「く、くそっ、何なんだあいつは!」
 我ながら狼狽しきった声で叫ぶと、魔術師ダレットは工房の扉を閉めた。同時に扉が青く光り、編み込まれた結界呪文が発動する。木製のそれは常ならば容易に打ち砕かれるほどの強度しか持たぬが、ダレットの結界に関する術式はそれなりのものだ。しばらくの間、扉は鋼鉄並みの強度を維持するはずだった。斧や銃弾、それにガンド程度では、この扉を破壊することは出来まい。
 無駄に肉がついた巨体が壁にもたれ、荒い息をつく。己が肥満体が恨めしい。惰性で日々を過し、肉体の練成を怠っていた自分が愚かしく思える。
 全く厄日もいいところだ。
 協会ではあの忌々しいアグリッパの末裔に良いように嘲笑われ、目当ての魔道書は馴染みの古書店に入荷していない。さらに、自宅に帰ってみればいきなり奇妙な東洋人が襲いかかってくる。何から何まで散々だ。
 取りあえず愚痴は後。扉の防護は万全だ。この窮地を脱出する手段を考えねば――
 そうとまで思ったところで。
 きん。
 鋭い音を立てて、閃光が走った。
 抜かれたのは、いわば扉の正中線。たちまち結界の蒼い輝きが失せ、ごとりと二つに割れて倒れ込んでくる。
「……馬鹿な……」
 予想外だ。ダレットは阿呆のような惚け顔で目をむいた。
 信じられぬ。
 何の冗談なのか、強度だけでいえばロケット弾の直撃にも耐えるはずの扉が、まるでバターのように切り裂かれた。ダレットとて協会ではそれなりに一目置かれる魔術師。並大抵の技に屈するような術は仕掛けていない。
 だが現実に、強固だった扉は空っぽの出入り口と化してしまっているのだ。その伽藍の堂を通り抜け、ぬうと男が姿を現した。胸元をはだけた藍色のシャツにざんばら髪。藍色のコートを無造作に羽織り、懐手が顎を撫でている。鷲鼻に獲物を狙う鷹のような瞳、まるで西洋服を纏った日本の侍のようであり、実際にその右手には、月の輝きを受けた白刃がぎらりと光っていた。
 この男だ。
 突然ダレットの舘に現れ、問答無用とばかりに襲ってきた不埒者。一目で危険な――危険すぎると解る魔人。
「――件の書をいただきに参った」
 低く、良く通る声が館に響いた。
“件の書”との単語に、ダレットの身と表情が凍る。
 おそらく、いや、間違いなく、先日やっと手に入れた端本のことだろう。だとしたら、あれだけは――あの魔道書だけは渡してはならない。断片とはいえ稀書中の稀書。一生涯かけても手に入れるどころか、目にする機会すらないであろうモノだ。それに、この凶相の相手には決して渡してはならないと、ダレットの魔術師としての本能が訴えている。
 そんなダレットの表情を読み取ったか、男は一つ頷いた。
「成程、拙者には渡せぬと云うか。残念だが、それでは仕方あるまい」
 全く残念ではなさそうに一人ごちる。その双眼には同情も憐憫もない。これから屠殺場に送られる牛や豚を眺める冷たい視線だ。それこそが雄弁に、男がこれからダレットをどうするつもりなのか語っている。
 それでもダレットは動かない――いや、動けない。
 侍の放つ鬼気に縛られ、肥満した身体は、指一本に至るまで脳髄の支配を受け付けようとしなかった。抗っても一切の無駄だと、本能と理性があきらめ顔で諭しているかのようだ。これから何が起るか、自分がどうなるか解りきっているのに、声一つ出せない。脂汗がたらたらと、肉付きの良い顔を流れてゆく。
「お主に恨みは無いが、これも浮世の定め。呪うなら因果の巡り合わせを呪われよ」
 男の手が得物にかかった、と見えた刹那に。

 ――斬。

 ちん、と。冷たい刃が鞘に収まっていた。
 一瞬の間を置いて。
 ダレットの首筋にすうと赤い線が浮かび上がった。
 未だ伸ばされていたその手からぽろりと紙の束が落ちる。
 束ねられた書類かと思えたそれ、良く見てみれば何かの草稿らしい。本格的な製本前、仮綴じにされた書物の一部というところであろう。
 男はそれを拾うと無造作に懐に仕舞い込んだ。入れ替わりで取り出した懐紙で刀の血糊を拭き取とったところで。
 ごとん、と。
 やっとダレットの首が落ち、肥満した体が床に倒れ付した。どす黒く濁った血がたらたらと流れだす屍体を、男は無表情に見下ろす。
「道を通せば角が立つ。倫を外せば深みにはまる――難儀なものよ。もっとも、この身は既に魔道に堕ちておるか」
 意識してか無意識か、芝居がかった物言い。時代錯誤な侍はマッチをすり、屍へと投げる。間髪入れず、骸に炎が燃え移った。
 蒼い炎が遺骸を焼き尽くしてゆく。魔力を付与でもしているのか煙も何も出ず、炎が周囲の家具や書物に燃え移る様子もない。マッチの炎は、屍体だけを選択的に燃やしているのだ。
 待つこと数分。
 かつて魔術師だったものは骨まで焼き尽くされていた。屍体から溢れ出たでろりとした油脂が、カーペットに吸収されてゆく。
 男は袂から白く小さな袋を取り出し、その口を開いた。と、ダレットだった灰は、見る間に袋の中に吸い込まれていった。全てが袋に収まったのを見届けると、男はその口を結んでまた袂に戻す。
「これで半ば。時が満ちるのも近かろう」
 淡淡とした呟きを最後に、男の姿が闇に溶け込んで消える。
 何処か遠くで、野良犬の鳴き声が響いていた。


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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-07
魔術師を狩る者 〜 Magus Hunter




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1


「そっか。ならいいんだ。それじゃ士郎、任せたわね」
 受話器を落とすと遠坂凛は息をついた。窓の隙間から染みこんでくる外気が身を震わせる。倫敦では、夏場でも平均気温が20度を切るのだ。昼間はともかく、朝夕や雨時は冬木市と同じような服装では少々冷える。
 英国の首都、倫敦。
 長い伝統を持つ由緒正しい古都だ。魔の世界に生きるものには、世界でも屈指の魔術的霊地として知られている。魔術協会の本拠が置かれているのは伊達ではない。
 凛は、来年度からの魔術協会――通称『時計塔』留学のためにこの地を踏んでいた。推薦入学のため試験などは免除されているものの、煩雑な手続きは早めにすませておきたかったからだ。それに、協会のお偉方と顔を合わせておく必要もある。
 そのために滞在しているのは、ウェストミンスター駅から徒歩10分圏内、テムズ川を臨むマンスリーアパートメントだ。魔術協会による借り上げのため、食費や雑費を除けば、生活費は殆どかからない。金食い虫の宝石魔術師としては有り難かった。協会の表の顔たる大英博物館に近いのも利点だ。
 窓の向こうには、テムズの流れが見える。さやけき流れを見るとはなしに眺めていると、扉の開く音。同居人かと思っていたら、案の定声がかかってきた。
「リン、シロウは何と?」
 落ち着いた、透き通るような美声。振り向き、椅子に腰掛けて凛は答える。
「行ってくれるって。正直、士郎を一人で<新宿>にやるのは心配なんだけれどね。魔道書の受け渡しは急がなきゃいけないし」
「シロウなら大丈夫ですよ、リン。あなたもそれは良く知っていると思いますが」
「そうね。何だかんだで頼りになるし」
「ええ」
 こくりと頷く少女を、凛は見やる。細く繊細な金髪が、白い面差しを際だたせていた。常々思うが、改めて注視ると、芸術的なまでに可憐な美貌だ。
 少女の名はセイバー。
 一名をアルトリア。
 冬木市を襲った動乱「聖杯戦争」において、衛宮士郎によって召喚された剣の英霊である。士郎、凛と共に聖杯戦争を戦い抜いており、今となっては凛にとっても気心の知れた良きパートナーだ。
 英霊は本来、聖杯戦争後その姿を消すが、複雑な事情が重なり、セイバーは未だに現界していた。形式上は、凛の使い魔ということになっている。
「そういえば、協会の用事とは何だったのですか? 昨夜は随分と怒っていたようですが」
「それよ。もう、思いだしただけで腹が立つ」
 セイバーの言葉に凛は眉を寄せた。夏休みを利用してわざわざ倫敦に来たのは、留学に際しての形式的な手続きを行うのと、時計塔の幹部との顔合わせをするためだ。それ以上のことをする必要は無かったし、凛にしても半ば観光気分だった。それが、まさかあんな注文を出してくるなどとは――全く、想定の範囲外だ。
「それがね――」
 憤懣やるかたない、という様子で凛は協会での出来事を語り出した。

*

 話は丁度前日に遡る。
 凛は名門遠坂家の長であり、幼い頃より天才的とも言える魔術の才能を示していた。また、聖杯戦争の一件もあり、今回の時計塔入学にあたっては、推薦入学という扱いになっている。
 協会への訪問も、幹部との顔合わせと、形式上の書類提出といった面が強い。面接室らしき部屋でのお偉方との会談は、至極和やかに進んでいたのだが――
「どうせなら、ミス・トオサカの実力を見てみたいものだねぇ」
 その一言で状況が全く変ってしまった。
 品は悪くないがやけに嫌味たらしい声。反射的にむっとして凛は声の主に目をやる。
 そこに居たのは、金髪碧眼、長身の青年。目にも鮮やかな真紅のコート。真横の椅子にはシルクハットが置かれている。
 目元はすっきりとし、鼻梁も通っている。貴人の相と言えた。ただ、どことなく俗物的な雰囲気があるのが気に入らない。
 外見に見覚えがあった。記憶の糸を辿るまでもない。この世界では有名な魔術師だ。
 名をコルネリウス・アルバ。
 かの大魔術師アグリッパの末裔であり、ルーン魔術を得意とする優れた魔術師である。特に、高速詠唱と炎を操る技術には定評があり、魔術協会でも重鎮の一人に数えられていた。シュポンハイム次期院長の座も確定しており、あらゆる意味で申し分のないエリートだ。多少注意が散漫な節があるにせよ、権力、実力共に、現役の魔術師としては屈指の存在と言って良かろう。
 先の言葉はどういう意味かと、他の幹部たちがアルバに目をやる。まるでそれらの視線を待っていたかの如く、アルバは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「私は何かおかしいことを言っているかね? 一門の祖はあの宝石翁の直弟子だし、ましてやミス・トオサカは10年も前から名前が知られた天才児だ! 推薦入学も当然だし、私にも異存などあるはずがない。ただ、せっかくだからその力を示して欲しいというのは、そんなにおかしい欲求かな?」
 俳優のような美声でアルバが滔滔と述べる。言葉の内容は突拍子もないものではない。だが――
「待っていただけます、ミスター・コルネリウス?」
 声音の影に潜んだ笑いが気に入らない。巧妙に隠蔽された、くく、と聞こえてきそうな嗤い。そこに在るのは悪意という程露骨なものではないが、凛に対する好感では決してない。強いて言うなら、真新しいおもちゃを目の前にした、やや意地の悪い子供のそれだろうか。
「僭越ですが、私の入学は既に決定事項と聞き及んでおります。この場で力を試させるかのような申し出とは、如何なる理由によるものでしょうか?」
「いやいや、他意など無いよ。日本国内のみならず、ここ時計塔でも評判になるほどのお方だ。私の出す課題くらい簡単にクリア出来るだろう」
 金髪を撫で付け、唇を皮肉に歪ませ、アルバは凛を見つめる。口元の端がつり上がった。鼠をいたぶる猫の笑み。
「最もこれは、私の我が儘だ。ミス・トオサカが従う理由は何もない。ただ、この程度で怖けづくとは、所詮極東の田舎者――おっと、これは失礼」
 ぶちり、と。
 堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。大体この魔術師、はじめて見たときから気に入らなかったのだ。ニヤついた口元も、人を小馬鹿にしたような目元も、自信満々なようで妙に小物そうなところも、どこもかしこも凛の神経に障る。こんな奴に言いたい放題言わせておいて良い筈がない。
 だから凛は優雅に笑った。
 大輪の華のような美しい笑みだった。
 凛を良く知る者、例えば士郎ならばその笑顔に心底震え上がったことだろう。前髪の影に隠れた、こめかみに浮いた怒りの印にも気付いたにも違いない。
「心得ました、ミスター。ええ、槍だろうと鉄砲だろうと片付けてみせますわ。欧羅巴の没落貴族とは一味も二味も違うところをお見せします」
 あれよあれよと話が進み、凛とアルバの視線がぶつかり合い、火花を散らす。
 その光景に穏健派の幹部たちは、頭を抱えて溜息を漏らすのだった。


*


「――というわけ」
「あまりにも無礼な言動です。リンが怒るのも当然だ。よろしい、いいではありませんか、リン。貴方の力をその魔術師(メイガス)に見せてやりましょう」
 まるで自分が侮辱されたかのような不機嫌な面持ちでセイバーが言う。礼儀や名誉に関して、この少女はとにかく五月蠅い。元々が騎士であり王であるのだから当然といえば当然だ。現代に住まうているとはいえ、精神性の根幹は遙か古代のイングランドに在るのだ。その厳しさは想像を絶するものがある。
「しかしその輩、イングランドの魔術師とは思えません。全く嘆かわしい。我が師も悪戯者ではありましたが、無礼ではなかった」
「セイバーの師匠と比べたら幾ら何でも悪いわよ。それこそ大師父でも持ってこないと話にもならないわ」
 憮然とした様子のセイバーをなだめるように凛が答える。このコンビで一悶着あった場合は大抵、文句をつけるのとなだめるのとの入れ替わりだ。調停役、かつ暴走役の士郎がいないのだからそうならざるを得ないのかも知れない。
「それにしても――誰かに似てるのよね、あいつ」
「リンの知人にですか。かように無礼な者は思いつきませんが――」
 凛は口元に手を当てる得意のポーズで少し考える。
 そういえばコルネリウス・アルバ、誰かに似ている気がしていたのだ。見た目は悪くなく、おそらく頭脳も優れる。能力的には卓越したものもあるが、人を見下す様子といい、どこか小者臭を漂わせるその雰囲気といい――
 そこまで思考したところで、凛の脳内でアルバとワカメ頭の男子学生の姿が重なった。これ以上は無いだろうというくらい完全な一致だった。
「……慎二に似てるんだ」
「……シンジですか」
「うん、慎二。何処とは言えないけど、そっくりよ」
 沈黙が降り、直ちに凛とセイバーの溜息が唱和した。
「と、ともあれリン。為すべきことが在るなら為さねばなりません。どうしたら良いですか?」
 気を取り直せと言わんばかりにセイバーが言う。どこか取り繕いめいているのは仕方あるまい。あのへたれの中のへたれを持ち出されては、何とも言えない空気が漂ってしまうのは致し方ないところだ。
「そうね、まずは――」


2


 スローン・スクエア駅から10分ほどキングス・ロードを南西に辿る。文具屋であるスクリブラーを目印に横道に入って直進。二回三回と道を曲がった先、教会と病院を望む裏通りに、その舘はあった。
 古い屋敷だった。
 三角屋根から突き出た石の煙突。くすんだ灰色をした石造りの壁からは、ゴシック様式の悪魔を象った彫刻が睨み付けている。そして、一見さんお断りとばかりに睨み付けてくる、威圧的で巨大な扉。
「うちも大概だけど……これはまた凄いわね」
「倫敦ならでは、でしょうか」
 呆れたような凛の声に、セイバーも苦笑している。
 日本のベッドタウン――そう、冬木のような街にこんな舘があったら、幽霊屋敷としてすぐにでも有名になりそうだ。実際に凛の家は冬木の幽霊屋敷扱いである。この舘が近代化の進む都市の風景に違和感なく溶け込んでいるのは、一千年の歴史を誇る倫敦ならではと言えた。
「それでリン。ここが目的地なのでしょうか?」
「ええ。何でも最近、あちこちで魔術師が襲われてるらしいの。一昨日はここの主のダレットとかいう魔術師が書斎で殺されたらしいわ。で、その犯人探れっていうのがアルバの課題ってわけ」
「成程。魔術師(メイガス)に変事があったとすれば、工房から調べるのは道理です」
「そういうこと。まさか警察にお願いするわけにもいかないしね」
「わかりました」
 解錠は協会の手ですまされているため、入館に特別な手段は必要ない。預かってきた鍵を錠前に差し込みくるりと回す。かちり、と、掛け金が上がる音がした。
 扉に手を触れて押すとあっさりと開く。呪文の効果には間違いがないようだ。
 古びた木製の扉の向こうからは、埃にまみれた、時間のすえた匂いが漂ってくる。ちょっと見渡しただけでも、髑髏、水晶、古い掛け時計、ナイフにウイジャ盤。それらの呪物全てが、魔術的な意味を有するように配置されていた。家主が魔術師であったことは、素人相手ならいざ知らず、その筋の人間には明白だ。こうまで露骨だと呆れを通り越して笑ってしまう。どこからどう見ても、紛う事なき「悪い魔法使いのお屋敷」だ。
 天窓から一筋の光が差し込んでいる。その灯を頼りに扉の一つを押し開くと、古い羊皮紙と、鞣し革の匂いがつんと鼻をついた。
 書斎だ。ダレットの屍体が発見されたのも此処らしい。何か有益な情報がないか館を当たるなら、此処からはじめるのが手頃だろう。
「取りあえず私はこの部屋を調べてみるわ。セイバーは家の中を一通り回ってみて」
「はい。リン、何かあったらすぐに呼んでください」
 セイバーの後ろ姿を見送ってから、どっさり積まれた古書や切れ端に目をやる。凛はまずその山から手をつけることにした。
 日記か何かが残っているかもしれないし、他の魔術師の工房、それも無害が保証されているとなれば色々と調べない手はない。稀書の中の稀書は協会が一通り持って行ってしまっているだろうが、それでも何か面白いものがあるかもしれないではないか。
「無名祭祀書は……なんだ、ゴールデン・ゴブリン・プレス版か」
 ぶつぶつと言いながら、モロッコ革や人の革で装幀された本、古紙の山を漁る。転がっている魔道書の質は決して悪くない。『スローン断章』『ザンツー陶片』『ドール讃歌』『黄色の王』……格別な稀覯書ではないが、それなりのコレクションだ。
 とはいえ、他者が力ずくで奪おうとする程のものではない。日本国内でなら手に入れるのも一苦労だろうが、そこは魔都倫敦。足を棒にして一日潰せば、この程度何処ぞの古本屋に転がっているだろう。期待していたような日記や手記の類も見あたらない。
 一通り書斎の捜索を終え、収穫は無し、と凛が立ち上がりかけた時、丁度セイバーも戻ってきた。間断なく周囲の気配を探る真剣な表情。何か、彼女の注意をひくようなものがあったのだろうか。
「セイバー、そっちは何かあった?」
「リン、これを」
 騎士王の白く柔らかい手が、古びた紙の束を渡してきた。年月を経て劣化したインクの匂いがつんと鼻をつく。
 古ぼけた羊皮紙に走り書きの文字の数々。随分と古風だが、凛が目を通すとそこには種々の書物名が記されている。この舘の主の蔵書目録といったところだろう。主は相当に几帳面な性質だったらしく、全集の端本や私的なノートまでをリストに記録してあった。
「一応確認してみてはどうでしょうか。無駄骨かもしれませんが、手間を惜しむのは良くない」
「そうね……無くなっているものがあれば、これでわかるわ」
 目録をチェックしながら、魔道書や研究ノートを一冊一冊棚に戻してゆく。手間暇がかかる作業だが、こういう整理ならば凛はお手の物だ。
 数十分もすると、散乱していた魔道書や資料はぎっしりと棚に詰め替えされていた。ほとんど限界に近い密度だが、下方部に僅かな隙間がぽっかりと空いている。本一冊は入らなかろうが、分冊や仮綴じ本を入れるには十分なスペースだ。
「えーと、『金枝篇』は入れたし、『サンジェルマン異聞』もここね……協会が持っていったのはこれとこれ、と。あと、本棚に無くてリストにあるのは……」
 目録に指を走らせていた凛。その目が、ある項目でぴたと留まった。
 信じられないものを見たかのように、何度も視線を上下に動かす。リストを上から横から斜めから、穴が開くほど睨み付け、漸く声を吐き出した。
「……うそ、『死者の書』!?」
「『死者の書』というと……ナチュラン・デ・マントですか」
「ええ、丸ごと一冊じゃなくて、断片だけみたいだけど、なんでこんなのが……ってあれ、セイバー知ってるの?」
「はい。宮廷にありましたから」
 平然とした受け答えに、凛は一瞬呆気にとられる。
『死者の書』。一般には『アル・アジフ』あるいは『死霊秘法(ネクロノミコン)』の名で知られる魔道書である。外宇宙の理解不能な神や、かつて地球に存在した忌まわしい異種族について詳細に記されており、知名度でも危険度でもトップクラスの書物だ。現在では殆どが散逸しており、ヴァチカンのZコレクションをはじめ僅かな機関が極秘裏に所蔵しているだけとされる。
 確かにセイバーが王として在位していた時代には、魔道書はそれこそ山ほど在った。王の傍らには師でもある伝説の大魔術師が控えていたわけだし、有名な魔道書を実見したことがあっても不思議ではない。
 だが――
「待ってセイバー。確かに当時は今からは考えられない量の魔道書があったでしょう。あなたの出自や環境を考えれば、そういうものに詳しいのも当然だわ。でも、『死者の書』がイギリスにあったなんて初耳よ」
「いえ、リン。確かに存在していました。キャメロットにあったのですから間違いはありません。私もこの目ではっきりと見ています」
 断言。
 セイバーがこうまで確信をもって言い切ることが間違っているはずもない。『死者の書』が当時のイングランドに存在していたというのは驚きであり大きな謎だが、その謎を追究している場合でもなかった。
 今大事なことは一つ。この館にかつて『死者の書』の一部が存在し、今ではそれが失われているということである。
「何にせよ、これではっきりしたわ。襲った奴の狙いは『死者の書』だったのね。大師父の蔵書にも残っていないくらいの稀覯書だもの。一部分とはいえ、魔術師なら喉から手が出るほど欲しいはずよ」
「ではリン、もうこの工房は――」
「ええ、家捜しは打ち切りよ。どうせこれ以上の物的証拠なんて残っていないでしょうしね。それより、『死者の書』なんてものをどうやって手に入れたのかを追わないと。何処にでも転がっているような魔道書じゃないし、その線から探っていけば此処の主を襲った奴の手がかりもあるはずよ」
 セイバーに頷き、凛が力強く断言する。倫敦という土地柄か、その様子はインバネスに鳥打ち帽をかぶった、ベーカー街の名探偵のようだった。


3


 舘を出ると、とっぷりと日が暮れていた。足早に自宅へと向かう倫敦市民の姿がそこら中に沸いて出ている。残る作業――足を棒にして魔道書の出元を探る――は明日からの課題とすべきだろう。
 人の流れに混ざって、風が街路を吹き抜ける。倫敦は年を通じて気温が低めである。夏とはいえ、日本と同じ感覚でいては風邪をひくかと思うほどだ。
 冬木市でいうなら秋風ほどの冷気が、凛とセイバーに打ち付けた。身が震えるほどではないが、服の隙間からじんわりと寒さが浸透してくる。凛はミニスカートなのでなおさらだ。昼間ならば兎も角、剥き出しの足で夕方以降は少々厳しい。
「冬木に比べると涼しいわね……夏はいいけど、冬は辛そう」
「リンは少し下半身を冷やしすぎです。女性なのだから暖かくしておいたほうが良い」
「綾子にも良く言われるのよね、似たようなこと……そんなに寒そう?」
「はい」
 他愛も無い会話をかわしながら道を進んでいると、やがてヴィクトリア駅に出た。ウェストミンスター大聖堂にも近く、倫敦における主要な駅の一つである。それに伴って、駅前には多種多様な店舗が存在している。
 食品店の店頭を横目にしていると、ふと脳裏を空っぽな冷蔵庫がよぎった。そういえば、アパートの食料の備蓄がもう無かったのだ。外食ですませても良いのだが、一般に言われているとおり、倫敦の食事はやや難がある。自炊の心得が一切ないのならともかく、凛としてはある程度味が保証されているものが食べたかった。結構な労働をしてきたところだし、何より同行者は、祖国の料理を雑だと辛そうに語る腹ぺこ大王なのだ。
「ね、セイバー。夕食はどうしようか。協会の食堂もあるけど、何なら今夜は私が作るわよ」
「それは素晴らしい。リンの手料理は好きです」
 即答。一瞬の躊躇もない、小気味よいほどの迅速な答えだ。
 丁度目の前にあったスーパーの扉を開き、中へと入る。
 そのスーパーの名は「Sマート」といった。

*

「こちらはSマート! お買い物ならお得なSマート倫敦支店でどうぞ!」
 店内は活気に満ちていた。
 雑多な用品が店頭に溢れ、アナウンスががんがんと特売品を宣伝している。
 何というか……「らしく」ない。
 イギリスというより、アメリカ、それも庶民の活気溢れるホームセンターという印象だ。食料品は言わずもがな、衣類、工具類、医薬品、化粧品、大抵の日用品がこの一軒で賄えるようになっている。便利といえば便利だが、趣はない。喧騒と極彩色に満ちた光景に、セイバーが寂しそうに息を漏らす。
「……イングランドも随分変りました。解ってはいたことですが……」
「セイバーの時代からだと……そっか、1000年以上経ってるのね。現代の知識があるから良いってものでもないでしょうし」
「はい。私たち英霊は召喚された時点で、その時代に関する知識を一通り得ています。それでも、祖国は祖国ですから。こうやって移り変った国を見るのは、何とも複雑な気持ちです」
 凛は然程故郷に思い入れが強い性質ではない。変わりゆくものは仕方がない、と割り切れるだけの合理性はもっている。それでも、数年ぶりに冬木市に戻ってみたらまるっきり別の街だった、ということがあれば微妙な気持ちになるだろう。ましてやセイバーは王だったのだ。その心中、察するにあまりある。
 そんな会話をしながら、Sマートの店内を見て回る。果物のコーナーには、意外に色つやの良いサワーチェリーが山と積まれて売られていた。手にとって見てみると、傷みも少ない。品質は決して悪くないようだ。しなびていない野菜類や、パック詰めになった牛肉の塊も並んでいる。安っぽい外装の店の割には、品揃えは結構なものだった。
「食材はそれなりみたいね、ここ……今夜は中華にしようかしら」
「リン、私は麺類が食べたい」
「はいはい、じゃあそうしましょうか。倫敦は嫌いじゃないけれど、食事はちょっといただけないしね……あーあ、士郎の和食が懐かしいわ」
 セイバーがくすりと笑った。
「正直ですね、リン。シロウの前ではそんなにはっきりと言わないのに」
「当然よ。衛宮くんが調子に乗ったら困るじゃない」
 我ながら素直ではないが、こればかりは性分だ。大体士郎が嫌になるほど真っ直ぐで一直線なのだから、自分くらいは言葉や態度を自由に使い分けられるようでいなければならない、という思想が凛にはある。最も根が善人なのでいつも何処かが抜けているのだが、それくらいはご愛敬だ。
 とまれ買い物である。バラ肉と大蒜は買ったし、ソースはアパートメントにある。これ以上買うべきものはなかろう。
「うん、これで良し……ってあれ、セイバー、どうしたの?」
 最後の食材を手にとって振り返ると、セイバーが通路の奥を凝視していた。睨み付ける、というより驚いたような表情。鳩が豆鉄砲を食ったよう、という表現がしっくりくる感じだ。凛の声にびくりと背を振るわせて、セイバーが向き直る。
「……いえ、何でもありません。昔の知人に似た人物を見たような気がしたもので」
「セイバーの? 衛宮くんや桜が来てるわけもないし、幾ら倫敦でもセイバーの昔の知り合いが歩いてる筈はないと思うけど……」
「ええ、私の気のせいでしょう。彼がこんな所に居るはずがない」
「あ、待ちなさいよ、セイバー」
 呟くように答え、足早に立ち去ろうとするセイバー。それを追って凛も、食材で満ちた篭を腕に下げてレジへと向かう。去り際、セイバーが何を見たのか気になってふと通路に目をやった。
 異常なものは何もない。買い物中の人の流れ。カップラーメンからショットガンまで揃う、外国ならではのスーパーマーケットの光景。何の変哲もない、セイバーが驚くようなことが起るはずもない空間だ。強いて言えばそんな中、日用品コーナーでチェーンソーを陳列している逞しい男性店員の姿だけが、妙に印象的だった。


4


 倫敦のイースト・エンドには、ライムハウスと呼ばれる一角がある。19世紀には都市を代表する貧民窟であり、この世の地獄と悪評高かった地域だ。かの“切り裂きジャック”が出没し、庶民を震え上がらせたのもこの辺り。現在でも雑然としており、治安も決して良くはない。宵の口、街頭に浮かび上がる煉瓦造りの建物を眺めていると、まるでガス灯の時代に戻ったかのような錯覚に陥る、そんな場所だ。
 知る者こそ殆ど無いが、19世紀初頭からライムハウスに残存している建物の幾つかには秘密がある。例えば壁面に埋め込まれた地下への隠し扉だ。その一つの場合、壁の煉瓦を引き上げると、長く緩やかに傾斜した通路が地下へと延びている。ひんやりした空気の中、幾つもの角を曲がり、扉をくぐり、坂を下ると、やがて翡翠の取っ手が付いた扉が現れる。その扉の奥には、豪華な家具を揃えた薄暗い部屋があった。
 部屋の中央には大きな樫の机。机の周囲には座り心地の良さそうな肘掛け椅子が並び、壁一面にはずらりと稀覯書が並んでいる。
 そう、此処は由緒正しい悪党どもの根城。“犯罪界のナポレオン”と“奇妙な死の王”が会合をかわしたこともあるという伝統あるアジトだ。倫敦裏社会の人間にとっては、伝説的とも言える地下の密室。
 だが、額の突き出た天才数学者も、悪魔的な頭脳を誇った邪悪な中国人も既に亡い。その変わりに蝋燭の揺らいだ光が照らし出したのは、東洋人の青年だった。肘掛け椅子で優雅にワイングラスを揺らしているのは、浅黒い肌をしタキシードを着こなした日本人らしき青年だ。
「ミスタ・ダレットの死によって、既に“死者の書”の断片が多く集まりました。残るは、丁度半分というわけですが――取りあえずご苦労様、と言っておきましょう」
 赤い炎を下から受け、青年――“闇男爵”が誰かに語りかける。部屋の北西の角、蝋燭の届かぬ闇より、渋味のある低い声が答える。
「つまらぬ。赤子の手を捻るような務めよ。してお主、日本の忌まわしき街に向かわずとも良いのか。マキリの翁は立ち寄るつもりのようだが」
「何、<新宿>程度、ぼくのダミーに任せておけば十分ですよ。それに放っておいてもミスタ・ウェスカーが騒ぎを起こしてくれるでしょう。今頃あちらは大混乱ではないですかね」
 その言葉は正しかった。まさしくこの時、衛宮士郎と人形娘、それに間桐慎二といった者たちはメフィスト病院を軸とした闘争に巻き込まれていたのだから。闇男爵は、その全てを把握しているのだろうか。
「……して、拙者をわざわざ呼び寄せたのは何用か。件の書の残る欠片は、お主もまだ見出しておらぬだろう」
「いえ。協会が動いたようでして。放っておいても構わないのですが、千慮の一失ということもあります。早々に片付けて貰えませんか?」
 闇男爵は少しだけ首を傾げて、グラスを口に運んだ。物騒なことを言っているにも関わらず、明日の倫敦の天気を話題にしているかのような気安さだ。眉を潜めて声の主が難渋を示す。
「魔術協会か。斬るにも値せぬ弱者ばかりよ。お主の手の者で十分であろう」
「そうでもありませんよ。偶偶でしょうが、彼等も今回はなかなかの人材を投入してきました。まずは聖杯戦争の立役者、ミス・トオサカ」
「ふむ、聖杯戦争か。英霊ならばいざ知らず、ただの魔術師風情では拙者が出るまでもあるまい」
 憮然とした色のままである返答に、だがしかし闇男爵は端正な口元を歪めた。
「その英霊が、ミス・トオサカに同行しているのですよ。第五次聖杯戦争以来、この世界に現界している英霊セイバー――又の名を、騎士王と謳われたイングランドの英傑、アルトリア・ペンドラゴンがね」
「……ほう」
 闇の中で瞳がちかりと光った。歯応えのある獲物が近いことを知った獣の歓喜が、ぶわりと濃密に室内を満たす。それこそが、返事の有無を雄弁に示していた。
「ぼくの方からも屍どもを出すつもりですが――大筋はお任せしますよ。ミスター・サムライ。貴方の腕なら、英霊とも十分に――」
「愚問。拙者も刀に生きる身。剣の英霊となれば相手として不足はなし。よかろう――委細は承知した。」
 渡り合えるか、との疑問を遮り、錆びた声が、暗闇に響き渡った。
 何処からか吹き込んできた風に煽られ、松明の炎が一際明るく燃え盛る。その中にぼうと浮かび上がったのは、ダレットの館で凶刃を振るった男、攻撃的なまでの笑みを浮かべた魔人だった。




⇒ to be continued in Chapter - 08 "Ash"


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