立ててきた輩のものであった。
「彼奴ら、此処をつきとめおったか……?」
 己と幽々子の境遇は藍にも話してあった。
 彼奴ら、の意味を察したか。果たして藍が眉根を寄せる。
「と申されると、先日お話くださった者共でありますかな」
「追手です。山に入り込み巻いたつもりではありましたが、こうも動きが早いとは――愚図愚図しておれませぬな。貴公や紫殿に迷惑をかけるわけにも参らぬ」
「ふむ……」
 今にも出立の支度を始めそうな妖忌に、藍が思案げに顎を撫でた。
 まあ待たれよ――と、手で妖忌を制する。
「そう即断されるな。大方、貴公と幽々子殿が此処へ来られた、あの岩穴に偶偶迷い込んだものでありましょう」
「……そうでありましょうか」
「集団で貴公らを追ってきたのならば、着衣が一つしか見つからぬのは妙でありましょうよ。そもそも――」
 にんまりと藍が笑った。
「私の先導なしで迷家まで至り来るは至難の業。無理に進もうとすれば喰われるのが落ちでしょうな。どちらにせよ、今しばしは迷家に留まるほうが宜敷かろう。あまり思い詰めなさらぬ事が肝要」
「――お心遣い感謝致す」
 藍は気軽にそう云うものの、妖忌の表情は浮かない。
 妖忌は彼らの力を知っている。
 そのしつこさを知っている。
 幽々子と妖忌が見つからぬとあれば、それこそ草の根かきわけて日本全国津々浦々まで追ってくる輩である。
(――幽々子様だけはお守りせねば)
 ぽつん。
 天を見上げると、妖忌の額に何かが当たった。
「雨、か」
 呟いて見上げると、何時の間にか空は暗雲に覆われ、身を切るような冷たい雨を降らし始めていた。




(続)




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