39


 土が詰め込まれた棺桶の中、遠坂凛はゆっくりと目を覚ます。
 最初に映ったのは石造りの天井だ。全身を包むは柔らかい土の感触。暖かく心地良く、冬の朝の布団にも似ている。瞳を閉じればそのまま二度寝してしまいそうだ。
 半身を起こし、寝ぼけ眼をこすって伸びをする。知らず知らずに大きな欠伸が出た。
「あー……よく寝た
 二、三度頭を振り、意識を覚醒させる。控え目な胸のラインに沿って土が滑り落ちた。さらさらとした感触は、土というよりも肌理の細かい砂粒のようだ。保温性に優れているのか、人肌に近い熱を保ち続けている。棺桶が寝台なら、土は布団というところだろう。
「怪我は――大丈夫みたい、ね」
 自分の裸身を見下ろす。肌身の裂傷はすっかり消え去っていた。複雑骨折を負った足首の痛みも退いている。触ってみると、砕けた骨は正常通りに癒着しているようだ。本来なら数週間単位での入院が必要だったろう。驚くべき治癒速度と言えた。
 隣に寝ていたはずのセイバーの姿はない。耳を澄ますと、馴染んだ声が階上から聞こえてきた。どうやら一足先に目を覚ましているらしい。
 棺桶から立ち上がり、枕元に置いておいた服をまとう。赤いブラウスと黒いスカート。慣れた手つきで黒髪をツインテールに結わえる。
 最後は鏡でのチェックだ。髪の崩れを手早くなおし、何度か瞬きをして眠気の残滓を取り払う。
 体は軽く、頭は澄明、全身の魔力も充分だ。
 ――よし。
 一人頷き気合いを入れると、凛は階段に足をかけた。



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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-17 奴らは渇いている 〜 They Thirst

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「おはよう」
「おや、お目覚めかい」
 良く通る声で挨拶をすると、ソフィアが振り返る。
「ええ、ゆっくり休めたわ。セイバーは?」
「そこだよ」
 ソフィアが指し示す。セイバーは凛を認め、椅子から立ち上がったところだった。いつもの服が汚れてしまったのか、紺色のブラウスとスカートに着替えている。細部まで凝った装飾的なデザインが少女らしさを強調していた。
「リン、体は大丈夫なのですか?」
「ええ。もうすっかりいいわ。そっちは?」
「私も問題ありません。ソフィアの術はさすがですね」
 言葉の通り、セイバーは生気に溢れている。凛も自分の中に魔力が充満しているのを感じていた。<新宿>、倫敦、アーカムシティと、三大魔都の土をブレンドしたというのは伊達ではないらしい。
「お褒めにあずかり恐悦至極。あの土はうちの店でもとびきりの高級品なんだ。気に入って貰えてよかったよ」
「本当に助かったわ」
「そうそう使えるもんじゃないけどね。今度ばかりは仕方ない」
「……そんなに貴重なの?」
 ソフィアがそこまで言うということは、余程のものなのだろうか。高級品、とは聞いているが。
「そうさねえ。ざっと計算して」
 ソフィアは手元の算盤を弾く。しばらくぱちぱちと珠を動かし、やがて止めた。珠の並びを凛に示す。
「これくらいだよ」
「げ」
 算盤の珠は、少々信じ難いほどの数値を示していた。家宝クラスとまではいかなくても、指折りの呪物に匹敵する額だ。しばらく食い入るように見て
「……見なかったことにしていいかしら」
 震える声でそう言った。額に一筋の汗が浮かんでいる。
「正直だねえ。いいよいいよ、あたしは好きでやってるんだから」
 けらけらと笑うソフィアに、凛は安堵の息をつく。英國の滞在費が一晩で吹き飛ぶところだった。これだから魔術は怖い。
 セイバーと並んで長椅子に腰かける。椅子は身体が沈み込みそうなほどに柔らかく、座り心地が良い。身を休めながら話をするには最適だ。
「それで、私はどれぐらい寝てたの?」
「そうだね」
 ソフィアが窓へと視線を投げた。つられるようにして凛も目を向ける。そこから差し込んでいるのは、夕暮れの赤色だ。この店に戻ってきたのが夜明け前だったから、半日は寝ていたことになるのか。
「ざっと三十六時間」
「そんなに!?」
 まさかそれほどとは。
 半日どころか、さらに加えて一日だ。
「しまった。時間を無駄にしてる場合じゃないのに」
「不覚でした。思った以上に疲弊していたようです」
 凛が悔しげに言うと、セイバーも唇を噛む。一刻を争う状況で休みすぎだった。
「あれだけぼろぼろじゃ仕方ないよ。無理してたらそれこそお陀仏だったろうね」
 ソフィアはそう言うが、慰めにもならない。疲労困憊が言い訳にならないのは聖杯戦争もこの戦いも同じである。
 何はともあれ、倫敦がどのような状況になっているのか確認せねばならなかった。
「倫敦は――」
「心得てるよ」
 打てば響くとばかりに、ソフィアが指を振る。と、部屋の奥に置いてあった大型テレビの画面がついた。大型とはいえ古道具屋には相応しい旧式だ。ブラウン管が時代を感じさせる。
「倫敦上空より生中継でお送りしています」
 テレビの中では、レポーターらしき男が喋っていた。古いテレビのわりに発色は鮮明だ。
 映像は上空からのものだった。ヘリコプターでの撮影だろうか。街のあちこちで火の手があがり、石造りの建物が崩れている。大通りでは、盾や銃器に身を固めた警察や軍隊が屍者たちと交戦しているのが見て取れた。
「こちらDNN倫敦特派員のピーター・マクドナルドです。突如として倫敦に出現した怪物たちは徐々に制圧されつつあります。ですが果たして彼らは何者なのか、何をしようとしているのか、は依然として明らかになっておりません。イギリス国防省によれば……」
「だと、さ。ま、このままいきゃあ連中が駆逐されるのも時間の問題だろうね」
 ソフィアがもう一度指を振ると、テレビの画面が消える。
「そう上手くいくかしら」
「衆寡敵せず、ってのは正しい言葉だよ。魔術や神秘を潰すつもりなら数の暴力が一番だ。英霊やらどこぞの逆十字やらでも出てこなけりゃ意外にあっさり片が付くだろうね」
「高速で射出される10mm弾はどんな場合でも功夫に勝る、か」
 凜の呟きに、ソフィアは頷く。
「そういうことさね。ま、魔界都市あたりなら話は違うだろうが、あいにくとここは倫敦だ。魔都は魔都だが、あそこほどの人外魔境じゃあない」
「しかし――」
 セイバーが言葉を挟んだ。蒼い双眸は、敵手を目の前にしたかのように鋭い。
「闇男爵がこのまま手をこまねいているとは思えません。今、この瞬間にも策を弄していると考えるべきでしょう」
「同感ね。やられたらやりかえす、どころか数倍にして返すタイプよ、あれ。倫敦が取り返されるを指をくわえて見ているだけのはずがない」
 そのことには確信があった。
 闇男爵は魔術師である。そして、魔術師は極度に個人主義的、言ってしまえばエゴイスティックな存在だ。自分を鑑みても、己の領域や目論見を侵犯された場合には、偏執的なまでの情熱をもって抵抗するものである。あの魔人が黙って泣き寝入りするはずがなかった。今頃は、根城で次なる策を練っていることだろう。
「リン、起きたか」
 店の奥へと通ずる扉を抜けて大柄な男が顔を出す。アッシュだ。いつもながらTシャツにジーンズとうざっくばらんな姿がよく似合う。引き締まった上半身は見事だが、起き抜けには少々暑苦しい。
「あら、あなたもいたの」
「アパートが壊れたからな。ベッドを借りた」
「仕事は?」
「街がこれだぜ?」
 肩をすくめた。大袈裟なリアクションだが、この男がやると妙に様になる。
 揃ったね、とソフィアが肩越しに言った。指先で煙管を回し、すいとくわえる。
「しばらくは静観するといいよ。軽く夕食でもとるかい」
「そうね。さすがにお腹ぺこぺこよ」
「ソフィア、私もお願いします」
「俺の分もな」
「はいはい。それじゃお嬢さん、台所は奥だからよろしく頼んだよ」
「私がやるの?」
「当たり前じゃないか。こちとら大家でも管理人でもないんだ。寝場所を提供してるだけ有り難く思って欲しいね」
「仕方ないわね。食材はある?」
「一通り揃ってるよ。キッチンは突き当たりの右手だ」
 自分も含めて四人分か。多少手間だが、無為無職の居候扱いは凛の望むところではない。得意料理といえば中華だが、材料があるかどうか不安だ。軽いサラダと肉料理でも用意しようと決める。
「じゃ、支度するから少し待って――」
 刹那。
 ぞくりと。
 全身が震えた。
 肌が粟立つ。
 腹から何かが遡り、悪寒が走る。体中の毛が逆立ちそうだ。神経が悲鳴を上げ、魔術回路がうなる。
「セイバー!」
 反射的に叫んでいた。
「わかっています。リン、これは……!」
「こいつぁ……ちょいと笑えないね」
「おい、どうかしたのか?」
 セイバーも、ソフィアまでもが顔を引き締め宙を睨んでいる。一人アッシュだけがわけもわからず口をぽかんと開けていた。
 ごくりと息を呑む。その音が、やけに大きく聞こえる。
 僅か一秒。時間にすれば刹那とも言える。
 それだけの間に、凄まじいまでの魔力が倫敦を覆い尽くしていた。


40


 同刻、倫敦近郊、ヒースロー空港。
 空港は騒乱の極みにあった。ロビーには人が溢れかえり、座るどころか立つ隙間もない有様だ。耳をつんざく怒号と悲鳴とが絶え間なく響き、親とはぐれた子供が泣き叫ぶ。
 英国一の国際空港は喧噪と狂乱の渦中にあった。倫敦から国外へと逃げようとする人々が一時に集中した結果だ。
 当然といえば当然の有様だろう。倫敦は今や死の街なのだから。
 絶え間なく銃声が鳴り響き、頚部や胴部を噛み砕かれた屍体が路地裏に転がっている。大通りには生ける屍が獲物を求めてうろついている始末だ。人間が住まうべき世界ではありえない。今すぐ脱出したいと思うのが普通だった。
 飛行機の出立時間を示す表示板の下など、人が密集して一箇の塊となってしまっている。どこでもいい、とにかく倫敦から離れたいと願う人々が熱い視線を送っていた。けれども、表示板に並ぶのは、ただただ"Please wait"ばかり。
「お客様にお知らせ申し上げます。現在、当空港は霧のため全面的にフライトを見合わせております。今しばらくお待ち下さいますよう、お願い申し上げます……」
 無機質なアナウンスにざわめきが巻き起こる。誰かが舌打ちをし、罵声をあげた。
 ひとしきり怨嗟の声があがり、徐々に静まってゆく。蔓延する不安に、人々の神経がささくれだつ。
 不満が暴動にまで発展しないのは、ひとえに倫敦が霧の街であり続けたからだ。霧によるフライトのキャンセルなど日常茶飯事であり、大半の住民はそれに慣れきっている。だからこそ、混乱も不平不満程度ですんでいるのだろう。
 そう、こんなのは普通だ。
 いつものことなのだ。
 霧が晴れればどうにかなると誰もが思っていた。本来ならその考えは正しい。どんなに深い霧もいつかは拡散し、消えて無くなるだろう。
 ――自然界の霧ならば、だが。


 ぷん。
 どこかで虫の羽音がした。こんな時でも平然と飛び回っているのだろうか。人間と違い、霧に視界を妨げられることも、行く先を見失うこともないのだろう。羨ましいものだと、男は煙草を手に一人思う。
 彼は個人経営の輸入業者だった。
 買い付けに倫敦までやって来たものの、この騒ぎに巻き込まれ取引は消失。国外に脱出しようとやっとの思いで空港まで辿り着いたはいいが、この大騒ぎでどうにもならない。ロビーの喧噪に疲れ、空港の外に出てきたところだった。
 それにしても凄い霧だった。ガラス越しでも相当なものだったが、直に見るとなおさら濃厚だ。伸ばした手の先がぼやけてしまうほどで空港内への通路すらおぼろである。滑走路で待機しているはずの飛行機など見えるはずもない。この様子ではフライトの再開はいつになることやら。かといって、今更倫敦に戻るわけにもいかなかろう。当面は空港での足止めを甘受するしかない。
 なんとも面倒なことだ。
 溜息をついて煙草をもみ消す。また羽音がして、首筋にちくりと痛みが走った。
 反射的に掌で打つ。ぷちりと、何かを潰す感覚があった。
 手を開き、男は訝しげに眉を寄せる。
 一匹の虫が潰れていた。
 針金のような胴部から六本の脚と二枚の翅が生えている。丸い頭には複眼と、そして細長い口吻がくっついていた。つまりは、蚊である。
 別に驚くようなことではない。倫敦にも蚊は山ほどいる。
 ただ、蚊にしては大きすぎるのだ。二センチ近くはあるだろう。普通なら大きくとも十五ミリほどだから、十倍以上か。
 刺されたあたりがぬらぬらとする。手をあてると、べっとりと赤いものが付着した。生臭く、それでいて鉄錆を思わせる匂いが鼻をつく。
 血だ。
 頸部から血が流れている。指で確かめると、刺された場所がえぐられたようになっていた。出血はこのせいか。
 男は顔をしかめる。
 何かがおかしい。
 虫さされでこんな傷になるものなのだろうか。
 おかしいといえば、さっきの蚊もそうだ。大きすぎる。あんなものは見たことも聞いたこともない。巨大生物が群れなしていた古代ならともかく、ここは21世紀の英国である。
 不安が胸の内に広がってくる。
 見知っているはずの街で道に迷ってしまった時のような、どうにも落ち着かない曰く言い難いそれ。
 胸騒ぎがおさまらない。どうにも嫌な予感がする。
 多少混雑していても空港内にいた方が良さそうだ。そう判じ踵を返そうとした時、彼の聴覚は耳慣れぬ音をとらえた。
 また、羽音が近付いてきている。それも一つや二つではない、無数のものだ。
 音色は一様ではない。リズムも、テンポも、ボリュームもまばらであり、全くといっていいほど統一性が無かった。羽音は雑多に混濁し不快な音調を生み出している。指揮者不在のオーケストラが各自好き勝手に楽器を奏でているかのようだ。
 これから見るものを半ば以上予期しながら、男は目を凝らす。
 虫だった。
 霧の彼方から虫たちが押し寄せてきている。
 茶色の甲殻がてらてらと光る甲虫類や密集したせいで団子状になってしまっている蝿の群れが宙を飛び、無数の脚部をうぞうぞと蠢かす百足が壁を走る。地面を埋め尽くすのは触角をざわめかしきいきいと啼くゴキブリだ。狂おしいまでの大量発生である。
 異常なのは量だけではなかった。虫たちがやけに巨大なのだ。小さくとも数センチ、個体によっては数十センチはある。自然界ではありえないサイズだった。
 爆走した自動車もかくやという勢いで群れが迫ってくる。瞬きを一つするたびに視界内の大きさが膨れあがっていた。たちまちに、目の前に迫ってくる。
 ――まずい。
 逃げようと身を翻した時には、もう手遅れだった。
 複眼が霧を透過した街灯を反射し光る。野生の殺意と、何より圧倒的な餓えがそこには宿っている。飛び、這いずり、走り来たる虫たちは一瞬にして男を飲み込んだ。
「……! …………!!」
 口に飛び込んできた蜻蛉が喉を塞ぎ、顔面に貼り付いた蛾が呼吸を妨げる。悲鳴は押しつぶされ、ただくぐもった呻きとなるだけだ。
 蟷螂の斧がスーツの端を切り裂いた。切り口から百足と芋虫と蟻とが這い上がってくる。
 ちかりとした痛みが走った。皮膚にまとわりついた虫たちが牙を突き立てたのだ。皮膚が破れ、血が流れ出す。Yシャツが朱に染まってゆく。
 何かが胸に噛みついた。ぶちりと、肉が勢いまかせに噛みちぎられる。形容しがたい激痛に男は悶絶するしかなかった。血を流しすぎたか、視界が薄れてゆく。
 胸元に視線を投げる。かろうじて映ったのは、掌より大きい飛蝗だ。草食性ではなかったのかと、どうでもいいことをぼんやりと思う。
 足音がした。虫のやって来たのとは反対の方角からだ。
 騒ぎを聞きつけたか、空港から人々がやってくる。
 それに気付いた途端、混濁しつつある理性の欠片が警告を発した。
 近付いてくる人々の背後には、空港内へと通ずる道がぽっかりと開いている。虫たちがあそこから雪崩れ込めばどうなるか。
 肉のぎっしり詰まった空間に獣を放り込むようなものである。考えるだけで、おそろしい。
 だから、来るなと叫んだ。必死だった。
 けれども、やっぱり声は出ない。今や虫たちは気管にまで入り込み、男を内側から食い荒らしていた。鳴るのは、血の溢れ出るごぼごぼという音だけだ。
 もう何も考えられなかった。
 空港が阿鼻叫喚の地獄と化すことを予期しながら、男は永遠の眠りへと落ちていった。


 霧に覆われたのはヒースロー空港だけではない。
 英国最大規模の国立公園たるリッチモンド・パーク、王立植物園キュー・ガーデンズ、ウィンブルドンのコート……倫敦近郊は類似した現象にこぞってみまわれていた。
 異形の虫たちを内包した霧が自然界では有り得ぬ速度で沸き上がり、拡散し、英国を食らいつくしてゆく。
 俯瞰して眺めた者がいたならば、霧の発生地点を繋ぐと円状を成すことに気付いたかもしれない。いわば倫敦全体が霧に取り巻かれはじめていたのだ。
 街そのものをすっぽりと覆い尽くさんと、濛々たる霧が球状に広がってゆく――。


41


「まいったね、こいつは」
 天井を仰いでソフィアがぼやく。手元の水晶には、たった今までヒースロー空港の惨状が映し出されていた。間接的とはいえ、凛たちは惨劇を目の当たりにしたわけだ。
「霧の障壁――ね」
「ああ、面倒なことをしてくれたよ。あたしの見るとこじゃ、あれは『向こう側』から呼んだ霧だ。迂闊に迷い込めばよっぽどの魔術師でも出てこれない。普通の人間だったらどうなるかは言うまでもないさ。おまけに、中にゃ色々厄介なのが住んでるみたいだしね」
 厄介な、というのは、先ほど映っていた巨大な虫のことだろう。確かに、サイズにしても造形にしても、自然界に住まうものではなかった。大体、虫は人間にたかって肉を食い荒らしたりはしない。
「しかし、何のためにあのようなことを?」
「そこなんだがね」
 ソフィアは煙管から紫色の煙を吹き上げると、横目で凛に視線を投げる。
「お嬢さん、コンラッド・ヴァルカンのことを知ってるかい?」
「黒髪に緑の瞳をした少年、ロサンゼルスを恐怖と混乱に陥れた吸血鬼のプリンスね」
 即答するとソフィアは満足げに頷く。
「さすがに物知りだ。若い連中に爪の垢を煎じて飲ませたいよ」
「私も文献でしか知らないけどね。あの事件、協会は大騒ぎだったんじゃないの」
「そうともさ。アルバの坊やなんか顔を真っ青にしてたねえ」
 ソフィアは唇を歪め意地の悪い笑みを浮かべる。確かにあの炎の魔術師はトラブルが苦手そうだ。平時にあっては有能であろうが、ここ一番になると弱いタイプだろう。果敢な英断には程遠く、場当たり的な対応を繰り返していただろうことは想像に難くない。
 コンラッド・ヴァルカン。一説にはハンガリー王家の末裔ともされる強力な吸血鬼だ。かつてロサンゼルスに姿を現し、たちまちに市の吸血鬼の上に君臨、一帯を支配した怪物である。
「ロスでそんなことがあったのか。はじめて聞いたな」
「そりゃそうよ。公にはされてないもの。覇道財閥が随分頑張って隠蔽したらしいわよ」
「リン、その死徒と倫敦にどのような関係が?」
 困惑気に問うセイバーに、ソフィアが答える。
「コンラッドがロサンゼルスを支配したやり口だよ。あの王子様は、馬鹿みたいな砂嵐を起こしてロスを外から孤立させたんだ。あたしも色々珍しいものは見てきたが、あれだけの術は近頃ちょいとなかったね」
「なるほどな。今度は砂を霧に変えたってわけか」
「ではまさか、その死徒が」
 色めきたつセイバーを制し、凛は首を振る。
「それはないわ。コンラッド・ヴァルカンはとっくに滅んでるもの。あれほどの大物がまだ生きてたら噂にならないわけがない。けど、そんな話は聞いたこともないわ」
「ま、闇男爵が猿真似したってとこだろうね。出来るだけ大したもんだが、砂を霧に変えただけってのは芸がなさ過ぎだ」
「同感ね。美学が無いわよ」
「話はよくわからないけどよ――」
 口元を歪めるソフィアと、肩をすくめ息をつく凛。二人が魔術師の美意識を確かめ合っているところに、アッシュが口を挟んだ。
「要するに、今度もあの闇男爵って奴をぶちのめせばいいんだな」
「そうよ。何処にいるかわかれば、だけど」
「それなら心配ないよ」
 ソフィアがあっさりと言った。怪訝そうな凛に向け、ぴんと立てた人差し指を振る。
「考えてみな。いくらあいつでも、これだけの魔術をそう簡単に使えるわけがない。儀式魔術ってのは意外と面倒だからね、魔力だけならどうにかなっても道具も場所も必要だよ。倫敦のあたりでこれだけの術を可能とする土地なんざ数えるほどしかない」
「例えば、どこかしら」
「――それはね」
 ソフィアは肘をつき、薄く笑った。壁にかかったアンティークランプの炎が燃え立ち、臈たけた魔女の全身を照らし出す。灯火は室内の調度から調度へと乱反射を繰り返し、複雑な陰影の中にを白皙の美貌を浮かび上がらせる。肉感的な唇は、ただ朱い。
 ぞくり。
 凛の背筋が粟立った。唾を飲み込む音がやけに大きな気がする。隣でセイバーが身を強ばらせたのがわかった。
 やはりこの女は魔女だ。友好的な装いの下には、余人に計り知れぬ魔性が常に隠されている。薄皮一枚むけば、闇男爵以上の脅威が潜んでいるのではないか。朧に浮かび上がるソフィア・カルンシュタインは、そんな思いを拭い去らせぬほどに恐ろしく、美しい。
「倫敦塔、さ」
 囁きと同時に、深々とした響きが空気を揺らした。
 鐘の音だ。遠く、低く、水底のように澱んだ霧をくぐりぬけ陰々滅々たる鈍い音が渡ってくる。何処から響いているのか、どうやって音が伝わっているのか知りようもない。鉄錆びた音色は、鼓膜を揺らし頭蓋の中で反響する。
 倫敦塔はテムズ川の岸辺に存在する城塞である。十一世紀に征服王ウィリアム一世によって築かれ、十三世紀、ヘンリー七世の治世に完成をみた。倫敦屈指の観光地にして、王室を象徴する地でもある。
「なるほどね。確かにあそこなら霊力は十分か」
「そうなのか?」
「ええ。倫敦塔はヨーロッパ有数のパワースポットよ。今でこそ観光客だらけだけど、元々は山ほどの人を処刑した監獄で刑場だもの。怨念の量は半端じゃないわ。俗っぽい表現になっちゃうけど、心霊スポットとしてと有名なのもそのせいね。でも――」
「何か気になるかい?」
「あそこは王室が使ってなかった? 儀礼用の武器や大事な宝石が保管されてるはずだけど。警備も相当厳しいはずよ」
「倫敦がこの有様なのに、倫敦塔だけが無事なわけがないよ。結構な呪物や魔導書も保管されてるはずだし、あたしが闇男爵なら真っ先に狙うだろうね。ついでに言うと、警備は問題にもならない。腕っこきの魔術師一人で十分さね」
「アンチクロス、ティトゥス」
 セイバーの呟きに凛は眉をしかめる。なるほど、あの化け物サムライなら、警備兵ごとき数秒とかからず片付けてしまうだろう。
「この騒ぎはね、言ってみりゃ魔術師と魔術師の戦争だ。そして、戦争じゃあ兵站の多寡が勝敗を分ける。倫敦塔なんていう絶好の龍脈を放っておくわけがないよ」
「万が一、倫敦が完全に封鎖されたら――」
「『向こう側』の化け物やら、墓から湧き出た歩く屍やらがわらわらと街に溢れる。そうなりゃ終わりだ。言ってみりゃ完全な異世界になるようなもんだね。正直あたしでも手に負えない」
「リン、ここで議論をしていても仕方有りません」
 腕を組んで考え込む凛に、セイバーがきりりとした眼を向けた。背筋を伸ばし、すっくと立ち上がる。
「行ってみればわかることです。急ぎましょう。これ以上あの魔術師をのさばらせるわけにはいきません」
 表情が一変していた。碧眼は鋭く光り、その面貌には何事にも動じない沈着と戦への昂ぶりとが同居している。そこにいるのは、人形のように可憐な少女ではない。故国を案じる一人の騎士王だ。
「アッシュ、あなたはここで――」
 振り向きざまセイバーが一瞥すると、かつての戦友は大袈裟に肩をすくめる。
「待ってろ、なんて今更だな。付き合うぜ。今からアパートに帰るわけにもいかないしな」
 セイバーはわずかに言い淀んだ。逡巡したと言って良い。ここまで関わってきているとはいえ、アッシュはあくまで一般人だ。そんな彼を、これ以上の危険に巻き込むことを案じたのだろう。
 だがそれもわずかのこと。すぐに
「感謝します、友よ」
 深々と頭を下げた。アッシュが不敵な笑みを浮かべる。
「話はまとまったようだね」
「まかせておいて」
 ソフィアが椅子から身を浮かせ、凛は壁にかけられた外套を手にする。
 セイバーとアッシュを引き連れ、いざ倫敦塔へ征かんとした時――
「少々お待ちいただけるかな?」
 鼻にかかった声と共に、扉が開いた。


42


 入ってきたのは一人の青年だった。
 金髪碧眼の美貌、時代がかったマントとシルクハット。アルバだ。
「ミス・トオサカ。勝手なことをしてもらっては困る」
 扉の閉まる音にタイミングあわせ、両手を大きく広げる。芝居がかった仕草に凛は眉をひそめ、見返した。
「――どういうこと?」
「どうもこうもない。言葉通りだよ。この件は今後、我々があずかる。君も協会の一員だろう。独断専行はつつしんでくれたまえ」
「話がよく見えませんね。説明していただけますわね、ミスタ・コルネリウス?」
 悠揚迫らぬ優雅な物腰で問いかける。口調まで変わっていた。こうなると完璧なお嬢様だ。だが衛宮士郎ならば、その笑顔がひきつり、こみかみが震えていることに気付いただろう。
「わからないのかね? まったく、これだから……」
 アルバは鼻を鳴らし、口元を歪めた。
「本来ならそんな義務はないのだが、まあよかろう。いいかね、協会の本分は神秘の隠匿だ。だがね、かの闇男爵は気にもかけず好き放題に振る舞っている。自分から神秘の宣伝をしているようなものだよ。このままでは協会そのものが危急存亡の危機だ。今や我々は一丸となって奴にあたらなければならない」
「だからこそ、放っておくわけにはいかないのではありませんか」
「君は本当に考えが浅いな。闇男爵が何をしようとしているか知らないのかかね」
「異界の霧による都市の封鎖だろ。今更何を言ってるんだか。百年遅いよ」
 ソフィアがカウンターに肘をつく。
「まったく、ちょいとはマトモになったかと思ったけど、見込み違いだったかね。坊やは坊やってことか」
「御老体は黙っていていただきたい。これは協会の問題だ」
 すべなく言い放つアルバに、ソフィアは鼻を鳴らす。こりゃ駄目だ、とでも言いたげだ。それきり口をつぐみ、椅子にもたれて煙管に専念し始めた。香木のような芳香が空間に充満してゆく。
「時間がないのはおわかりでしょう、ミスタ・コルネリウス。倫敦が完全に封鎖されるのは間近です。そうなったら、私たちにはどうすることも出来ない」
「逆だよ」
「逆?」
 訝しげに鸚鵡返しする凛を、アルバは冷たく見やる。
「協会としては、霧が倫敦を閉ざすまで静観するつもりだ」
「なん――ですって?」
 凛が眼を見開いた。握りこまれた拳が震える。そんな様子を意に介さず、アルバは淡々と話を続けてゆく。
「いいかね、神秘に関わっているのは魔術協会だけではないのだよ。これほどの騒ぎだ、聖堂教会やアトラスの院が知らぬ顔を決め込んでいるわけがあるまい? 事実、ミスカトニックや覇道のエージェントをすでに確認している。下手に動けば、協会への攻撃材料を彼らに与えるだけだ。迂闊なことはすべきでない」
「この期に及んで権力ゲームかい」
「駆け引きと言っていただきたいね」
 口調も態度も悠揚迫らぬものがあった。ソフィアの茶々を意に介する様子もない。
「だから、闇男爵を野放しにする、と?」
「誰がそんなことを言ったかね」
 アルバは凛を横目で見やる。その目つきは蔑むかのようだ。
「神秘の隠匿という大原則を侵す者を放っておくわけがなかろう」
「だったら、すぐに――」
「まあ落ち着きたまえ」
 くってかかる凛へと手を振ると、アルバは餘裕綽々と語り続ける。
「闇男爵をこちらから攻めるのも結構だ。何とか追い込むことも出来たとしよう。だがね、その後、万が一取り逃したらどうなると思うかね?」
「それはまあ……次の拠点を探して新しい計画を練るでしょうね」
「その通り。魔界都市<新宿>、魔界村コダイ、狂乱都市アーカム、華の都巴里……身を隠すに格好の魔都は幾らでもある。認めたくはないが、闇男爵は化け物だ。ひとたび姿を消せば、協会の総力をもってしても発見は困難だろうな」
 凛は不満げに唸った。
 筋が通ってはいる。
 けれども、話の流れが見えない。逃したら今度こそ見つけるのが大変、だけでは座して動かぬ理由にはならなかろう。
 口を開きかけた凛を制し、アルバは一際声を張り上げた。
「この霧は、倫敦を閉ざすためのものだ。東洋風に言うなら結界というわけだな。そして、この種の巨大な結界というのは諸刃の剣なのだよ。倫敦が完全に閉鎖されれば、闇男爵といえど入るも出るも不可能だ。そうなり次第、協会の全力をもって排除を行う。いざとなれば執行者の招集もためらわん」
 なるほど。
 そういう――ことか。
 苛立ちを押し隠しながら、凛は低い声で問う。
「今は下手に手を出さず、安全確実な方法を選ぶ。そのためなら倫敦にどれだけ犠牲が出ても構わない、と?」
「我々も心を痛めているよ。だがね、これは決定事項なのだ。書面も作成してある」
 揶揄を聞き流し、アルバが懐から一枚の紙を取り出した。古ぼけた羊皮紙だ。ラテン語で綴られた文面の後に、名だたる魔術師たちのサインがある。協会の幹部のものだった。無論のこと、コルネリウス・アルバの名もそこにある。
「よって今後、本件は魔術協会の管轄となる。おわかりいただけたかな、ミス・トオサカ?」
「わからないわね」
 即答にアルバの頬が引きつった。口元の得意げな笑みが固まり、笑っているとも怒っているともつかない中途半端な表情を形作る。キノコを思わせる髪型のせいもあって、喜劇役者か何かのようだ。
「冗談じゃないわ。計画が杜撰なのはいいとしても、甘く見過ぎよ」
 闇男爵の呪力は桁外れだ。人間のものですらない。実際に戦った凛にはそれが痛いほどわかる。油断も何もない、完全に本気の闇男爵を相手にすれば協会全体ですらかなうかどうか疑わしい。
 そもそも、本当に人間なのかすら疑わしいのだ。先の一戦、最後の最後に見せた混沌に染まったあの姿。あれはまさしく、人外の化生のものだ。
 勝負をかけるなら今しかなかった。
 こちらが疲弊しているのと同様、闇男爵も本調子ではないはずだ。何といってもエクスカリバーの直撃を受けているのである。今に限って言えば、勝算は薄いものの絶無ではない。
「き、君は自分が何を言っているのかわかって――」
「坊や」
 ソフィアが煙管を手元に置き、呼びかける。予想外の答えに狼狽していたアルバは助けの船だとばかりに見やった。
「丁度いい。貴女からも何とか言って」
「悪いが、あたしはお嬢さんに賛成だ。悠長に構えてると取り返しのつかないことになるよ」
「御老体!」
 アルバの叫びは悲鳴にも似ていた。
 凛からソフィアへ、ソフィアからセイバーへ、セイバーからアッシュへ、そしてまた凛へ。
 意味もなくきょときょとと視線を移す。何とも挙動不審だ。店に入ってきたばかりの自信満々の姿が嘘のようだった。
「ミ、ミス・トオサカ」
「何」
「いかに冬木の名門といえど、協会の意向に反してどうにかなると思っているのかね?」
「まさか。そんな甘い組織じゃないでしょ」
「理解しているじゃないか。なら」
「どうにかなる、じゃなくて」
 凛は腰に片手あて、目を細めて口元を吊り上げる。
「どうにかする、のよ」
 不敵な言葉と仕草に、アルバが硬直した。ぴしりという効果音まで聞こえてきそうだ。体の動きが壊れかけた機械のようにぎこちない。
 一分はそのまま固まっていただろうか。
「……君は何もわかっていない」
 絞り出すように言った。
 低い声はかすれ、途切れ途切れだ。歯軋りまで聞こえてきそうだ。
「わかってないのはそっちでしょう。闇男爵は人間じゃ、いえ、魔術師ですらないわ。とにかく急がないといけない。時間を与えるべきじゃない」
「そんなことは承知している!」
 凛を遮り、アルバは叫んだ。慌たたしげに手をばたばたと振る。アングロサクソン特有のミルク色の肌が朱に染まり、こめかみが連続的に痙攣する。
「いいかね、闇男爵は化け物だ。怪物だ。執行者を送っても心許ないほどなのだよ。わざわざ死にに行くつもりか、君たちは!」
「そんなつもりはないわ。ただ」
「ただ、何だね」
「行かなきゃいけない時がある。やらなきゃいけないことがある。それだけよ」
「……っ!」
 きっぱりと言い切り、真っ直ぐ見据えた。アルバが気圧されたように数歩下がる。
「炎の魔術師よ」
 セイバーが一歩進み出、言葉を続けた。
「我が剣はただ主のためにある。主が正しき行いを望むならば、私は騎士の誇りをもって其を為すのみ。道を阻むというならば容赦はしません」
「さあ、どうなさいます、ミスタ・コルネリウス!」
「くっ……」
 凛とアルバの視線がぶつかり合う。火花が散るどころではない。空間が弾ける錯覚すらおぼえるほどだ。
 口を開くものは誰もなく、魔術師二人の意地と矜恃がぶつかりあう。
 そのまま数秒は睨み合っていただろうか。
 不意に、アルバが溜息をついた。肺腑の底から絞り出したように重い溜息だった。
 シルクハットを投げ捨て、頭をかきむしって何度も何度も首を振る。まったくもう、これだからと繰り返し呟いている。
「――行きたまえ」
「え?」
「行けと言っているんだ。私がここに着いた時は君たちはもういなかった。それでいいだろう。まったく、アオザキといいトオサカといい、女の魔術師というのはどうしてこう……」
「苦労するねえ、坊やも」
「貴女もだ、御老体!」
「こいつぁ失礼」
 怒声にくすくすとソフィアが含み笑う。その笑みがどこか嬉しそうなのは、決して気のせいではあるまい。
「でも、それじゃあ貴方が――」
「今さら何を言っているんだ。気を使うには少し遅いよ」
 アルバは苦笑した。
 苦々しい、けれど、凛が今まで見たこともないほど気持ち良い笑みだった。
「私の方はどうとでもなる。もっとも、他の連中がどう考えるかは知らんがね。上手くは言っておくつもりだが、いい反応は期待しないでくれたまえ。全てが終わっても、審問は免れないかもしれんよ
「覚悟の上よ」
「そうか」
 アルバは目を瞑り、凛に背を向けた。
「ならばもう言うことはない。さあ、どこへなりとも行きたまえ。いつ私の気が変わるかわからん」
 それきりアルバは黙った。何一つ言おうとせず、背中を見せるだけだ。
 その背中に何か言葉をかけたい衝動にかられる。
 しかし、それは出来ない。余計な言葉を口にするのは、アルバの気持ちを裏切るのと同じだろう。
 だから、凛はただ深々と頭を下げた。それだけだった。
 胸を張って堂々と扉を抜け、夜の街へと消える。セイバーとアッシュも後に続く。
 三人はたちまち濛々たる霧に飲み込まれ、消えていった。


43


 倫敦塔は闇に包まれていた。あらゆる灯りは濃厚な灰色の霧に阻まれ、減衰し、消え去ってしまう。ソフィアに借りたカンテラだけが頼りだ。どんな仕掛けを施しているものか、この霧にあっても十二分なだけの視界を確保してくれていた。
 他者の気配は絶えてない。四六時中詰めているはずの衛兵隊、通称ビーフィーターも一人とて見当たらない。
 ひゅん、と。
 凛の目の前を何かが横切る。
 蝿だ。蝿といっても、大きさが十センチほどあり、口吻に牙が生えてはいるのだが。
「向こう側、ね……」
 憮然として呟く。歩く屍に加えて、こんな異常な生物が闊歩しているのだ。倫敦は既に人外魔境となっているかもしれない。
 ミドルタワーと呼ばれる門をくぐりぬけ、石の路を進む。霧の中、左手に浮かび上がるのは倫敦最古の礼拝堂たるセント・ジョン礼拝堂を擁するホワイトタワーだ。外も内も純白の塔は蜃気楼のようにおぼろである。白亜の城は造築以来倫敦塔の中枢であり続けている。おそらく、闇男爵はそこにいるのだろう。
 傍らに流れるテムズ川はしんしんと静まりかえったままだ。行き交う船もなく、冷たい夜風がさざ波を立てる。水跳ねの音が不安を誘った。
「こっちだ」
 地図を手にしたアッシュが道を示す。誘導に従い左折すると、ブラッディタワーの威容が目に入ってきた。貴族や反逆者の処刑に使われ、エドワード五世が幽閉されていたとも伝わる曰く付きの塔だ。
 ブラッディタワーは、倫敦塔の内部に入る門の役割も果たしている。格子扉は吊り上げられ、ホワイトタワーへの道を開いていた。格子扉の下端は杭のように研ぎ澄まされており、どこか肉食獣の顎めいた印象を与える。
 注意を怠ることなく、門を潜り抜けるべく足を進めゆく。誰一人として口をきかない。深い沈黙の中、三人の息づかいだけがやけに大きく響く。
 ぐにゃり。
 ふと、凛は足元に奇妙な感触をおぼえた。
 何だろう、と見下ろし
「……うわ」
 顔をしかめてしまう。
 石畳に転がっているのは、カラスの屍骸だった。
 ワタリガラスだ。ワタリガラスは英国のシンボルとされ、ここ倫敦塔で五羽が常に飼育されている。その全てが、無残にも息絶え打ち棄てられていた。
 奇妙なことに、外傷も何もない。霧に潜む「何か」に襲われたわけでもなさそうだ。伝染病か何かで頓死したのだろうか。あるいはそう、殺気そのものにあてられて気死したかのような――
「リン」
 張り詰めた声がした。鎧姿のセイバーが足を止め、じっと見つめている。その顔はいつになく険しい。
「先に行ってください。すぐに追いつきますから」
「え、でも――」
「わかった。先に行くぜ」
 急なことに戸惑う凛を余所に、アッシュが即断した。
「ちょっと、アッシュ!」
「何かいるんだろ。俺たちには気付けない何かが」
 セイバーは答えず、ただ虚空を睨み据えている。その姿が、何よりも雄弁に答えを語っている。
 凛は一瞬迷い、すぐに決断する。
 悩んでいる暇はない。ここで時間を無駄に消費するわけにいかないのだ。
「セイバー」
「はい」
「ここは頼むわ」
「任せてください」
 力強い笑みを浮かべ、主従は頷きあう。
 それ以上言葉はいらなかった。一度も振り向くことなく、凛はアッシュと共に一路ホワイト・タワーへと駆けゆく。
 目指すはただ、闇男爵のみ――


 霧の彼方を目指し、凛とアッシュが走り去る。
 セイバーは塔に背を向け、二人を見送った。やがてその姿は霧にまぎれ、溶け込み、薄れて消える。
 それを見計らっていたかのように
「心配りに感謝する」
 声が空から振ってきた。鋼にも似た、深い渋みのある美声だ。禁欲的な求道者のものとすら思えよう。だがそこには、賢人の智恵も聖者の悟道もない。厳然としているのは、己が欲望を貫徹せんとする巌のような意志だけである。
 振り仰ぎもせず、セイバーは背を向けたまま淡々と答える。
「やはり貴方でしたか」
 ぼ、と。
 炎が一帯を照らし出した。
 いつの間に用意しておいたのか、無数に並べられた篝火が一斉に吹き上がったのだ。まるで昼間のような明るさだった。セイバーの銀の鎧が煌めき、燃え立つ炎が塔の頂上に立つ影を浮かび上がらせる。
 侍がいた。
 特徴的なざんばら髪をし、着流すのははだけた黒のコート。左の袂がぶらぶらと揺れている。夜風が絶え間なく吹き付けるも、男の周囲だけはどうした訳か常に凪いでいた。懐手をしたまま瞑目し、黙然と佇んでいる。
「――ティトゥス」
「待ちかねたぞ、騎士王よ」
 コート姿がゆらりと蠢く。次の瞬間
「――っ!?」
 セイバーの表情が驚愕に歪む。
 眼前にティトゥスが現れたのだ。気配の一端すら察することが出来なかった。
 時代錯誤な侍は両眼を閉じ、ただ立っている。いかなる衒いも、殺気すらも見受けられない。そこに居るのは、死合に望まんとする一介の剣鬼だ。
「問答は無用、ということですか」
「然り。我らが要するは言葉にあらず。そうであろう、アルトリア・ペンドラゴン?」
「――承知」
 セイバーが下段に構えた。風が渦巻き、不可視の鞘と刀身を形成する。
「アンチクロス、ティトゥスよ。貴方の覚悟に敬意を表する。我が剣と誇りにかけ、全力でお相手しよう」
「感謝する」
 肉食獣を思わせる双眸が開く。
 首と肩で鞘をはさみ、隻腕の魔人は刀を抜き払う。
「我が刃はただ対手を殺めるためだけにあり。鬼に逢うては鬼を斬り、神に逢うては神を斬る修羅の剣、見事受けてみるがいい」
 セイバーの口元が引き締まった。
 ティトゥスの唇が酷薄に歪んだ。
「元逆十字、ティトゥス――いざ、まいる」
 英霊と魔人の死闘が、はじまろうとしていた。






 ⇒ to be continued in Chapter - 19



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