| 藤原妹紅は村外れの大樹の上から、村の生活を眺めて居た。 差し込んで来た西日が湖に反射し、綺羅綺羅と輝いている。都でもあれば華のある眺めだろうが、うらぶれた村では寒々しいだけだ。 場違いなこと夥しい。 最も、場違いといえば己こそがであろうと、そんな風にも思う。 村の住人は生きている。生まれ、働き、喰らい、子を育て、やがて死ぬ。決まりきった生の形といえど、そこには幸不幸を取り混ぜた相応の充足があろう。日々の生には意味もあろう。対して己はどうだ。起きて喰って寝て、何処かへ出かけて何かを眺めて帰って、それが繰り返されるだけの毎日。 蓬莱の薬を飲んでからは、ずっとそうであるように思う。 不老不死そのものが悪いわけではない。幻想郷には元から年をとらぬ者も、容易には死なぬ者も五万といる。奴らは産まれた時からそうなのだ。ならば、延々と続く生に対処する方法も自然に身に付いていよう。 だが、妹紅は違う。元々がただの貴族の小娘。ひょんなことから不老不死になってしまっただけで、特別心構えがあったわけでもない。薬を奪って飲んだら、今の身体になっていただけの話。 不老不死というのは、便利といえば便利だ。働かなかろうが延々眠っていようが毎日殺しあいをしていようが、健康と生命とが保証されている。 成程怪我をすれば痛いし、食事をしなければお腹は減る。けれども、それだけだ。死に至る病には縁は無く、日々の生活に致命的な影響があるわけではない。水飴の様に伸張した時間が続くだけである。 だからこそ妹紅は、目的とか目標とか生きている意味とかいうものが解らない。 生活の糧を得る事であれ、技術を習得する事であれ、極端な例ならば仇討ちであれ。人がそれらに血道を上げるのは、時間的な制約があるからだ。いつまでも間延びした時を送っていれば、目的を達成する前に己の寿命が尽きてしまおう。寿命が尽きるとまでいかなくても、心身が老いて現実的に目的を叶えることが不可能にもなろう。 それらの一切合切は、妹紅にとって縁の無い話だ。 死なず、老化もしない妹紅は、どうしてもだらだらとした時間を送ってしまう。差し迫った危機感を持てぬ以上、それは当然のことなのかもしれない。 ――私は一体何をしているのだ。 愚にもつかない思考を重ねるにつれ、苛立がつのる。苛立ったとて何が変わるわけでもない。今妹紅に出来るのは、樹の上に佇み続けるか帰るか選ぶ位だ。いや、連れ合いを此処で待っている以上、勝手に帰ってしまうわけにもいかぬ。 日が地平の彼方へと沈み始めた。夕映えの残照が、妹紅と村を真っ赤に染めてゆく。 いい加減に欠伸の一つ二つも出てこようかという頃。村一番の屋敷の門がゆっくりと開いた。 漸くだ。 一人の少女が、門から吐き出されてきた。蒼と白とが入り交じった長髪、紫を基調としたドレスめいた洋装、弁当箱を思わせる四角い帽子。理知的な切れ長の瞳に、小振りな朱の唇。白い肌。 知識と歴史の半獣、上白沢慧音である。 慧音とは何時知り合ったのか覚えていない。数十年来の付き合いがあるようにも思うし、昨日初めて会ったような気もする。当人に尋ねれば即座に答えが返ってくるのだろうが、記憶などは所詮曖昧なものだ。根無し草の生活を送っている妹紅にしてみれば、何時からどれ程の付き合いがあるのかなどさして大事な事でもない。確かなのは、慧音が妹紅の数少ない――というよりも、唯一の友人であるということだ。 慧音の手には木製の桐箱が下げられている。 大方、屋敷の誰かの看病にでも来ていたものだろう。未だ年端もいかぬ子が病に伏してが屋敷に居ると、村の者が噂をしていたことがあったようにも思う。 神獣たる白沢をわざわざ呼んだということは、その子は余程重い病なのだろうか。 幻想郷でも人と妖との溝は存外と根深い。実際、普段から慧音が村に呼ばれている様子は無い。当然かもしれない。妖とは理解出来ぬ存在であるが故に妖。いかに病を癒すためとはいえ、己の知識や経験で計れぬ相手を好んで呼び寄せる物好きはそうは居るまい。 しかし、慧音は人間に対し極めて好意的だ。 人の側もまたそうであるかも知れぬ、と妹紅はふと夢想する。 ――いや、有得ぬか。 即座に心中の己が否定する。 虫の良い空想だ。現実は甘くはあるまい。 人、特に集団となった者たちが異質な存在をどれほど厭うことか。妹紅はそれを嫌というほど知っている。 苦々しい気持ちでいると、軽い跫と微かな話し声が聴覚に届いた。誰かが慧音の後を追ってきたものか。 門の奧。屋敷から二つの姿が慧音を追って出て来た。 まだ若い娘と、それに連れられた少年だ。服裝から察するに、小間使いの娘と、屋敷の息子であろう。 小間使いらしき娘が頭を下げている。青白い顔の少年は、こにこと慧音に向かって手を振っている。痩せ細った肢体。病に伏しているという子だろう。手を振り返している慧音は、穏やかに微笑んでいる。 そんな表情を見ると、溜息が出た。 どうにもあの、笑顔というものが解らない。昔は自分も良く笑っていた気がする。 だがそれも、今にして思えば笑っていた振りをしていただけだったのかもしれぬ。 しばしして二人が門に消えると、慧音は微笑みを残したまま屋敷に背を向けた。 だらだらと村外れへと続く坂道を下ってくる。そちこちで遊び回っている子供たちは、慧音が近くを通る度に駆け寄っていた。 心底慧音を慕っているのだろう。皆が皆、満面の笑顔を浮かべて近寄っている。医療の心得があり、見目麗しく、心優しく穏やかとくれば、子らに愛されるのも当然か。 女の子が慧音の袖を引っ張る。男の子がぐるぐると走り回っている。微笑んで一々相手をしている慧音を、妹紅は樹の天辺で見守っている。 慧音が村外れの大樹へと辿り着いた頃には、空はとっぷりと暮れていた。真っ赤に空を染めていた夕焼けは沈みきり、天を覆うのは闇と疎らな星だけだ。天つくばかりの先端を見上げ、慧音が声をかけてくる。 「すまない。遅くなった、妹紅」 「別に気にしないで。時間は幾らでもあるし」 樹から飛び降りつつ答える。慧音は申し訳なさげでありながら充足している樣子だった。己の働きに満足している、そのような気配。 「ご飯どうしよっか? いつも慧音にご馳走して貰ってるし、今日は私が何か作ろうと思うんだけど」 「妹紅の料理は久しぶりだな。香霖堂で材料を買っていこうか」 他愛も無い言葉を交わす。 慧音と肩を並べ、帰路へと足を向けた。 地面を踏みしめる二つの跫。妹紅は微昏い星空に照らされた慧音の横顔を盗み見ながらふと思う。 確かに慧音は子供たちに人気だった。 見送った二人も感謝している樣子だった。 だが同時に――大人で慧音に近寄ろうとするものは、誰一人として見当たらなかった。 村全体に歓迎されているなら、見送ったのが小間使いと患者当人だけなどということがありえるのか。 偶偶だろうか。 出来れば偶然であって欲しい。 大人たちは何かと忙しいだろうし、敬して遠ざける態度をとっていたとしても不思議ではない。思慮分別のある大人ならば、好意と敬意を抱いていても、人ならぬ者には無闇に近づかないものなのかもしれぬ。 ――それでも。 思い過ごしだと良いのだが。 昏い想像を振り払ってもなお、妹紅の心の奧底に固いしこりが残っていた。 二、三日後の夕刻。 今日も今日とて、妹紅は樹の天辺から村を見詰めている。 切れ切れの雲に遮られて、真赤な陽の色もどこか微昏い。それが何となく、不愉快で、妹紅は枝をぎいぎいと揺らす。 腰掛けていた枝がきいきい云いはじめたので、隣の太い枝へと飛び移った。羽を休めていた雀が一声啼いて飛び去って行く。 つられて飛び立ったか、羽音が一斉に聴覚に届いた。 村を眺めながら、一人鳥と戲れるだけの妹紅。 退屈しのぎに村外れの樹まで飛んできたはいいが、今日は此処からでは慧音の姿が見えぬ。 まあ、それも珍しいことでは無い。慧音とて村に日参しているわけでもなかろうし、何処かの家に招かれているのかもしれない。 何も変わらぬ。 村の様子も、どうせ常と変わるまい。 何時もと変わらぬ光景。何時ものままの大樹。何時ものように佇む村の―― ――いや。 ゆらり。 妹紅の見つめる先、微昏い曇り空が煙っている。 何かが――違う。 ゆらり。 ゆらり。 煙だ。 空の煙だ。 村外れ、痩せた土壌ゆえ田畑にもならぬままの荒地から、煙が立ち昇っている。曇り空よりもきつい灰色の煙がゆらゆらと踊っている。 それに、鼻に届くこの匂い。羹めいた、喉を刺す生臭いそれ。 木々を燃やしたより黒い煙。 生肉の焼ける臭い。 訴えかけるものがあった。 妹紅は意識して煙の根元へと五感を向ける。そういえば昼過ぎから村人たちが慌しく駆け回っていたようにも思う。 人が輪を成している。 その中央で何かが燃えている。 煙の源は其処だ。 荼毘に附されているのは――人か。 俯き泣いている小間使いの容姿に妹紅は覚えがあった。 「ふーん、あの子か……」 先日慧音を見送っていた娘だ。となれば、焼かれているのはあの少年であろうか。 まだ幼ないのに、などという感傷は沸かぬ。 早かれ遅かれ、所詮人は死ぬのだ。 否、死ねるというのはある種の幸福ですらあろう。 望まずに永遠の生を得ている妹紅にしてみれば、羨ましさすら感じる。死の苦痛を一度味わえばそれで全てが済むのだ。楽といえばこれほど楽なこともない。 最も、葬送の場に視るべき点が無いわけでもなかった。幻想郷ではあまり見ない儀が行われていたからだ。 ――火葬とは珍しい。 少なくともこの辺りの村では土葬が一般的のはずだ。習慣が無いわけでもなかろうが、手間隙かかる火葬を好む者はあまりいないと慧音から聞いた覚えがある。火葬を行うとすれば理由は二つ。 一つは、故人が強くそれを望んだ場合。宗教的な信条であれ、それ以外の理由であれ、火葬を選ぶ者も少数ながらいるだろう。 そしてもう一つは。 ――流行病の類か。 流行病、それも人から人に広まる類のものであれば、病のさらなる広まりを防ぐために火葬に附すのは当然のことだ。 わざわざ慧音が通っていたということは、相当に重い病であったのか。 村人がどう思うているかなど妹紅には知りようも無い。また、知りたいとも思わぬ。 手持ち無沙汰ながらに火葬の様子を眺めていると。 ぎい、と。 木の建造物が軋む音がした。 目を向ければ、あの屋敷の門が開き、一つの姿を吐き出している。 蒼と白の髮。 独特の帽子。 携えた木箱。 上白沢慧音である。 ――矢張り来ていたか。 心無しかやつれているのは、治療の疲れだろう。眼が赤く腫れている。泣き腫らしたというよりも、夜を徹したといった様子。 荼毘に附されていた少年を夜通しで看取っていた、というところか。 慧音は遺骸を燃やしている場へ足を向ける。 妹紅は樹の上からそれを見つめ続けている。 村外れの荒地に慧音が足を踏み入れた瞬間。 ざあ、と。 集まっていた人々が一斉に道を開けた。 否。 道を開けたわけではない。 じっと観察していた妹紅には解った。村人は、慧音が向かってくる間、小聲で囁きあっていた。道を開けた時も、どこか怯えた様子があった。 してみるとこれは――慧音を避けたのか。 肅々と慧音は火葬の現場へと足を進める。 頭を下げ何やら話しかけているのは、先日も見送っていた小間使いだけだ。残りの大多数は、遠巻きにしたまま何やら言い交わしている。 ひそひそ。 ひそひそ。 耳障りな聲の欠片が妹紅の耳に届く。朴訥そうな男が、白髯の老爺を相手にこそこそと言葉を告いでいた。 ――気に入らぬ。 男がちらちらと慧音を視る眼がどうにも癇に障る。敬意も感謝も無く、恐怖と異物感に満ちた嫌な視線。 妹紅が目を閉じ意識を集中すると、囁きが拡大されて瞭然と耳に入って来た。 また死んだ―― あのお方が来るからじゃ―― 恐ろしい忌まわしい―― これじゃから妖怪は―― 「……何これ」 耳に届いた幾葉かの言葉に、妹紅は顏をしかめた。 棘に覆われた、好意とは程遠い言辞。 誰のことを示しているのかは明白だ。村人たちから見た「妖怪」と云えば、今この場には一人しかおるまい。 じっくりと観察してみれば、慧音に向けられているのは明白に異物を視るそれ。慧音もまた、村人に視線を返そうとはしない。 煙となって空に還る少年にと手を合わせ、黙祷。一言も発せず、広場から村の出口へと向かって行く。 淡々とした、感情の一片も伺わせぬ表情。 村人はその後姿を見送ると、一斉に息をついてがやがやと蠢きだした。 噂話を囁き交わしていた男も、集団から抜け出ると、校外へ続く道に足を向けていた。 しかし、男の言葉が引掛る。 「あのお方が来るから」というのはどういう事だ。 慧音が来るから誰かが死ぬとでも云うのか。 馬鹿馬鹿しい、それでは話が逆だ。死を待つしかない程の病人がいるから、わざわざ慧音が来るのではないか。言い掛かりにも程がある。 そこまで考えると何だか急に腹が立ってきた。 心無い言葉にも。 村人の態度にも。 慧音の態度にも。 とにかく、何だか知らぬが無性に腹が立ったのだ。 だから妹紅は、陰口を交わしていた男を目で追った。そいつが見てて一番頭にきたからだ。 男は、剥き出しの土の上、申し訳程度に整えられたうねくる道を歩んでいる。しばらく足を進めると、村を振り向いて一人ごちた。 これで、村も落ちつくだろうて―― それを聞いた瞬間。 考えるより先に体が動いていた。 枝を蹴る。ふわりと、空に舞う身体。 宙に浮いた肢体は、地面からの引力を物ともせずに軽やかに空を飛ぶ。 風に吹かれて舞い上がった裾を抑える。不死鳥の力を宿す妹紅にとって、村の端から端なぞ一跳びの距離だ。 瞬時に男の上空に辿り着く。 力を抜いて身を大地に引かれるままにした。 とん。 地面に足をつけると、土煙が少しだけ舞い上がった。風圧で乱れた服を手早く直し、息をつく。面を起すと、呆然としている男が一人。 ――嫌な表情だ。 愚鈍そうな面に、妹紅は嫌悪感が一層高まるのを感じる。 さっきまでの陰口などとうに忘れ去ったかのような、罪悪感の欠片も無い表情。妹紅にはそこも許せない。 間抜け面の男を睨み附け、一歩踏出す。ゆっくりと口を開いた。 「ちょっとアンタ」 「……な、なんだい、いきなり」 一歩下がると男は答えた。 粗末な衣服。仕事で鍛えられた、良く発達した筋肉。日焼けした朴訥そうな容貌は、妹紅の突然の出現に戸惑っている。 いや。戸惑っているというより、怯えている。 それはそうだろう。空から降って来た少女が、脈絡も無しに詰め寄ってくるのだ。普通ならば、妖の類としか思うまい。となれば、何の変哲も無い村人が怯えるのは当然である。いきなり人間以外の者に絡まれて萎縮しない人間は、そうは居ない。 最も、妹紅は不老不死とはいえ人間だ。無闇に他人を怯えさせる趣味は無いし、妖怪と間違えられるのも本意とは云えぬ。 だが今は――都合がいい。 男はまた一歩後ずさった。前後左右を見回しても、既に村は遠い。 つい、と口の端を吊り上げる。出来るだけ兇悪そうな微笑を浮かべ、距離を詰めた。 「別にとって喰おうってんじゃないわ。ちょっと聞きたいことがあるだけ」 「き――聞きたい、こと?」 鸚鵡返しの呆け面。 「さっきの村のことよ。あの妖怪、アンタたちの世話を良く焼いてるわよね」 「妖怪……上白沢のお方か――」 その名を口に出す時、男が一瞬怯えた様子なのを妹紅は見逃さなかった。腹の奧に堆積する怒りをこらえたまま、詰問する。 「それにしちゃ随分な態度じゃない。こそこそこそこそと遠巻きにして噂話。村の仲間看病して貰って、看取ってまで貰っておいて、一言も声かけなかったわね」 頭に血が上る。無意識に距離を詰め、語気を荒げた。 体温が上がっている。 身体が熱い。 感情を制御出来ていない。 「あのお方が来ると、誰か死ぬんだ。村のモンが病気したり怪我したり、そうでなくても年とって往生したりすれば絶対に来る」 「それが何だってのよ。ただぼうっとそれを見てるだけなんてことはないでしょ。手当てしたり看病したりしてるじゃない」 「それでも、誰かしら死んじまうんだ。だから――」 男はそこで口ごもった。云いにくい言葉があるかのように、ごにょごにょと何か呟いている。その様が、妹紅の苛立ちをさらに募らせる。 「だから、それから何なのよ!」 怒号。 苛立ち。 腕を掴む。 捻りあげた。 肉の捻れる音と骨の軋む音。力加減を誤ったか、男が悲鳴を上げる。 「だ、だからよ、あのお方はよ――」 死神でねえか。 ぼう。 妹紅の内部で、音を立てて何かが切れた。 ぼうぼう。 足元の草が燃え上がった。 道端に積み上げられた藁がくすぶり始めた。 ぼうぼう。ぼうぼう。 男の顏色が変わった。 己も燃やされる――とでも思ったのか、腕を掴んでいる妹紅を振り払おうと暴れだす。 別に男をどうこうするつもりはなかったが、その様子を見ていると腹からの嫌悪感がまたせりあがってきた。 ――火傷くらいすればいい。 ぐいと。掌に熱を集中させようとした時―― 「何をしている、妹紅!」 背中から厳しい声が投げつけれた。。 はっとして振り向くと、そこには仁王立ちで睨み附けてくる慧音の姿。 男を捉えていた手の力が緩む。 草草と藁の束から立ち昇っていた火煙が消えた。 ひい、と声を上げると男は道の彼方に走り去っていった。 四つの瞳がぶつかりあう。 二つは厳しく睨み附け、対する二つはバツが悪そうに目を伏せた。 「あ――あの、慧音、これは――」 大きい溜息をついて、上白沢慧音が近寄ってくる。 「いいから来るんだ、妹紅」 落ち付いてこそいるが反論を許さぬきっぱりとした声色。慧音は妹紅の腕を握ると、否応無しに道を外れた山々の方向へと引っ張って行く。妹紅は、突然のハクタクの出現と、激昂していた所をはっきり見られた極り悪さとで、されるがままだ。 そのままずるずると、妹紅は山へと半ば引きずられて連れて行かれる。 男の姿は、もう何処にも見当たらなかった。 幻想郷の山は深い。 同じような景色が続いているので、何処が何処だか良く解らない。時間も時間だ。山々はすっかり夕焼けに照らされて真っ赤に染まっている。彼は誰刻の曖昧模糊とした光が一面を薄れさせ、何もかもが混沌の中に在るように思えてきた。 村を出てから慧音は一言も口をきかない。怒っているのかとも思うたが、それにしては表情が平淡に過ぎる。冷静を装ってこそいるが、慧音は本来感情がかなり表に出る娘だということを、妹紅は良く知っている。此処にまでに聞こえていたのは、二人の寒々しい跫だけである。 ふと、慧音が足を止めた。薮を抜けた先の尾根沿いに、小さな木製の建物が佇んでいる。幻想郷の中でもことさら人の通わぬ山間。此処が慧音の家なのであろう。 木目の露出した扉へと慧音が吸い込まれてゆく。後追って、靴を脱いで家へと上がり込んだ。 通されたのは、六畳一間。質素な造作の書院だ。 慧音が振り向く。 「煎茶でいいか?」 「あ、うん。構わないけど……」 生返事に頷くと、慧音は部屋を出て行った。何とはなしに、妹紅は周りを見渡す。 屋根は造り茅葺だった。見上げると、杉板目張りの平天井。張り出しには達筆の掛け軸。何やら小難しい言葉が書いてあったようだが、興味が無いので読まなかった。四方の柱は杉だろう。いかにも慧音らしい、品の良い書院である。 外観から察するに、決して大きな家ではない。だが、隅々まで気を使って建てられていることは良く解る。見た目といい、立地といい、主の佇まいといい。家でなく、庵と呼ぶのが適切だろうか。 障子が開く。 慧音が盆に茶を載せて戻って来た。妹紅の前に茶を置くと、自分も湯呑みを抱えて正座する。妹紅はあまり行儀の良い方でもないが、一応正座しておいた。 湯呑みを取り上げ口元へ運ぶと、程良い熱さで入れられた茶の香りが鼻腔をくすぐった。湯気が天井へと上ってゆく。 ふわり。 ゆらり。 書院にたゆたう湯気は、曖昧模糊として捉え処がない。 その湯気を通して見える慧音の心の内もまた瞭然とせぬ。 ぐいと茶を飲み込むと、熱い塊が食道と胃を焼いてゆく。その熱に後押しされるかのように、自然と言葉が口をついて出て来た。 「アンタ、あれでいいの?」 思いのほか厳しい響きの聲に、妹紅は微かに眉をしかめる。詰問口調になるつもりはなかった。されど、確かに己の口から出た声である。 慧音がすうと面を上げた。黒と茶の瞳が淡々と妹紅を見返している。 激情の一片も伺わせぬ表情。 慧音は茶を口にして一息。 無言のまま、床に湯飲みが置かれた。音がやけに大きく響く。 その途端。 かあ、と。 何故だか急に頭に血が上った。 乱暴に湯呑みを置くと、慧音にずいと詰め寄る。茶の湯が揺れ溢れ、床を濡らした。 「何なのよあれ。病人の面倒みさせて子供の遊び相手させて、ろくすっぽ見送りにも出てこない。遠巻きにしてこそこそ噂話するだけ。あげくの果てには死神呼ばわり。冗談じゃないわ。別にお礼を云えとかそんな主張するつもりはないけど、それなりの扱いってもんがあるでしょ!」 一気呵成にまくしたてると、余計興奮してきた。乾いた喉を潤すために茶を飲み干しても、腹立ちはおさまりそうにない。 睨み付ける。落ち着き払って見返してくる視線が、興奮を助長する。 慧音は溜息をつくと、ただ一言。 「あれでいいんだよ、妹紅」 そう云った。 「――っ」 絶句。 言葉を失う。 ぶるぶると、握り締めた拳が震えている。 身体が熱い。何かのきっかけがあれば、周りを燃やしてしまいそうだ。 全身から溢れ出そうな炎をやっとのことで抑え込む。すると益々、心の内の苛苛が高まつてくる。 「何がいいってのよ。アンタ、いいように使われてるようなモンよ。一人で頑張って面倒みて、ぞんざいに扱われてはいさようなら。それでも『あれでいい』だなんて、お人好しにも程があるわ」 声が高鳴る。また湯呑みを乱暴に叩きつけると、粗末な作りの書院が揺れた。 だが。 調子が激しくなるにつれ、苛苛がつのるにつれて、妹紅の心の何処かが冷めてゆく。 否。 ただ一言の答えの所為で、芯は既に萎えている。 慧音がそう云うなら納得せざるを得ないと、妹紅の中の誰かが囁いている。 ――解っているのだ。 慧音は真っ直ぐな娘だ。優れた判断力と広い視野を持つ知識と歴史の申し子だ。己の信念を貫き、納得したことは誰が何を云おうと実行する。 ならば――怒鳴ったとてどうなるものでもない。妹紅がわめいても何も変わらない。慧音はちょっと困ったような顔をするだけで、また村へと病人を介抱し、やがては死を看取りに行くだろう。 そもそもからして、妹紅の云うていることなぞお節介に過ぎぬのだ。慧音はとうに全てを納得し、受け入れている。どうのこうのの口出しなぞ、余計なお世話と切捨てられても文句を言える筋合いではない。 それでも。 「だって、あれじゃ慧音一人が悪者じゃない! アンタ人間好きなんでしょ? だから子供と遊んで人の面倒みて何かあれば村に駆けつけてるんでしょ。悪いことなんて何一つしてないじゃない。それなのに、あんなのってない。幾ら何でも慧音が可哀想だよ……」 声がくしゃくしゃに濡れている。 妹紅は何時の間にか泣いていた。 啜泣ではない。子供のようにしゃくりあげる。 がたがた。 がたがた。 弥生の風が庵を揺さぶる音が、やけに大きく響く。 涙で視界が霞んだ。嗚咽を飲み込んで目をこすった時。 ぽふ、と。 軽く柔らかい音と共に妹紅の視界が暗転した。 後頭部と背に回された手。頬に伝わる肌の温かさ。してみると、この状態は―― 「ちょ、ちょっと、慧音――」 「――優しいな、妹紅は」 丁度妹紅を抱きかかえるようにして、慧音が呟いた。ふっくらとした胸元に、妹紅の頭が埋まっている。 何か云おうかと思ったが、何も思いつかぬ。 上目遣いに見てみると、妙に穏やかな慧音の表情。言葉を発する気がさらに萎えてゆく。 一分ほどであったか。それともたっぷり数分か。 涙腺が落ち着いた頃、妹紅の頭を抱いていた手が離れていった。 頭を起すと、先までと同じくきちりと正座した慧音の姿。妹紅も慌てて姿勢を正す。 妹紅は何も云えぬ。 慧音も何も云わぬ。 微妙に気まずい空気を、慧音の静かな声が破った。 「村の人たちの振る舞いはあれで正しいんだよ。私が納得しているという以上に、理にかなっているんだ」 「でも、慧音……」 何か云いかけた妹紅を手で制し、慧音が言葉を告ぐ。 「聞いてくれ。いいかい、私が呼ばれるのは、村の誰かが運悪く重い病にかかったり酷い怪我をした時とかだ。中には持ち直す者もいる。だが、大抵はそのまま―― 彼岸へ行くしかない。私が呼ばれるような場合、ほとんどは数日以内に死者が出るんだ。私は少し知識と経験があるというだけで、本職の医者でも何でもない。彼らの苦痛を少し和らげるのが精精だ。命を救うことは、悔しいけれど難かしいんだよ」 「……ダメ、やっぱ納得いかない。だって、アンタを呼んだのは村の連中なんじゃない。慧音を責めるのは筋違いよ。感謝されても当然だと思う」 「その通りかもしれない」 ただ――と。慧音がまた口を開く。 「妹紅。幻想郷で村など作っている人間は、特別な力を持っていないんだ。寿命で死んだとなればまだ納得もいくだろう。でも、妖怪に襲われることもある。村に籠っていても、何かの事故でたまたま頭を打てば死ぬ。流行り病でも死ぬ。そこに明白な理由なぞ無いんだよ。朝まで非の打ち所の無い真面目な暮らしぶりをしていた人が、夜になったらもうこの世のものではない。皆から愛される女の子が流行り病にあってそのまま消えてゆく。両親はそれじゃやりきれないだろう」 「ひどい話だけど――そんなものよ。愚痴を云っても、死んだ人が生き返ったりはしないわ」 「そうだ。本来世間なんてそんなものだ。解り易い因果関係なんてものはない。だけどね、妹紅。例えば、偶々私だけが流行病にかかって、偶々それが酷い病で、さらに偶々私が死んでしまったとしよう。残りの皆は何処も悪いところがなく元気で健康だ。『上白沢慧音は運が悪かった』の一言で、妹紅は納得出来るか?」 「そんなわけないでしょ。縁もゆかりも無い相手ならともかく、よりによってアンタなんでしょ。偶然だ運だで片付けられたら、理解出来ても納得出来ないわよ。正直頭に来るし、アンタがそうなる理由でも見つけなきゃやってられ――」 突如。 全てが一挙に理解出来た。 言葉を切って目を落とす。 茶の湯の表面に己の顔がゆらゆらと映った。 深く大きく、息をつく。 「――そういうこと、なんだ」 「ああ。納得のいかない死などというものは、誰かの所為にしなくてはいけないんだ。あの村みたいに小さな共同体ならなおさら。その“誰か”が、私であったというだけのことだよ」 「そうかも――しれないけどさ」 慧音の言葉は筋が通っている。妹紅が親元で暮らしていた頃を思い出せば、容易に納得がいった。少しでも変事があれば魑魅魍魎の所為にしていた。 陰陽師。 亡霊。 鬼。 思い起こせば、人ならぬ輩に、あらゆる害の責任を押し付けていた。納得いかぬ事象、因果関係を説明出来ぬ現象に対しては、半ば無理遣りに因果関係を造りだして説明していたのだ。 こと幻想郷でも変わりはない。いや、幻想郷に限らず、人というのはそうしたものなのかもしれぬ。 でも。 ――何かが違う。 それでは慧音は一人で憎まれ役を買って出ているようなものだ。 まるで聖者ではないか。いかに必要だからといって、そこまで出来るものなのか。 成る程、慧音は人間が好きなのだろう。手遅れとわかっている者を介抱し看取るのも、善意から出ている行動だろう。 だが、幻想郷には人も、人ならぬ人も、妖怪も住んでいる。わざわざ慧音が憎まれずとも、俎上に乗せる対象は幾らでもあるはずだ。 責任を己以外に転化するのは容易なはずなのだ。村人は手近で身近なスケープゴートとして慧音をあげつらっているにすぎない。 云ってみれば、慧音が自発的に己の役割を引き受けているような、そんな違和感を妹紅は感じている。 まだ、何処か納得がいかない。何か理由があるに違いない。 「でも、それだけじゃ――」 「長々と話してしまったな。妹紅、夕飯は何がいい?」 手に持っていた湯呑みを置き、慧音が座を立った。口調は柔らかいが、瞳と気配がこれ以上の問答を拒絶している。 こうなってしまっては何を聞いても答えてはくれまい。 妹紅が自分の膝元を見下ろすと、汗と涙の残滓で畳が濡れていた。 ――そういえば。 こんな風に怒ったり泣いたりしたのも随分と久しぶりだと、妹紅は思う。 視線を元に戻すと、慧音が炊事場へと消えてゆく所だった。 人里離れた小屋の中、妹紅は一人寝転がって天井を見詰めていた。 慧音とは数日会っていない。 あの日は結局、遅い夕餉をとって庵を辞した。泊まっていけと云ってくれたが、妹紅にしては珍しく強く断った。 どうにも気まずかったのが一つ。今一つは ――いったい、何故。 矢張り慧音の言葉に納得いかぬ部分があったからだ。 大抵の場合、慧音の云った事が心中に引掛り続けるなどということは無い。一見直感に反しているようでも、筋道が通っており、時間をかけて解釈すれば容易に受け入れられることを語るのが上白沢慧音という娘である。 だが――此度はそうもいかぬようだ。 ごろり。 体を伸ばして、寝返りをうつ。 視野に飛び込んでくる、年季の入った木製の天井。 気晴しに天井の染みを数えても、十個に至る前にやめてしまう。 霧の中に居るような、頭に霞がかかったような、どうにもすっきりとせぬ心持ちの所為だ。 柔らかい枕を腕に抱え込み、もう一度ごろりと転がると―― がん。 「――あ痛」 背中を箪笥の角に強打してしまった。 茫としていた所為か、家具が目に入っていなかったようだ。 背中が痛む。不老不死でも痛覚は昔と何一つ変わらない。 衝撃が思いのほか強かったのか、箪笥の上に積み上げていた小物がぼろぼろと落ちてきた。米袋やら菓子の詰った籠やら、ここ数年開けた覚えの無い木箱などが、妹紅の周りの畳の上に散乱する。 掃除をさぼっていたせいで、結構な量の埃も舞いあがった。 軽く咳き込むと、妹紅は半身を起しうんざりと箪笥に目をやる。 ――面倒な。 顔をしかめて立上がる。落ちてきた小物を元に戻さなければならない。 籠を箪笥に乗せる。 食料は台所に運んでおく。 箱の一つは、床に落ちて引繰返っていた。物臭のせいで溜め込んでいた雑貨類が周囲に飛び散っている。どれを見ても、塵芥として捨ててしまおうと思っていたものばかりだ。 「自分のこととは云え、なんでこう塵芥を溜め込んじゃうのかしらね」 ぶつぶつ云いながら、大き目の袋を引っ張ってきた。 特に吟味もせず、ぽいぽいと雑貨を放り込んでゆく。 ごそり。 手の先に当たった感触に記憶があったので、一旦手を止めた。 「あれ、これって――」 それに目を留めると、妹紅は呟く。手にとっていたのは、人を模った玩具。 服は摩切れ、髮は切れ切れ。女官を模っているのであろう彩な衣装も、色がすっかりくすみ、かさかさとしている。 古い雛人形であった。相当に使い込まれており、埃と汚れとがしつこく染み込んでしまっている。 それでも息を吹いて埃を払うと、少しは見目が増しになった。 とはいえ、年代物だ。道端で見かけたら打ち捨てておくほどに薄汚れている。 だが確かに――妹紅はこの人形のことを、知っている。 おずおずと煤けた面に指先を当てる。流れ込んでくる――と云うよりも、内より沸き出て来る記憶の奔流。脳髄の片隅に眠っていた姿と声とが、明瞭に思い出される。 土産として人形を持って帰ってきた時の父の笑顔。 無邪気にはしゃいだ未だ幼なかった己と、女房たちの笑い声。 当時にしては珍しい、純粋に娯楽用品としての人形だった。 何時仕舞い込んでしまったのかは覚えていないが、妹紅と常に共にあったのは確かであろう。 華やかな貴族時代や流浪の日々に付随した記憶と感情が、久々に蘇った。思わず口元が緩んでしまう。 「こんなとこにいたんだ。お帰り」 人形に向かって語りかける。 同時に妹紅の手が止まる。 ――お帰り、だと? やけに大きく響いた独り言に、引掛るものがあった。 片付けの手を止め、人形を見詰めて、ぼんやりと妹紅は考える。 もし雛人形の事を覚えていなかったらどうなったか。 袋に詰め込まれた塵芥の如く、ただのモノとして処分され、忘れ去られてしまったのではなかろうか。 人形が発見されたのは偶然だ。 だが、発見した後、妹紅が覚えていたからこそ人形は帰って来たと云える。 ――もう一つ。 なぜ、人形だけを明瞭と覚えているのか。 共に仕舞い込まれていた雑貨類の古さも、人形と同程度だ。 だが、手鏡や衣といった親しい日用品ですら、何時何処で用いたかを、用いていた時に関わった者たちを既に思い出せぬ。 だのに何故、人形だけ。 思い当たる節が無いではない。 幻想郷より来る前の記憶はとうに霞みおり、瞭然とせぬというに、妹紅はこの人形に纏わる人や物を明白に思い起こすことが出来る。 また蘇る、旧来の日々。 京の都の四季。 ざわめく人々。 家人との戲れ。 そう。 雑多な物物とこの人形とに差異があるとすれば、思い出の量、付随した感情の量であろう。 そこまで思い至った時。 ――そういう理由か。 瞬時に。 全ての疑問が氷解した。 慧音の言葉が、すとんと腑に落ちた。 人形を箪笥の上に安置すると、立附けの悪い扉を急いで開けた。 見上げると、もうすっかり夕刻。陽が、幻想郷を赤々と染めている。 片付けも半ばのままに地を蹴って空を飛ぶ。 胸の内は反省と後悔で一杯だった。出来るだけ早いうちに、慧音に謝らねばならない―― 半刻も飛ぶと、村からだらだらと続く坂道が見えてきた。 夕雀色の上空から視れば、真赤に照らされて歩む少女の姿が一つ。 帰路にある上白沢慧音である。何時ものドレスに身を包み、見慣れた帽子を揺らして淡々と歩いている。 見送る者は居ない。 村の様子を見て、帰って来たものか。 「慧音!」 「どうしたんだ、妹紅。そんなに慌てて」 急降下して地に足をつける。慧音はさっぱりした顔をしていた。 そんな表情を見ると、何だか意気込んで語りに来た自分が少し恥しくなる。我知らず、言い淀んだ。 「その……こないだのことなんだけど……」 「……妹紅、少し歩かないか」 察したか、慧音はそう云うと道から外れた野原へと歩を進めた。妹紅もそれに従う。 さくさくと草を踏む。 野分が吹き抜けた。 風に前髮が散らされ、慧音が目を細める。その様子を見ていると、何故だか自然に言葉が口をついた。 「昨日はごめん。アンタの気持ちも考えないで、あんなこと云っちゃって――」 「何だ、まだ気に――」 笑いかけた慧音に向け、微かに首を振る。 「聞いて、慧音」 先日とは違って、今度は妹紅が慧音の言葉を遮った。 くるくる、くるくると、野分に散らされた草が舞っている。 ふわりと穏やかな風が、二人の長髪を揺らした。妹紅は足を止めると、じっと慧音の瞳を見つめる。 「やっと解った。なんでアンタがああまで村の人を大事にするか。ううん、村の人に限らず、どうして人間を見守って、ずっと味方でいるのか」 息を吸い込む。溜まっていた靄を形にするかのように、腹腔から吐き出す。 「アンタは、死んでく人を覚えてようとするから――でしょ」 「幻想郷じゃ、死んだら幽霊になれる。神隠しにあったりしても、そのうち戻ってくることも結構あるわ。云ってみれば、彼岸に行っても此岸に帰ってこれる。ひゅーどろどろ、みたいにしてね」 柳の下とばかりに、妹紅は手首から先を地面向けて曲げる。慧音はそれをじっと見詰めている。 「―― でもね、帰ってこれるのは、覚えてくれてる誰かがいるからじゃない。そりゃ最初のほうはいいわよ。両親子供親族がいる。友人知人もいる。ちょっとした顏見知りもいるかもしれない。でもさ、誰も彼もが忘れてたら、戻って来ても意味が無い。それどころか、人じゃないだの幽霊なんて忌まわしいだの、酷い扱いを受けるでしょうね。多分それは、とっても哀しいことなんだ。だから――」 「だから?」 ――アンタだけでも、覚えてようとしてるんでしょ。 妹紅がそう云うと、慧音は静かに笑った。 「そう――かもしれないな。私は歴史の獣だ。歴史の上を通ってゆく人たちを覚えておくのは、私の義務だと思うよ」 「わざわざ悪者になってるのもそのせいなんだね。感謝の念だけじゃない。意図的に悪役になって、理不尽な恨みつらみを受けることで、アンタは村の人を一々心に留める。正のと負のと、両方の感情を受け入れて、幻想郷の歴史に一人一人を確乎りと刻みつけてるんだ」 「私にしか出来ないからな。他の妖怪は記憶も記録も出来ないか、しようとしない。人の中にはそうしてる者が居るかもしれないが、何せ定命だ。寿命が長いのは、こういう時有難いよ」 流れるような言葉。これで終わり、とばかりに慧音は息を吐いた。 でも――と。妹紅は口を尖らせる。 「寿命のケタが違うっていっても、妖怪だって不老不死なのはごく一部よ。死なないまでも、ある程度年とったら姿を消すようなのも多いじゃない。アンタだってそうでしょ、慧音」 「ああ。白沢は不老不死じゃないからな。それに私は半獣だし、まあ、数百、数千年もすれば居なくなってしまうだろう」 「じゃあ――」 一旦言葉を切り、慧音の瞳を覗き込んだ。 「じゃあさ――アンタのことは誰が覚えててくれるってのよ」 その問いに、慧音は虚を付かれた様に一瞬黙った。 だが、すぐに口を開く。普段そんなことは気にも留めないだけで、まるっきり考えたことが無いわけでもないのだろう。 「おかしなコトを聞くな、妹紅は。好かれようと憎まれようと、人間たちは私のことを知っているし、少しは覚えてるかもしれないじゃないか。私はそれで――満足だよ」 静かに笑う慧音。 妹紅は心底からの溜息をつく。 こいつは。 なんで、こいつはこんなに―― 「覚えてるわよ」 ぶっきらぼうに云い放った。 突然何を云い出したのかと、慧音はきょとんとしている。 「私は本当に不老不死だからね。年もとれないし、死ねない。だから転生の予定はないし、幽霊なんてなるわけもない。おまけに人間だから、妖怪みたいにこっそりどっかに行っちゃうなんて趣味も無いわ」 無い無い尽くしね―― 妹紅はそう云うと、表情を緩めた。 「アンタに何があっても、私が何時までも覚えてる。人間たちが居なくなっても、幻想郷が無くなっても、アンタが何処か遠くにいっちゃっても。慧音が何もかも覚えてるだけじゃ不公平だからね。私はアンタ程頭良くないけど、一人のことをずっと記憶してる位は出来るわよ」 息をついた。 慧音は目を丸くして妹紅を見ている。 妹紅はそれを見返している。 くるり。 慧音が背を向けた。立ち去るでも無く、何か云うでも無く。 ごしごしと、目を擦るようにその手が動いた。 沈黙は一分ほどだったか。 「馬鹿だなあ、妹紅は」 山の方に向けて言い放つ。いつもなら落ち着いている声が震えている。 「馬鹿はアンタもでしょ」 言い返すと、吐息の音が聞こえた。 また、沈默の帳が下りる。だがそれは、先日と違って居心地の悪いものではない。 やがて。 「――それもそうか。お互い様だな」 慧音が振り返る。 笑っていた。憂いの一片も無い、晴々とした笑顏だった。 妹紅も笑う。数百年振りに、心の底から笑顏を浮かべた。 「――帰ろ、慧音」 手を差し出す。握り返される。 二人は手に手を取って、だらだらと続く坂道を下ってゆく。 雲一つ無い夕焼けが赤々と二人を照らしていた。明日は良い天気になるだろう―― (了)
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