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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-13
倫敦崩壊 〜 Collapsed
London
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25
人が敢えて魔所へと踏み込むのは何故だろうか。
気の迷いか。
否。
魅入られてか。
やはり否。
好奇の念、一時の熱狂なぞ、誘因の切欠にしかなり得ない。裏道横道間路小路と、わざわざ表通りを避け行く経験は誰しもが持つものであろう。でなければ、上海を引くまでもなく、魔所があれほど肥大化するはずもない。
煎じ詰めれば人は己が意志で狭間へと踏み入ると言える。捕らわれると判っていながらも、蜘蛛の織り成す網へと身を委ねてしまう。ジャン・バルジャンが身を潜めたのは、巴里の大下水道ではなかったか。
なれば、魔の集う都市に、人が引き寄せられるのは道理である。
すなわち、魔界都市<新宿>。
すなわち、狂乱都市・アーカムシティ。
そして。
幻の四輪馬車が霧の街路を走り抜け、ディオゲネスの諜報員が少女吸血鬼と邂逅し、ベイカー街の探偵がガス燈に浮かび上がり、バネ足の殺人鬼が闇に跳梁する魔都――倫敦。
其処では人と妖と神と魔とが、愛憎混じりに笑い、泣き、走り、生き、やがて死ぬ。そこに生ずる暗く妖しい輝きこそ、都市があらゆるものを誘引する秘密であろう。
斯様に、魔都は常に希求される存在である。
人は魔に魅せられる。魔は人を愛する。だからこそ、人と魔とは共存することが出来るのだ。
<新宿>のように。
アーカムのように。
だが。
死と生とは対立項である。此岸と彼岸は分かたれているからこそ両立しうるのだ。アケロンや三途の川が渡し守を必要とするのは偶然ではない。エジプトでもイタリアでも、死者の都は敬して遠ざけられる禁断の地であった。人は魔と共存できても、死と常に寄り添うことは出来ないのだ。
それこそが理である。そして、理は破られるからこそ理たり得るのだ。
この日――魔都において禁は破られ、倫敦は屍都と化そうとしていた。
***
女には、何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
いつもと変わらぬ一日だったはずだ。
ルマン・ストリート裏の安アパートで目を覚まし、コーヒーとクリームチーズで朝食を済ませる。クリーニングから戻ってきたばかりの冬物仕立てのスーツに着替え、マルベリー学校裏の小さな事務所に出勤。早晩まで秘書を勤め、雇い主に挨拶して家路につく。
刺激はないが、不安もない。退屈で冗長だが、波風の立たない平穏な日々の暮らし。それこそが女が望み、手に入れている日々だった。
このまま時は過ぎてゆくのだろうと、そう信じていた。
そのはずだった。
――目の前で、血潮が宙を舞うまでは。
「――え?」
思いもかけぬ光景に、ぽかんと口を開けてしまった。唇の間から、呆けたような声が漏れる。緊張感の欠如した声だった。
それは当然の反応であったろう。
住処のアパートまで後数分、ルマン・ストリートの中心点なのだ。変事など起きるはずがない、何かあるなど信じられない馴染みの道なのだから。
そんな場所で、目の前を歩いていた男性の首筋から血が噴き出したのだ。間の抜けた面をしてしまうのも当然だった。
悲鳴も出てこない。ただ茫然として眺めていることしか出来ない。そのせいか、目の前の情景は、霧の中でやけにくっきりと浮かび上がっているようだ。
男性の頚部に突き刺さっているのは、鋭く尖った五本の爪だ。鋭角的な先端が、ぎらりと燈を反射する。長いこと手入れされていないのだろうか、爪の表面はぼろぼろで、周縁もあちらこちらが鋸状になっていた。挟まりこびりついているのは、黒にと変色した液体だ。鉄錆の匂いがむんと鼻をつく。
男は白目をむいて、ごぼごぼと泡を吹き出すような音を立てていた。肺腑から血が迫り上がってきているのだろうか、男は痙攣する度に血の塊を吐き出し、足下に赤い水たまりを形作っていた。
「……何、これ」
ずい。
女の声が合図になったかのように、爪がゆっくり引き抜かれた。歯止めを失った血が頸動脈から噴水のように涌き出た。水たまりが大きく広がり、飛沫が女の肌と服とを朱に染めてゆく。
男がゆっくりと道路に倒れてゆく。天を仰ぎ、重力に従って地べたに向かうのがやけに遅く思える。コマ送りの映画のようだ。
どさりと。
重い音、そして静寂。
一拍置くと、つい先程まで男だったものが地に転がっていた。紅い水たまりの中に寝そべったそれはぴくりとも動かない。眼球がぐるりと半回転し、白目が恨めしげに女を睨んでいた。
「何、何なのよこれ! おかしいわよ!!」
絶叫。
何なのだ。
一体何が起こったというのだ。
テロか。
通り魔か。
殺人鬼か。
倫敦だからといって切り裂きジャックでもなかろう。ジャックならその渾名通りに切り裂くはずで、突き刺しはしない。第一、得物は爪ではなくナイフでなくてはならない。
埒もない思考が頭の中を駆け回る。助けを求めてあたりを見渡すも、自分と倒れた男以外に人の姿はない。
警察を呼ばなければ。
いや、その前に救急車だ。ああでも、男を突き刺していた爪の持ち主がいる。少しでも身動きをしたら、凶器が自分へと向けられるような気がする。
ぐるぐると思考が堂々巡りをする。自分の口が、湖面の魚のように開閉を繰り返しているのがわかる。
そのまま立ち竦んでいれば、第二の犠牲者となるのは時間の問題だったろう。
自失に陥ることなく霧の向こうへと注意を向けたのは、本能の為せる業だったかもしれない。
一年を通し街を覆う乳白色の気体。彼方を覆い隠し、此方を際だたせる倫敦の霧。
其の向こうに、何かが居る。
ひた、と。
ひたひたと。
コンクリートを水に濡らし、一歩ずつ近寄ってくる。
霞がかって見えるのは、露にびっしょりと濡れた人影だ。街燈のぼやけた光に、人影が浮かび上がった。
――人影?
一応はそうと呼べるだろう。
身体が斜めに傾ぎ、衣類の切れ端をだらりと引きずり、水と露と赤い何かをぽたぽた垂らす姿を、人と認めるならばだが。
ひたり。
影が女に向かい、また一歩踏み出した時。
女は甲高い悲鳴を上げ、ただ闇雲に走り出していた。
***
イースト・エンドは阿鼻叫喚の魔所へと一変していた。
街路はガラスの破片と血、そして肉片で覆われている。鉄錆の臭いが霧に混ざり立ち込める。白い霧も紅に染まっているかのようだ。走っても走っても、目に映るのはそんな光景ばかり。まるで悪夢だ。ジョージ・ロメロやダリオ・アルジェントの世界に迷い込んだかのようだった。
右も左と血と肉ばかり。大通りを覆い尽くす霧の中では、両の手を突き出した人らしき何かが唸りを上げながらうろついている。
そんな通りを迂回し、石造りの住居の狭間を走り抜け、子供の頃以来の裏道を通り過ぎ、階段を三段飛ばしに駆け降りる。
辿り着いたのはフェンチャーチ・ストリートだ。セント・マーガレット・バテンズ教会を取り巻く壁に手をつき、ぜいぜいと荒い息を整える。
――どうなっているのだ。
何度目かも解らぬ問いを繰り返す。死臭と血流に満ちた都市は、映画や小説でお馴染みの題材だ。娯楽作に用いるには恰好の舞台であろうが、いざ当事者となってみるとこれほど呪わしいものもない。
何にせよ、体力は限界に近い。心臓は波打ち、血臭を嗅ぐたびに胃は縮み、走り続けたせいで足は攣る寸前だ。
少し休んで――と腰を降ろしかけた時。
かあ。
かあ、かあ。
鋭い鳴き声が宙を裂いた。
反射的に身をすくませ、顔を上げて辺りを見渡す。
声の主は、教会の尖塔で羽を休めていた。
鴉だった。
無数の烏が、塔の先端を埋め尽くしているのだ。白く美しい壁が、一面黒と染まってしまっている。
もう宵の口だというに、鴉たちは羽を折りたたんで一帯を睥睨していた。闇に溶け込むその姿は禍々しく、死神の使いのよう。無感情な瞳が光り、虎視眈々と周辺をうかがう。奴らが狙っているのは己の肉ではないかと、そんな想像が頭をよぎる。
無論、それは恐怖心が拡大され反映された根拠もない思いこみにすぎなかろう。鴉が人を襲うという話は時折聞くが、それとて食事目当てではあるまい。
だが、梟ならばともかく、夜の街を鴉が舞うとはそれだけでも尋常ではなかった。そもそも、倫敦がこの有様なのだ。ヒッチコックの映画が現実化しても、驚くことはないだろう。
――ここも、落ち着ける場所じゃない。
意を決して己を叱咤し、教会前を走り抜ける。
どこまで行かなければならないのかも解らないが、とにかく走り続ける。
右、左、直進、死骸。
左折、右折、また左折、また死骸。
直進、直進、直進――
盲滅法に走り、危険そうな場所を避け行く。その内に、名も、番地もわからなくない通りへと駆け込んだ時。
どん、と。
急に強い衝撃が襲ってきた。
「……っ……」
呻いてたたらを踏み、二、三歩下がる。
じんとした痛みが骨に伝わる。壁にでも突き合ったのだろうか。
走り続けたせいか、それとも濃霧のせいか、目を見張っても視界はどうにもぼやけてしまう。眼鏡にいつの間にかヒビが入ってしまったせいでもあろう。近視の両眼をこらすと、視野が少しだけ明瞭となる。
数歩先に佇んでいるのは、人らしき姿だった。
小さな、頼りなげな、ゆらりゆらりと揺れる矮躯。端々が擦り切れたシンプルな上着と、古風なフレアのスカート。
見た目から老婆であろうかと、女は見当を付けた。まだ距離があるせいではっきりと姿をとらえることは出来ないが、尋常の態とも見える。
「もしかして――」
生存者がいたか、との思いに声が口をつく。
独り言であり、僅かな囁きだった。聞こえるはずもない小声だった。
だが、老婆らしき姿は、女の声に反応したか、靜かに顔を上げた。驚くべき聴覚だった。
壊れかけ、不規則に明滅する街燈のせいで、肝心の顔の細部は影となって良く見えない。
見定めようと踏み出して。
女は凍り付いたように足を止めた。
ふと気付いたからだ。
今、ここ至るまで、生きている人間には一人とて出会わなかった。見かけたのは、屍体、半分屍体、生きている屍体。いずれにせよ、此岸の理を外れてしまった存在だけだ。
ならば。
この老女が、常の生者である道理は無いのではなかろうか。
そこまで思い至った時。
月を覆っていた雲間が晴れた。
街燈が明滅を終え光を灯した。
冴え冴えとした月光と街燈は一帯をまばゆく浮かび上がらせ、影を取り払う。
老婆が――いや、それが灯りの下、はっきりと照らし出された。
それは。
老女であって老女ではない。
人間であって人間ではない。
枯れ木のような細腕は窪んだ眼窩からは、一筋の白い糸がぶらさがっている。糸とばかり見えたのは視神経だ。その束が所々を紅に染め、眼球を支え垂らしていた。風につられて、ぶらぶらと目玉が揺れ動いている。
上品な口元は赤く染まり、肉の塊とズボンの端らしき切れ端をくわえていた。
「ひっ――!」
悲鳴にもならぬ悲鳴が漏れた。
逃げなければ。
走り詰めのせいで膝はがくがくするし息は荒いし手足は重いが、それでも逃げなければ。そうでなければ、殺される。
理性はそう告げるものの、本能は思考を裏切り、両の足をすくませる。とにかく己を叱咤し、地面にへばりついた足を持ち上げ、背を向けて走り出した。後背から襲われるということも考えなかった。
同時に、地を蹴る音。
老女が跳んだ。いや、飛んだ。
地の一蹴りで女の頭を飛び越え、目の前に着地する。顔を突き出しスーパーの品定めのように女をじろじろと見回した。吹きかけられる息は、墓地の泥土のように死臭を孕んでいる。
手が伸びてきた。皺だらけの皮膚の下で、朽ちたはずの筋肉が虫のように蠢いている。
女の肩に手がかかる。それだけの仕草で、肩の骨が割れたかのような痛みが走った。軽く手を置いたとしか見えないのに、みしみしと骨が軋む。今にもヒビが入りそうだ。老女にあるまじき、万力のような力だった。
あまりの痛みに、細く長い悲鳴が口から漏れる。その音に老女は歪んだ笑みを浮かべると、ぐいぐいと手に力を込めた。鋭い爪が着衣を貫いて肉に食い込む。仕立てたばかりのスーツにじわりと血が滲む。
身をもがいて逃れようとしても、身体は上から下にがっちりと押し付けられ微動だにしない。筋肉の鎧で覆われた大男に押さえ込まれているかのようだ。
殺される。
殺される。
殺される――
恐怖の念に駆られ、身をよじり続ける。ばたばたと、両の足が地団駄のように地面を打つ。
――足?
上体はいわば抑え込まれている。体を動かすことなど出来る筈もない。だが、足だけは自由に動いてくれる。
そう気付いた瞬間、女は半ば本能的に膝を蹴り上げていた。
タイトスカートが翻った。形の良い足が跳ね上がり、老女の腹に食い込んだ。無我夢中で繰り出されたせいだろう、女の細足が生み出す力を軽く超えていた。大の男でも悶絶したに違いない。
ごすりと。
鈍く重い音が――しなかった。
代わりに伝わってきたのは、ねっとりとした柔らかい感覚。雨上がりの泥に足を突き入れてしまったのにも近い。
嫌な予感に襲われ、ゆっくりと膝を引く。
ぬる。
ねちゃ。
ぐちゃあ。
引き抜いた膝は、赤と茶とに染まっていた。腹部からは衝撃で小腸大腸がはみだし、排泄と腐敗とがない交ぜになった凄まじい悪臭を漂わせる。
今度こそ、女は大声で悲鳴を上げた。
それに応えるように、死骸たる老女が口を開いた。
ねっとりと糸が引いており、歯は全て犬歯でもあるかのように鋭い。到底老人の歯並びではなかった。
尖った歯先が頚の動脈に触れる。
かくん、と。
緊張に耐えかね、女が気を失ったのは、せめてもの天の配剤だったのだろうか。
老婆の口が勢いよく閉じられ。
頸動脈から流れ出る血が、霧の街を鮮やかに朱の緋と染めた。
26
「おやおや、血生臭いことだ。グランギニョルの大芝居、アラベスクにグロテスク。魔都も久々に大騒ぎさね――」
ワルプルギスの御老体ことソフィア・マーカラ・カルンシュタインは、遠見の水晶球から目を上げると長椅子に寝そべった。椅子の手すりの先端に彫り込まれたガーゴイルが、感情の無い瞳でソフィアを見上げている。
ソフィアはガーゴイルの口から紙煙草を取り出すと、レン高原から取り寄せた薬草を丸めて咥えた。胸元から出した燐寸で火を付け煙を吸い込むと、ドリームランド直送の刺激が程良い酩酊感を与えてくれる。
ぷうと天井に向かい煙を吐き出すと、七色に煌めく輪っかが単色の天井にたゆたい消えた。歳月のせいで薄汚れた天井の模様は、赤、青、黄と周期的に明滅しながら凝集し、また離れる。幻覚とわかっていても、なかなか楽しいものだ。
ソフィアはこのサイケデリックな眺めが嫌いではなかった。若者向けのドラッグとして売ってもそこそこいけるのではないか、などと思う時もある。気が向いたら濃度を少し落として街に流してみるとしよう。
身を半回転させ、俯伏せとなり長椅子に寝そべる。豊満な胸が椅子に押し付けられ、背中が大きく開いた上着から白磁の肌がのぞいた。
それにしても――
退屈である。
ひたすらに暇である。
客は来ない、魔導書の入荷はしばらくない、珍品名品のオークションは一月も先ときては、やることは何もない。無い無い尽くしだ。古い知り合いの医者一族や何でも屋の所へ遊びに行っても良いのだが、二人とも塒は日本である。倫敦がこの有様では、飛行機もしばらくは欠便だろう。
ビヤーキーあたりで飛んでいくのも手間だ。大混乱の倫敦にさえ出れば色々と面白いことが待っていそうだが、遠坂凛に大見得を切った手前、ほいほいとちょっかいをかけるわけにもいかない。
かといって、何もしないというのでは、カルンシュタインの名が泣くというものである。
「やれやれだ――」
大人げなく足をばたつかせ、暇だ暇だとぼやいている最中。
がちゃりと。
扉が開く音がした。すわ来客かと目を向けたが、視界は生憎と山積みの古書で遮られていた。仕方なく耳だけ欹てる。
冷やかしの客なら居留守を決め込もうかと思っていたが
「失礼する。店主殿はご在宅だろうか」
覚えのある凛とした声だったから、ソフィアは物憂げに身を起こし、売り物の山を迂回して戸口へ向かった。
戸口には二つの人影が佇んでいた。
一人は金髪の見目麗しい少女。声から想起した通り、遠坂凛と共に来店した英霊・セイバーだ。今一人は――知らぬ顔。明らかに英米人だが、ソフィアの記憶には無い顔だった。
前者はともかく、後者を一見した限りでは、ソフィアの勘働きに引っかかる点はない。つまりは魔術師や妖人魔人の類ではなさそうだ。もっとも、セイバーが連れて歩いている男である。表の世界しか知らぬ平凡人ということもなかろうが。
「おや、イングランドの王様じゃないかい。お連れさんは……見ない顔だね」
「私の友人です。それより――」
「まあまあ、少し落ち着きな。倫敦がこの有り様じゃ、無理な相談かもしれないけどね」
一刻を争うといった態の騎士王の言葉を、ひらひらと手を振って遮る。
セイバーの顔は微かに上気し、常なら沈着であろう瞳に焦りが見える。何があったかは知らぬが、気がはやっているのは一目瞭然だ。こんな様子では何をやっても上手くいくわけがない。
だから、ソフィアは二人に椅子を勧め、自分は煙管を吹かすことにした。長い生の中で彼女が学んだのは、急いては事を仕損じるということだ。目の前の英霊も相応の経験を積んでいるはずだが、元来が猛勇をもって知られた騎士であり、戦士である。戦場においては天才的な騎士であり王であるが、猪突猛進の傾向があるのもまた事実。生まれ持った性状というものは中々治らないらしい。
ソフィアは肘をつくと、何処か不満げに腰を下ろすセイバーと、意外と平然としている連れをゆっくり眺めた。
こうして見ると面白い取り合わせだ。
凛とセイバーとの関係は、親愛の情と主従関係とがない交ぜになったものだった。珍しい結びつきではあるが、似た例が皆無ということもない。ソフィアの知人にも、主従関係とも友情とも愛情とも言えぬ絆で結ばれた魔術師と異能者のコンビがいる。
だが、セイバーと青年の間にあるのは、親愛の情というよりも、同じ修羅場をくぐりぬけた戦友、別して旧友のそれだ。さらに非魔術師と英霊の組み合わせとあっては、流石のソフィアも聞いたことがなかった。
そわそわと落ち着かないセイバーはさておき、青年を見やる。
中々の好男子だ。顔の造作はそこそこというところだが、強烈な意志を宿した瞳や、全身から発散される生気が好もしい。引き締まった筋肉は、その付き方からしてトレーニングではなく実戦で鍛え上げられたものだろう。その視線は売り物やらそうでない骨董品やらが乱雑に山と積まれた店内を興味深そうに彷徨っている。
そこまで見て取ると、ソフィアは煙管を口から離すと口元だけで笑った。
「ああ、散らかってるのは勘弁しておくれな。倫敦がこの有り様だろ、客が来るとは思わなくてね、あれだこれだと引っ繰り返しちまった。どうしてもというなら片付けるけど――」
「それには及びません。今は一刻一秒が惜しい」
ソフィアの物憂げな言葉を、凛とした声音が遮る。
「じゃ、お言葉に甘えるとしようかね。さて騎士王殿、このソフィアさんにご用の向きは?」
問いながらうなじにほつれた後れ毛をかきあげると、青年が口笛を吹いた。下品すれすれの仕草だが、不思議と様になっている。
「実は――」
居住まいを正すと、セイバーは店を辞してからの顛末を語りはじめた。
「へえ、遠坂のお嬢さんがねえ――」
事の成り行きは、ソフィアにとっても意外、かつ興味深いものだった。遠坂凛という少女、まだまだ小娘ではあるが、その才能と力量は本物である。天与の才があると断言できるほどだ。生半可な相手に後れを取るとは思えなかったが――
煙管を口から離し、煙を吹き上げた。猫の目が薄い光をたたえる。
「で、だ。詳しい話は追々聞くとして、あたしにどうしろってんだい?」
「リンが今、何処に居るかを探って貰いたいのです。この街は異常事態にあり、さらには時間もない。率直に言って、私たちでは手に負えません」
話の流れから予想した通りだった。
とはいえ、はいそうですかと頷くわけにもいかない。子供のお願いとは訳が違うのだ。煙管を指先でくるりくるりと回し、言葉を返す。
「言いたいことは解るけどね。魔術師絡みなら協会にもってくのが筋じゃあないかい。あそこはだらしない組織じゃああるけどね、この有様を放っておく程事なかれ主義でもないだろうさ」
「リンではなく私が囚われていたならそれでも良かったでしょう。しかし、まさか私が協会に出向くわけにはいかない」
「言われてみりゃそうだね。英霊が協会に押しかけるわけにゃいかない。かといって、自分たちだけは手が足りない。それであたしのトコを尋ねてきたってワケか」
「はい。情けない話ですが、私たちだけでは、リンの居場所すら――」
沈黙したセイバーに、男が何か考えながら話しかけた。
「今思ったんだが、あの魔術師みたいな格好の爺さんに頼むのはどうだ。アー……じゃない、セイバーの城にいただろ」
「……アッシュ、彼がいたのは私の時代です」
「そりゃそうか」
呆れたようなセイバーの返答に、アッシュと呼ばれた男は頭をかく。
意外と気楽そうなアッシュに比べ、セイバーは明らかに気を尖らせていた。唇を強く噛んだ様子からは、自責の念と口惜しさが窺い知れる。生真面目なのはいいが、ちょっと弄れば折れそうだな、などと不埒なことを思い、楽しげな笑みを浮かべてしまう。
その笑いを見咎めたか、セイバーがむっとした様子で顔を上げた。
「何がおかしいのです、魔術師」
「悪い悪い。馬鹿にしたわけじゃないさ。ま、そういうことなら此処に来た理由はわからないでもないねえ」
セイバーの話は筋が通っていた。英霊であり使い魔であるセイバーの戦闘能力は群を抜いている。単純に戦って主を取り戻すだけならば、わざわざソフィアの手を借りるまでもない。敵手に怪物級の存在が居ない限り、強行突破の一手で片が付くだろう。
だが、セイバーが人捜しや情報収集に長けているとはとても言えぬ。適材適所、餅は餅屋という観点で考えれば、ソフィアを選んだのは明察と言えた
「無論、相応の返礼はさせて貰います。今は代償を差し出すことは出来ませんが、私の名に賭けて――」
「そんなのは構わないよ」
「え?」
セイバーが目をぱちくりさせた。虚を衝かれると、本来の可憐さが顔をのぞかせる。可愛いもんだね、とソフィアは心中で一人ごちた。
セイバーにしてみれば、ソフィアほどの手練れ、それも魔術師が無償で手を貸すというのは信じ難いのだろう。当然といえば当然の反応だ。自分だって、そのような申し出をされればまず疑ってかかる。
「あたしも退屈してたのさ。中々面白そうな事になってるじゃないか。それに、倫敦がこの調子じゃ商売あがったりだ。人捜しくらい手伝ってもまあ、罰は当たらないだろうしね――」
くるくると、指先で回していた煙管を持ち直す。
本音だ。実際のところ、少なからず好奇心をそそられていた。しばらくの暇つぶしにはなるだろうと、口の端を吊り上げる。
胸元から煙草の葉を取り出し、煙管の頭に詰め込んだ。指先に灯した炎で火を付けると、阿片窟めいた甘やかな匂いが室を満たす。
流し目でちらとセイバーを見やる。意外な程あっさりした了承の言葉に逡巡しているのか、微かに迷いの色がある――と見えたのも束の間。
「感謝します、魔術師――いえ、ソフィア」
きっぱりと言い切って頭を下げた。
当面はソフィアの言葉を信じて良いと決めたのだろう。最早、一筋の迷いも悔恨も無い。
流石と言える切り替えの早さであり、小気味よいほどの即断だった。ソフィアも満足げに頷き返す。
「ま、お姉さんに任せておきな。協会には色々貸しがあってね。あそこのシュポンハイムの小僧には、色々と融通してやったもんだ。あの小僧、間は抜けてるしうっかり者じゃあるが、腕はそんなに悪くない。弄くってやれば、協会をちょこっと動かすくらい楽なもんさね」
魔女は笑う。
その笑みはこの上なく美しく、それ以上に意地悪そうだった。
27
遠坂凛は平原に佇んでいた。
其処はただ一面の荒野。空は朱と染まり、地は乾ききった剥き出しの泥土。ぎらぎらとした太陽が容赦なく大地を照りつけ、水の一滴までも蒸発させてゆく。後から後から頬を伝い落ちる汗も、溜まりと作ることなく気化して消える有様だ。
己の姿を見下ろす。十字をあしらった赤の上着に、黒のミニスカートとニーソックス。いつもの、馴染みですらある風態だが、このような場に似つかわしいとも思えない。流れ込む汗のせいで衣服はじっとりと皮膚に張り付き、気持ち悪いことこの上ない。素肌を焼く暑さとは対照的な、悪感にも似たそぞろな寒気の中自問する。
――何故こんな所に。
答えを探るも、脳髄は霞がかったようで答えを導き出してはくれない。常の明晰さが嘘としか思えぬ程に頭の働きが鈍磨している。必死に思考回路を回転させ、微かな手がかりを掴んだとみえても、記憶の欠片は、だらだらと流れる癖に拭き取ろうとすると霧散する汗にも似てするりと掌から漏れてしまう。何とも厭わしい極みである。
いや、そもそも。
――ここは何処だ。
まず問うべきはそこだ。
東を向く。
何もない。
西。
南。
矢張り何もない。オーストラリアの砂漠、シベリアの雪原、中国の平野の悪質なパロディ。無闇と広がるだけの泥の世界を、肥大化した太陽が照らすだけ。見方によっては焼け野原にも思える。黙示録、という言葉が頭をよぎった。子供だましの終末の世界。
最後、北。
火星を思わせる赤い泥土の上、巨大な太陽に照されて影が長く伸びていた。
頭部、頚部、胴部、四肢。
人の影だ。
自分以外にも誰かいたのかと、凛は影の主に視線を送り――途端、息を呑んだ。見覚えのある姿だったからだ。いや、見覚えどころの騒ぎではない。慣れ親しんでいると言っても良い。
赤の頭髪。
飾り気のない白と青のTシャツ。
発展途上ながら無駄なく鍛えられた四肢が衣類からは伸びている。
盟友、相棒、恋人、魔術使い。
衛宮士郎だ。
普段の生活と何一つ変わらない、最早日常の一部と化した少年が佇んでいる。違いは、そこに柔らかな笑顔はないことだ。凛に見えるのは、広く逞しい背中だけ。かつて共に戦った射手の残像が瞼の裏で重なる。
「士郎……?」
答えはない。
士郎はただ、前を向いている。何かを睨み付けている。少なくとも、そう思える。
誰か、いや、何かがそこにいるというのか。少なくとも、凛の視界には士郎以外の姿は見えない。自然と両足は前に出て、士郎の背後にまで迫っていた。
「ちょっと、士――」
肩に手をかけようとした刹那。
士郎がくるりと振り向いた。
そこに何を見たのか。
或いは、何も見なかったのか。
声にならぬ悲鳴が、少女の意識を奪い、覚醒させ――
「おお、漸く目覚めおった。まったく、近頃の若者は惰眠を貪りおる。困ったものじゃて」
凛の耳に飛び込んできたのは、歳月を感じさせる嗄れ声だった。
瞼を開くと、衛宮士郎の残像は薄れぼやけて、また異なる立像が形成さてゆく。曇っていた意識が晴れゆくにつれて顕現するのは、一人の老爺だ。
背骨は前方に傾斜し丸まっており、手には樫の杖、身に纏うは霞の和服。好々爺か賢人かという風体だが、古都は古都でも、倫敦ではなく、奈良や京都にこそ相応しい。
凛は、その姿に見覚えがある。いや、冬木市周辺の魔術師で、目の前の老人について聞き及んだ事がない者はほとんど居まい。
死蝋めいて変色した紫の地肌、藪睨みの瞳。
無数の皺に覆われた肌は、炎天下でひび割れた泥土のよう。
「間桐……臓硯……!?」
「久しぶりじゃのう、遠坂の」
目を見開く凛に、皺だらけの口元を歪ませて老翁は嗤う。
間桐臓硯。
齢数百とも伝わる老練の魔術師。その実力は高く、冬木市を含む一帯では、経験、実力において屈指と言えた。特に蟲遣いの術においては右に出るものがないとされる。
本来ならば、魔術師同士の相克を考えに入れても、一角の術者として相応の敬意を払われて然るべき存在である。そんな臓硯が厭われているのは、一重にその精神の腐敗故に他ならない。人が有する寿命を遙かに超えて保たれた肉体は、生きながらも朽ち果て続け、精神までも爛れさせているとの風聞である。
最も、凛としてみれば、それらの事情を抜きとしても、出来る限り忌避したい相手だった。遠坂と間桐の取り決め――相互不干渉の原則は未だに効を保っている。まさか倫敦で、さらにはこのような形で出会うなど予想だにしていなかった。
臓硯自らが冬木の外に出ることは数えるほどしかないはずである。それが倫敦、しかもこのような場に姿を現している。
つまりは、協会を巻き込んでいる倫敦の騒動や、件の闇男爵と関係があると判じてよかろう。まさか凛を救い出しに来たはずもあるまい。
要するに――敵、である。
「日本からわざわざご苦労なことじゃ。もっとも、それは儂にしても同じ事。長旅は老骨には少々こたえるわい」
「それはそれは、ご苦労様」
「棘があるのう。年寄りはいたわるものじゃ」
――誰が年寄りだ。
悲しそうに呟く臓硯に、凛は内心毒づく。間桐臓硯がただの老爺なら、年を経た魔術師の大半は孫に優しい好々爺だろう。
呆れて瞬くと、瞳にちくりとした痛みが走った。
目やにだろうか。目をこするべく手を上げようとするが、体がどうにも重く、腕が思うように動いてくれない。
疲労のせいかと思ったが、怠さによるものとは少し違う。折れた足首は痛むが、それともまた異なる重み。
これは何だろうか、と思考する。
と、それに伴う怪訝な表情を察したか、臓硯が口を開いた。
「感覚は戻ったようじゃの。己が異常に気付いたか?」
「さあ、当てずっぽうで物は言いたくないわ。私にわかるのは、体が妙に重いってことだけ」
「賢明なことじゃの。じゃが、自らが囚われていることまでは注意がいかぬと見える。まだまだ若いわ」
枯れ枝のような臓硯の指先が、凛の手首を示す。
それでようやく、体が重かった理由に気がついた。結構な重量がありそうな鎖が、腕から壁に向かって伸びていたからだ。
手首には枷がはめられ、鎖の先はくすんだ色合いの石壁に打ち込まれている。試しに鎖を引っ張ってみるが、びくともしない。じゃら、と。鉄の擦れる音がし、骨が鋼に引っ張られて痛みを伝えてくるだけだ。
凛の試みに、臓硯は口をすぼめて嗤う。
「無駄じゃ無駄じゃ。アンブレラ社による特別あつらえの鎖よ、英霊でもなければ引きちぎれはせぬて。科学技術とやらもそうそう捨てたものではないわ」
事実、その強度は大したものだ。魔術で身体能力を強化すればどうにか出来るかもしれないが、目の前の老人が術の行使を黙って見過ごすとは思えない。対決に持ち込むとしても厄介な相手だ。何より、ここは敵地である。無計画な行動は避けたかった。
それにしても、だ。
鎖に繋がれ、捕囚とされ、目の前には黒幕に近しいであろう老爺がいる。これではまるっきりお姫様だ、と凛は心中苦笑する。
全く――囚われのラプンツェルという柄ではないのだが。
まあ良い。
無駄なあがきは止すとして、まずは状況を見定めねばならない。
改めて、臓硯を鋭く、冷たく凝視する。
小さな猫背だ。縁側で猫を膝にのせて茶をすすっていてもおかしくない。
だが、臓硯からは、無数の年輪を重ねた者だけが持つ威圧感が放射されていた。ひなびた老人ではあるが、その在り方は枯淡の域に程遠い。脂ぎっている、とすら言える。
問題は幾つもある。
ここは何処なのか。
倫敦はどうなったか。
闇男爵はどうしたのか。
何故、臓硯がいるのか。
セイバーは、アッシュは、桜は、士郎はどうしているのか。
急ぎ明確な答えを出したいところだが、そうもいかない。
不確定な情報が多すぎる。自分で口にした通り、当てずっぽうな推論は避けたかった。ある程度は己を取り巻く状況や事の経緯を知らねば、自殺的な行動を繰り返す羽目ともなりかねない。
「それで――」
じゃら、と鎖を鳴らし、壁にもたれた。
「何がどうなっているのか位は、説明してくれるのかしら?」
「この歳にもなると、長話も面倒での。お主がどこまで知っておるか、それ次第じゃろう。同じ話を二度三度と繰り返すのも手間じゃ」
「魔術師殺害事件に続いて、倫敦にはゾンビとショゴスが出現。<新宿>からは桜が連れ去られ、衛宮くんも被害を受けた。黒幕と思しいのはかの“闇男爵”――そんな所かしらね」
「ほ、それだけ解っておれば十分じゃろう。儂から言うことは何もないわ」
「大ありよ。第一、何故間桐の長がこんな所にいるの?」
「ふむ、話せば長くなるがのう――」
杖を持ち帰ると、臓硯は目を細めた。見た目の柔和さと、目の奥の貪欲な光が全くアンバランスだ。
「論より証拠――ということもある。現況がどうなっておるか、直接知らしめるのも無益ではなかろうて」
かん、と。
臓硯が樫の杖で床を叩く。
硬質な音に、何故か寒気が走った。
とても――とても嫌な予感。
聖杯戦争で幾度となく経験した、己の選択が裏目に出た時の感覚と同種のそれ。
「ちょっと――」
「もう遅い。登壇の時刻じゃ」
凛の声を、臓硯のそれが切り捨てる。
呼応するように、隠し扉でもあったのか、室を取り巻く石壁が開いた。凛の家の扉ほどの空間が、ぽっかりと口を開けて闇を覗かせている。
ぎし。
ぎし、ぎしと。
空間の先は木造なのか、床を軋ませ、誰かがやってくる。
その姿が薄暗い洋燈の下に照された時、凛は本当に息が止まりそうになった。
ミルク色の肌、厚手の衣服の上からでもわかる豊かな肢体。
そして、虚ろな瞳。
闇より進み出てきたのは間違いなく
「――桜っ!?」
<新宿>より連れ去られた間桐桜、その人だった。
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be continued in Chapter - 14
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