私は庭を眺めている。
 その人の頭越しに、青々とした樹樹を見詰めている。
 そうしているのは退屈しているからだというのに、目の前の女性が気付く様子はない。きんきんと耳障りな高音を垂れ流し続けているだけだ。
「……ですからね、悪いようにするつもりはないの。貴女も一人での生活は大変でしょう? この屋敷だって広いのですし、維持が大変よ。お兄様がいらした頃なら庭師やメイドに任せれば良かったのでしょうけど、今では貴女しか住んでいないじゃない……」
 何度も何度も聞いた言葉を、飽きもせずに繰り返す。そんなことは承知の上での一人住まいだと、何回云ったら解って貰えるのだろう。
 繰り返しということを割り引いても叔母の話は退屈だ。どこかで聞いた内容、どこかで聞いた声、どこかで聞いた口調。せっかくの心地良い午後が台無しだと、私は内心溜息をつく。
「聞いているの、レイラ?」
「……聞こえています、叔母様。その件については何度もお答えしているはずですが」
 気を入れて答えようとしても、どうもいけない。面倒だといわんばかりの投げやりな声になってしまう。顔にこそ出さないが、叔母も不快なのではなかろうか。
 気をつけねばならない。どんな相手にも真摯に接しろというのが、父の教えだった。もっとも、三人の姉は誰一人として守っていなかったが。
「この家を見捨てたくない、でしょう。気持ちは有り難いわ。私だって、プリズムリバー家代々のお屋敷は取っておきたいわよ。でもね、伯爵――兄さんは財産なんて残してくれなかったわ。税もかかるし、維持費だってあるでしょう。このままじゃ、今まで通りの暮らしを送ることは出来ないのよ」
 この人は何を云っているのだ。
 成程、父や姉さん達が居た頃と同じような生活を送ることは出来まい。けれども、私はそんな暮らし方をしたいなど思ったことはない。ひっそりと、世に知られずに、必要な時に街に出るだけの生き方が出来れば満足なのだ。何度も何度も説明したはずだが、俗物の叔母には解って貰えないらしい。全く、このような人と血が繋がっているなどとは考えたくもないものだ。
 ティーカップに口を付け、ハーブティーの香りを楽しみながら窓の外に目をやる。悠長な私の仕草に叔母が苛ついているが、そんなことはどうでもいい。
「それについても前にお答えしました……それで叔母様、本題は何なのですか?」
 隠し事をしているのは始めから解っていた。叔母は俗物だが愚かではない。同じ事を繰り返し云っていれば私が云うことを聞くと考えるようなはずがなかった。何かと話を引き延ばしているのは、云いたいことを云えずにいるからに違いない、
 切り出しにくい話題なのだろう。だったらこちらから促した方が話が早い。良い知らせにしろ悪い知らせにしろ、どうせいつかは聞かねばならないのだから。
 宙を泳いでいた叔母の視線が、ぴたりと私に定まった。
「……実はね、貴女に結婚のお話があるの」
「……」
 正気か、と云わんばかりに私は叔母を正面から見る。困ったことに、叔母の瞳も表情も真面目で、冗談を云っているようにはとても見えない。
「悪い話じゃないのよ。うちの家に縁があってね、爵位もある方なの。まだ若いけれど、立派な方よ。英吉利で学位をとって、今ではもうお家の当主らしいわ。俗な話になってしまうけれど、今時の貴族にしては珍しくお金にも困っていない。それはプリズムリバー伯爵家に比べれば少し格が落ちるかも知れないけど――」
「お話は解りました」
 垂れ流される言葉をきっぱりと遮る。話の腰を折ってしまった格好だ。繰り返すが、叔母は愚かではない。私が何故口を挟んだか、解らないということはなかろう。
 案の定、叔母のこめかみに血管が浮いた。父も苛つくとそうだった。顔は全く似ていないが、兄妹ではあったらしい。こんな形で確認などしたくもないというのに。
「申し訳ありませんが叔母様、私、夕食の支度があります。続きはまた後日ということにしていただけますか」
「でもね、レイラ……」
「お帰り下さい」
 視線と言葉が冷たくなるのをどうにもこらえることが出来ない。
 答えを待たずに私は席を立った。座ったままではまたしつこく口を開きかねない。
 叔母も人間だ。一応は屋敷の主である私を尻目に座り込んでいられるほど図々しくはない。それを良いことに、私は彼女を玄関にまで連れて行ってしまう。
「叔母様、今日はわざわざお尋ねくださり有り難う御座いました。お見送りいたします」
「レイ……」
 ばたん。
 終わりまで聞かずに乱暴に扉を閉めた。今頃叔母は憮然としているだろう。
 一気に脱力感が襲ってくる。
 ――結局、せっかくの気持ち良い午後は台無しだった。





 三階まで螺旋階段を登ると、西に向かって歩廊が長く延びている。南に面した壁には、備え付けの扉がある。
 庭に臨む窓からは、大きな夕陽が覗いている。叔母がいつになく粘っていたせいか、もう夕刻になってしまったようだ。そろそろ夕食を作らねばならないだろうか。
 雑念を弄びながら窓から壁へと視線を移す。白い壁紙にも汚れが目立ってきていた。
 考えてみれば、この広い屋敷にメイドの一人もいないのだ。掃除が行き届かずとも当然かもしれない。私も暇があれば手を動かしていたが、掃除することが出来る範囲には当然限りがあった。
 近々人手を借りなければならないな――そう思いながら、扉を見直す。
 黒と白。
 赤と碧。
 四色に塗り分けられた四つの扉。こうやってしげしげと見ると、何とも偏執症的パラノイアックな眺めだ。
 客観的に見ると、扉を原色で塗り分けるなどあまり趣味が良いと云えない。父は確かに物好きな人だったが、ここまでいくと酔狂というより悪趣味だ。
 まあ今更、扉を塗り直すつもりもない。碧の扉――私の部屋は兎も角、残りの三つを弄ってしまっては姉さんたちに申し訳が立たない。
 特にメルラン姉さんは、白い扉と白い部屋を妙に気に入っていた。貴女の趣味は変っていると、ルナサ姉さんとリリカ姉さんによくからかわれていたものだ。
 私はそんな時もにこにこしているメルラン姉さんが大好きで――

 ――やめよう。

 姉さんたちのことを思い出すと、気が沈むばかりだ。ただでさえ、今日は叔母のせいであまり気分が良いとは云えないのに。
 私は頭を振ると、碧の扉に手をかける。
 ぎい、と、微かに軋んだ音がして扉が開いた。

*


 扉の先には、この屋敷でただ一つ生きている部屋がある。
 とはいえ、部屋の調度は単純(シンプル)なものばかりだ。過剰な装飾は好みではないし、そもそも機能性に欠ける。物事は単純であるほど扱いやすく、深みがあるものだ。
 私には少々大きすぎるベッドと、L字型を成す木製の机。ベッドと机が面した壁には採光性に優れた窓があり、緑の庭がよく見えている。書棚には革装幀の本と、姉さん達が遺した楽譜。私の書棚では楽譜が入りきらず、溢れ出てしまっている。頃合いを見て整理せねばと思いながらも、なかなか手は動いてくれない。
 山積みになった楽譜の真横には姿見が在る。私の背丈ほどあるこれも、使って随分と長い。
 私は鏡の前に立って手を広げる。
 鏡面に映し出されるのは、碧の眼をした一人の娘だ。
 深い黒髪。
 青白い肌。
 痩せた身体。
 手入れもしていない癖にさらさらとした髪の毛が鬱陶しい。姉が居た頃は腰までだったそれは、だらだらと伸び続けて足元に届きそうである。
 プリズムリバー伯爵家四女、レイラ・プリズムリバーが其処に居た。
 父や姉たちが可愛い可愛いと抱きしめてくれたのは何時頃だったろうか。気がつけば背の丈は無駄に伸び、昔の服もサイズが合わなくなっている。本来なら、社交界に出て行ってもおかしくないのだから、当然かもしれない。

 ――もうルナサ姉さんが居なくなった時の年を超えてしまった。

 鏡を見て自分を抱きしめると、肘に押し付けられた乳房が痛む。
 私の体は、望みもしないのに女として成熟してきている。叔母が婚姻を勧めてきたのもそのせいなのだろうか。

 ――嫌だ

 そんなのは嫌だ。
 結婚が嫌なのではない。
 生きるのを忌むのではない。
 ただ私は――この現実せかいになど関わりたくないのだ。姉さん達がいないというのに、外に出ることに何の意味があるのだろう。
 何も起らない、誰も居ないこの屋敷で暮らしていきたいと願っているだけだというに、世間はそれを許してはくれない。叔母の持ち込んできた話といい、僅かに残された財産をめぐっての悶着といい、あまりにも面倒なことが多すぎる。
 ぽすり、と。溜息をついてベッドに身を投げ出した。じとりとした感触が身を包む。最近干していなかったせいか、布団が少し湿気っていた。
「……はぁ」
 溜息をついてごろりと転がると、丁度視界に姿見が入ってきた。この鏡との付き合いは相当に長い。色々な物を手放してしまったが、これだけは何故だか手元に置いておきたかった。
 元々は、父が姿を消す直前に海外からの土産として贈ってきたものだ。
 何でも東洋で特別に作らせた珍品らしい。中国だったか西蔵(チベット)だったか。いや、もしかすると日本製だったかもしれない。
 だがまあ、出自を問うても意味無いことだ。答えられたであろう父はとうに居ないし、私もわざわざ調べるまでの気力はない。珍品であり、私が気に入っているというだけで、部屋に置き放してにしておく理由は十分だろう。
 改めて姿見をじっくりと観察する。
 つくづく良く出来た品だ。縦と横の配分比も、枠に施された落ち着いた装飾も申し分がない。ころころとベッドに転がりながら眺めていると――
「……あれ?」
 妙なことに気付いた。
 鏡の一部が曇っているのだ。それも、息を吹きかけたような白い曇り方ではない。鏡の丁度中心、真中がぽっかりと黒くなっている。小さな影が映り込んでいる、といったところだ。
 汚れがこびりついているのだろうか。
 そう思い、手を伸ばして塵紙でこすってみるも、手応えはない。こそぎ落とせないことから見ても、埃が付着したというわけではなさそうだ。
 何なのだろう。三文恐怖小説ではあるまいし、鏡にこの世ならぬものが映り込んでいるわけでもなかろうに。もっとも、世間では幽霊館と噂されているプリズムリバー屋敷、死霊生霊が彷徨っていても驚く人はあまりいなさそうだ。
「ふぁ……」
 その影を見つめながら、大きな欠伸を一つ。
 瞼が重い。まだ夕方だというのに、妙に眠くなっている。叔母とのやり取りで疲れてしまったのかもしれない。
 夕食の前に一眠りすることにしよう。誰に注意されるわけでもない生活なのだから。昔なら、惰眠を貪りでもしていたらルナサ姉さんに大目玉を食っていたところだ。
「……お休みなさい」
 誰に云うとでもなく呟き。
 そうして私は、眠りの淵へと落ちていった。





 ――夢を見た。


 私は家の前に立っている。
 鉄柵に囲まれ、広々とした庭が在り、住人の数の割にやけに大きい、そんなお屋敷の前に。
 云うまでもなく私の家、プリズムリバーの住処だ。だったら扉を開けてすいすいと中に入っていけば良いのに、何故だか私は庭と玄関の境目に立ちつくしている。見上げれば、のしかかる石壁、尖塔めいた屋根。
 まるでそびえ立つお城だ。私が住み慣れているのは屋敷であって城ではない。だから、いつも見ている筈の景色も奇妙に見える。見知らぬ街で見知らぬ建物に迷い込んでしまった気分だった。
 奇妙といえば私の格好もまた妙だ。鋭角的な帽子に、飾りの付いたちょっと恥ずかしくなってしまいそうな装束一式。色は碧で統一されており、帽子のてっぺんにはご丁寧に雲をあしらったアクセサリーが乗っかっている。帽子は奇妙な形なのに、ぐらぐらと揺れることもなく頭にぴったりと乗っかっている。まるで演奏会の舞台衣装だ。
 いや、まるで、ではなく実際に舞台の衣装なのだろう。
 その証拠に、扉の向こうからは音が漏れ聞こえてくる。
 弦と吹と鍵。鮮やかな三重奏。
 耳にしたことのない旋律だが、軽やかさが心地良い。軽妙で楽しげな演奏に心が浮き立つ。
 鍵穴を覗き込むと、ちらちらと色の欠片が踊っている。黒と薄桃と赤の衣装、金と藍白と茶の髪。
 何故かは解らないが、三人の姉が演奏しているのだと私は直感した。嗜み、ということで姉さんたちもそれなりに楽器を扱えたはずだ。最も、腕前はそれほどの物ではなく――せいぜい教養として身につけた程度である。こんな立派な演奏が出来たはずもない。
 だが、これは夢の中だ。揃って立派な演奏を披露することもあり得るだろう。自身を省みても、私たち姉妹はやけに仲が良かった。それを思えば演奏の息が合っているのも当然だ。
 音が一層激しくなった。演奏会(コンサート)のクライマックスが近いのかもしれない。
 さて、姉が勢揃いしているのに、私だけここで立ちつくしているわけにも行くまい。楽器は苦手だが、幸いにして詠うのは昔から大好きだ。言い換えれば、私の場合は歌声こそが楽器だと云えよう。
 把手を引く。
 だが扉が開く気配はない。右に左に回しても、がちゃがちゃを音を立てるだけ。施錠されているようだ。ならば、鍵を差し込まねばならないだろう。
 身に纏った衣装をまさぐる。右のポケットに手を入れると、冷たい金属質の棒が手に触れた。すいと抜き出して、眺めると
「……これが、鍵?」
 思わず私は呟いていた。夢の中のせいか、その声もどこか遠くて、有り得ないもののような気がする。
 もっと有り得ないのは、鍵と思しき物体の形状だ。
 先端は確かに鍵なのだ。だがそこから先がおかしい。
 光沢は滑らかで、眺める角度によって色彩が変る。ある時は金色、またある時は銀色、果ては虹色という目映さ。頭の部分には、月、太陽、星をあしらった巧緻なレリーフが刻み込まれている。金属製なのは間違いないが、鉄、真鍮、貴金属ですらないようだ。最も近いのは銀だ。銀の鍵、といったところか。
 実に珍しい一品である。じっくりと観察したい気はするが――
「……まあいいか」
 後回しだ。
 眺めるのはいつでも出来る。まずは、屋敷の中に入るのが先決だろう。演奏は益々激しくなり、急がなければ終わってしまいそうだ。
 改めて扉の前に立つ。
 ゆっくりと鍵らしき金属棒を差し込み。
 ぐるりと回すとそこには――





 窓から差し込む朝日に目を覚ます。
 結局、あのまま眠ってしまったらしい。頭に手をあててみれば、髪はぐしゃぐしゃで服もしわしわだ。着替えも湯浴みもしなかったのだから当然といば当然か。やれやれ、伯爵家の娘がこの有様では、また叔母が血相を変えることだろう。
 ――それにしても、あれは。
 もぞりとベッドから這い出ながら、私は昨夜の夢を反芻する。
 夢の常として何も彼もがぼんやりとして、既にして記憶の彼方に霞み消えつつある。だがそれでも、そびえていた建物は、この屋敷――少なくとも、それに関係したものだということだけは疑いようがない。
 そして、夢の中のあの演奏。
 喧しくはあったが、決して不快なものではなかった。むしろ心地良いくらいだ。あのような奏楽なら大歓迎。無意味に垂れ流される金属質な叔母の声とはとは比べものにならない。夢路では姉たちが演ずると感じたが。
 とまれ思考は後回しだ。背筋を反らして伸びを一つ。今日はどうしようか、そろそろ掃除か蔵書の整理でもしようか――そう思いながらベッドの横の鏡を見て
「……何、これ」
 私は動きを止めた。
 そこには目を鋭く細めた私が映っている。
 いや、それはいい。姿見なのだから、私の姿が投影されるのは当然だ。メルラン姉さんのような優しい顔立ちではないせいで随分と表情がきついが、それも矢張りどうでもいい。
 問題はそんなことではないのだ。
 ――おかしい。
 昨夜も気にかかった、鏡の中心の黒い影。
 それが大きくなっている。
 ぽっかりと浮かんでいたのは、眠る前まで確かに字消しほどの大きさだった。それが今では、握り拳ほどになっている。
 手を当てて大きさを確認してみる。鏡面すれすれに拳を浮かせてみると、ぴったりと重なった。錯覚や気の迷いではなさそうだ。
 目を凝らしてみると、さらにおかしな点があった。影かと思えたそれには、僅かながら凹凸があるのだ。あまりに小さすぎて正確には判別出来ないが、周縁部が浮き彫りのようになっている。さらには、取っ手のように見えるものまで付いていた。
 これではまるで扉ではないか。
 それも見たこともない扉ではない。形状といい、彫り物の配置といい、夢で見たものとそっくりで――

 ――いや、私は何を考えているのだ。

 影が扉だと? そんな荒唐無稽な現象があるはずもない。叔母の来訪に奇妙な夢と、少々負荷がかかる出来事が続いたせいで疲れているのだろう。お風呂にも入らずに眠ってしまったのだし。
 とはいえ、「それ」がお気に入りの姿見に付着してしまっているのは確かだ。服の確認をする際にも不便になるし、放っておく訳にもいかない。
 ベッドの脇の十字窓から空を見上げる。燦燦と照らす太陽、雲1つ無い青空。
 たまの外出には悪くない陽気のようだった。





 雑踏は苦手だ。
 陽の光が苦手だ。
 人の視線も苦手だ。
 だから私は、街に出ると狭い路地を歩くことにしている。覆い被さってくる屋根の隙間から、陽光が少しだけ差し込む。このくらいの明るさが、私にとっては丁度良い。眩い太陽光はどうにも屈託が無さ過ぎるのだ。メルラン姉さんならば兎も角、私には憂鬱な黒い太陽程度がお似合いだろう。
 それは兎も角、だ。
 何処かに鏡を修繕出来る店、古道具屋のような所はないだろうか。街になど殆ど来ないせいで、心当たりが全くない。屋敷に出入りしていた馴染みの職人に頼めば良かったかとも思うが、今更連絡するのも気がひける。
 路地を右に、次に左に。
 大通りに繋がる道を出来るだけ避けて、彼方此方(あちらこちら)へとふらふらしている内に――
「あれ、このお店……?」
 突如、視界に入ってきたそれ。
 何とも云えぬ違和感に、足を止めその建築物を眺めやる。
 路地の右左には石造りの家が密集しているのだが、右手のしばらく先に、木造の小さな店があるのだ。
 木で造られた建物などはじめて見る。
 木と紙で家を組み立てる国があるという噂を耳にしたことはあるが、この街、否、この国にそのような習慣があるとは寡聞にして知らない。
 興味をそそられ、私は其の建物にと向かってゆく。ふらふら、ふらふらとした足取りは、痩せぎすの身体と相まって、餌に引き寄せられる昆虫のように見えるかもしれない。もっとも昆虫といえど、蝶のような華やかさとは無縁。この針金のような細身では、せいぜいが甲虫か七節だろう。
 軒先には木彫りの看板がかかっていた。この国の言葉ではない。まるで絵のような形の文字。父の東方土産に、似たような文字が印刷されていた覚えがある。日本や中国で使われている、漢字とかいう言語だ。
 看板には『香霖堂』と書かれている。
 右隅に「古道具売ります、買います、鑑定修復等引き受けます」とある。古道具屋の類だろう。
 しかし――こんな店のことは聞いたことがない。
 勿論、私が知らないだけなのかもしれない。私は街の人と全くといって良いほど交流がないし、あちら側にしてもプリズムリバー屋敷を意識して遠ざけているからだ。散歩も滅多にしないので、存在を見落としていても不思議ではない。
 だが、それでも妙だ。
 昔からあるなら父やメルラン姉さんが放っておかなかっただろうし、最近出来たのならば珍しいもの好きな叔母が話題にしないはずもない。なら、噂話の一端なりとも、私の耳に入っているはずだが。
 まあいい。
 看板を信じれば、鑑定修繕も引き受けてくれるようだ。鏡を診てもらうのも悪くはないだろう。そのあたりの家具屋に頼むつもりは毛頭無かったのだし、渡りに船というところだ。
 晩夏の風がぬるく頬を撫でてゆく。生温い風に押されるように、私は薄い木の扉に手をかけ、店の中に入っていった。





 奇妙な店だった。
 店内には雑然とした品物が並んでいる。古道具を扱うのだからそれは当然だ。だが、置いてある品物の種類までもが此処までばらばらなのは珍しい。
 鉄製の甲冑があったかと思えば、その真横には翡翠で出来た蛙の置物がちょこんと控えている。金押しの題名が擦れたモロッコ革装の古書が積み上げられ、フライパンや鍋がそれよりも高い山を成していた。木製の衣装箱――箪笥と云っただろうか――の天辺に、青、緑、赤、黄と、割れたスタンドグラスが散らばっている。ひびが入って崩れかけたマリア像が天上から吊り下げられ、その足元に転がっているのは、真鍮で出来た八角形の小物だ。立てかけられた札には『八卦炉』と書いてあるが、何に使うものなのかさっぱり解らない。店の中はどこもかしこもその調子だ。ここまで無国籍だと呆れるを通り越して笑ってしまう。
「やあ、いらっしゃい」
 突然の軽やかな声に、びくりとして振り向く。
 多種多様な意匠に気を取られ、ぼうっとしていたのだろう。そう声をかけられるまで、私は木製のカウンターの向こうに座った男性(ひと)に気がつかなかった。
 店に劣らず変った格好をしていた。
 見慣れない青色の服装に、古風な丸眼鏡、ざっくりとした白髪。顔立ちは明らかに東洋系のそれで、このあたりで滅多に見かけるようなものではない。
 見たところ、年は私よりだいぶ上だ。30歳前後というところだろうか。店の外見と同じように、出自がこの一帯ではないのが一目でわかる。日本か中国の出身なのだろうかと、私はつたない知識で見当をつけた。
 特に印象的なのは眼鏡の奥の瞳だ。外見に似合わない、年齢不詳の目をしている。リリカ姉さんよりも子供っぽくて、父さんよりも老成した色合い。実年齢が判然としない、そんな(ひと)だ。
「店主が云うのも何だけど、固定客以外のお客さんというのは珍しくてね。それも、外から来た人なんて何年ぶりかだ。何かお探しかな」
 低く、良く通る声が店内を満たした。落ち着いた艶のある声だ。私は、こういう音が嫌いではない。
 ところで、外から来た、というのはどういうことだろう。
 確かに、店の主にとっては客というのは常に外からの来訪者だ。万年訪ねてくるような常連客だとしても、それは矢張り入り込んでくるものに過ぎない。外と内を明確に区分してこそ、店主は店主として成立する。常に中に存在しているならば、それは既にして店の一部であり、客とは呼べない。その意味では、「外から来た」という言い方は決して不思議ではない。
 けれども――少し意味合いが違う気がする。抽象表現としての内外ではなく、地理的空間的な意味でそう表現しているような気がするのだ。私が感覚的にそう思ったというだけで、根拠は全くないのだが、それにしても――
「どうかしたかな?」
「あ――えっと」
 静かな声がとりとめもない思考を遮る。
「ここは、どういうお店なのでしょう」
 云った直後に後悔した。何という質問だ。表看板に古道具云々とはっきり記してあったではないか。その上、私はそれを見て入ってきたのだ。今更どういう店なのかもなかろう。
「うん、良く聞いてくれたね」
 良く通る聲。間抜けな問いを気にする様子もなくて、内心ほっとする。
「本堂は由緒正しく見えるけど別にそんなことはない骨董店でございます。売り買い見立てから修繕まで何でもござれ。創ることだけは出来ないけれど、その他は何事であろうとよろず引き受けます。迷家(マヨヒガ)からの皿の鉢、巴里の名探偵が愛用した海泡石(ミアシャム)のパイプに、妖精が編んだ天鵞絨(ビロオド)まで、余所では求め得ぬ珍品名品も満載。して、ご用件は何かな?」
 一気に言い立ててにっこりと笑う。その笑顔につられるように、私はここまで持ってきた姿見を指し示した。
「修理をお願いしたいのです。昔から使っている家具が壊れてしまって。えっと、それで……」
 呼びかけようとして言葉に詰まる。
 名前を聞いていなかったことに今更思い至った。店主さん、でもいいのだが、この空間には少し似合わない気がする。内装も本人も古風な印象だし、ここは名前かせめて通称で呼んでおきたいところだ。
 私の戸惑いを察したのか、その人はゆったりと椅子に腰掛け、言葉を継ぐ。
「修繕も勿論引き受けているよ。後、僕のことは――香霖堂、とでも呼んで貰えるかな」
 そう云って店の主――香霖堂さんは、穏やかに微笑んだ。





「これは面白いね。何処で手に入れたのかな」
「父の土産です。東方で手に入れたと云っていました。印度か中国か、それとも日本かはちょっと解りませんけど」
「成程ね。多分これは日本製だよ。かなり腕の良い職人が手がけてるね。うん、こんな上手物に会えるとは、ちょっと予想外だったな」
 拡大鏡で鏡をつぶさに観察しながら、香霖堂さんはそう云った。
 声が弾んでいる。私には良く解らないが、そういう趣味の持ち主にはたまらないものなのかもしれない。父が海外から帰ってくる度に、名品珍品に囲まれて嬉しそうにしていたのを思い出す。好事家というのは妙なものだ。
 妙といえば妙なのが香霖堂さんだ。風体が街に似合わないという以上に、何かがずれている。硝子の奥の瞳はにこやかに笑っているし、物腰も飄飄として魅力的だ。だというのに、どこか違和感を感じるのは何故なのだろう。どこからどう見ても物好きで人の良い好青年なのだが――
「ところで――」
 落ち着いた声音に思案を破られ、はっと顔を上げる。
 鑑定が終わったのか、こと、と鏡を山積みの小道具に立てかけて、香霖堂さんがカウンターの中に入ってゆく。肘をつき手と手を組み合わせれば、その瞳は射抜くように鋭く、穏やかだ。何とも二律背反(アンビバレンツ)な人である。
「貴女は鏡とは何なのか、考えたことはあるかい?」
「何かを映すためのものではないのですか?」
 鏡は鏡ではないのだろうか。光を受け、その前に置かれた物を、或いは者を正確に反映する道具。
「とも限らないさ。何かを映し出す、という行為には思いの外深い意味がある。キャロル家の一人娘が鏡の向こうに行こうと(Through the Looking-Glass)したのは偶然じゃないんだ。鏡は古代から世界各地で呪物(まじもの)として使われてきた。東洋のシャーマンは國の未来を鏡で占ったし、欧羅巴では凸面鏡は神の瞳として解釈されてきたんだよ。鏡をシンボリックに用いた絵画に至っては数知れないさ。ただの家具がそんなにも長く執着され続けるわけがない。昔のお話でも、鏡は良く出てくるだろう? それこそ神代の水鏡から、ね」
 成程。
 言われてみればそうかもしれない。童話なら魔法の鏡はお馴染みの小道具だ。鏡よ鏡、鏡さんと――白雪姫(スノーホワイト)を持ち出すまでもない。
 私がそう云うと、香霖堂さんはにこやかに頷いた。
「理解が早くて助かるよ。さて、かように鏡がただの調度品ではないことが解って貰えたと思うけれど――」
「けれど――?」
 鸚鵡返しに尋ねてしまう。
 カチコチと、壁にかかった時計の長針短針が音を刻んでいる。
 鏡を修繕してもらいに来たはずなのに、すっかり話に引き込まれてしまっている自分がいた。まあ、何をするにも一刻を争う忙しい生活を送っているわけではない。たまにはこんな、何の役にも立たなそうな話を聞いて過すのも一興だろう。それに、私もこういう語らいは決して嫌いではない。
「君は鏡の本質的な役割は何だと思う?」
 また難しい質問を。具体的な問いならともかく、抽象的なそれに即答しろというのはなかなか大変だ。少し考えようと首を捻ったところで、私の脳裏に何故だか昨夜の夢と、レリーフが付された鏡の影がよぎった。
「扉、ですか」
「ご名答」
 我知らず答えると、香霖堂さんが実に嬉しそうに頷く。どうやら正解だったらしい。
「さっきも云っただろう? 『鏡の国の』という表現は決して故ないものじゃない。何も彼もがあべこべな世界。生者が死者で死者が生者、現は夢で夜の夢こそがまこと。鏡はさかしまの国への扉さ。パヴァリアの狂王が鏡の廻廊にこだわり続けたのは、『あちら側』を見たかった、出来ることなら行きたかったからかもしれないね」
 耳に心地良い声で、香霖堂さんが滔滔と解説を続ける。それにしても衒学的(ペダンチック)な人だ。叔母のような短気な人なら、話を聞いている内に暴れ出すのではなかろうか。幸いにして私は無用な話が大好きなので、こうして喜んで聞いている。
「それはそうと、鏡の修理についてだけどね」
 ようやく本題だ。
「この店に持ち込んでくれたのは正解だったよ。この黒い染み――正確には、染みらしきものは、汚れが付着したわけじゃないね。多分、これは――」
「多分――?」
 切られた言葉を追いかけるように問う。
 けれども、香霖堂さんはそれ以上説明しようとしなかった。首を振って、カウンターで手を組む。
「……まあ、追々解ると思う。推測だけでものを云うのは避けたいしね。取りあえず鏡は――そうだな、預かっておいていいかな。大体の所は解ったけれど、なかなか珍しいものだし、少し調べてみたい。多分、関係ある物が店の何処かにあると思うしね」
「ええ、お願いします」
 即答した。実際、他に選択の余地はなかろう。
 私一人でどうこう出来るものではなさそうだし。餅は餅屋だ。専門家に任せるべきだろう。
「承りました。それで……そうだな、一日か二日預かればどうにかなると思う。わざわざ来て貰うのも面倒だろうし、鑑定と修繕が終わり次第お届けするよ。それで構わないかな?」
「でしたら、丘の上の屋敷にまで届けてくださると助かります。街の人に、プリズムリバーの館はどこかと聞けばすぐに解ると思いますから」
「それじゃあ、これが預かり証。まあ一応、ね」
 一筆啓上仕るといった様子で筆先が踊る。
 なかなかの達筆だ。この国の言葉の横に、漢字が記されているのが面白い。かさりとした和紙に記された預かり証を受け取り、私は頭を下げた。
「それじゃあ、お願いします」
「またのお越しを」
 面白い店だ。その内また来よう、と思いつつ、会釈をして私はまた扉に手をかける。
 ぎぃ。
 ばたん。
 扉を閉め、一度振り向く。静かな路地に香霖堂が佇んでいる。
 何となく息をついて私は帰路についた。




 玄関口に鏡が置いてあったのは、翌朝のことだった。
 何時の間に持ってきたのだろう。
 街から帰り、夕食とお風呂を片付ける、玄関の鍵を確認して眠り、また起きる。その間に、一切の来客は無かった。郵便屋さんや宅配の人が来た様子もない。まさか香霖堂さんが直接届けに来たわけでもなかろう。つくづく、不思議な店であり人――或いは人以外の何者かである。
 それにしても、だ。
「すっかり綺麗になったかな。でも……」
 そう。
 でも、なのだ。
 件の黒い影はすっかり消えている。鏡面には一部の汚れもなく、ぴかぴかだ。だというのに、微妙な違和感が拭えない。
 鏡面の下に、薄い薄い皮膜が張っているような印象。あの黒い影――扉のようなそれが、鏡面全体に広がったというような気がするのだ。
 目には映っていない。私がそう感じているだけだ。だから直感的なものであり一切根拠はない。だが、幸か不幸か、私の直感は良く当たる。大体において、理性的な判断より瞬時の感覚の方が当てになる。論理的思考が苦手だと云えばそれまでなのだが、それについての議論は取りあえず横に置いておこう。
 などと、当て所も無い思考を繰り広げている内に、ふと気付いたことがあった。
 鏡の横。
 其処に、何かが和紙にくるまって転がっていた。
 手に取ると、ずしりとした感触があった。和紙を破かないように、ゆっくりと、丁寧に開く。
 その中から出てきたのは――
「……え?」
 一本の鍵だった。
 間抜けな声と共にじっと見てしまう。極彩の光沢。月と陽と星のレリーフが刻まれた銀の鍵。見覚えのある――正確には、夢見覚えのある形。
 間違いない。夢で見たのとまったく一緒のものだ。ひんやりとした手触りも、複雑精妙な形状も、紛うところがない。
 和紙の内側には墨文字が記されていた。流麗な手跡()である。香霖堂さんのものだろう。


『お預かりしていた品をお返しします。
 当方が見る所、この鏡は鏡ではありません。扉の一種です。鏡と台座の間に、何処かへと通ずる扉が薄く引き延ばされ、綴じこまれていると云えましょう。サンドイッチのようなものです。
 かなり強固に施錠されていますが、幸いにして鋳型を同じくする鍵の在庫があったため、そちらを同封いたします。
 もっとも、扉は鍵だけで開くとは限らないこと、ゆめゆめお忘れなきよう。
 それでは、またのご利用をお待ちしております。

 香霖堂店主 森近霖之助』


 ――ふむ。
 どうやら本当に扉であったようだ。あの影は、台座と鏡面に挟み込まれていた扉が、いわば「染み出てきた」といったところなのだろう。
 この間は荒唐無稽と一蹴してしまったが、私の直感も捨てた物ではないということか。確かに常識では考えられない話ではある。だが、香霖堂そのものが、店主本人が常識とは相容れぬ型の存在だった。ならば、其処より導き出された帰因が常識外れであっても何らおかしいことはあるまい。そもそも、夢で見たのと全く同じ形状の鍵が手元にある時点で、常識への依拠は意味を失っているだろう。
 考えるべき点は幾つもある。
 何処に繋がっているのか。
 如何にして開くのか。
 その先に何が待っているのか――


 黄昏彼誰丑三つ時。永久に眠りし東の都
 夜半に渡れば三途川
 行ったは良いが帰れない
 帰れない――


 東方に伝わるという、そんな童歌が頭に浮かぶ。
 行き先が何処であるにせよ、帰る方法が無い可能性は常にあろう。扉の通ずる先は気になるが、ちょっとそこまでと出かけるわけにもいかないようだ。
 とりあえず、鏡をどうしたものかとしばらく頭を捻っていたが――
「取りあえず、朝ご飯の支度かな」
 一人ごちた。玄関先であれこれ悩んでいても仕方がない。食事をしてから部屋でゆっくり思案に耽るとしよう。幸い、時間は幾らでもある。
 そう思い、台所に向かおうとしたところで。
 ぎいと、扉が開いた。





「居たわね、レイラ」
 来客は叔母だった。
 例によって例の如く、羽根突きの帽子に派手な赤系のドレス。手には大きな日傘。けばけばしい化粧もあいまって、センスが良いとはあまり云えない……というよりも、あまりにもあまりな見た目である。ルナサ姉さんの爪の垢でも煎じて飲んでおくべきではなかっただろうか。おまけに晩夏にその格好ではまだまだ暑いだろう。ご苦労なことだ。
 それにしても入ってくるならチャイムくらい鳴らして欲しい。
 私が不機嫌にそう思っていても、叔母がそれを察する様子はない。ぎろぎろと周辺を睥睨している。
 叔母の目が玄関脇の姿見に止まった。怪訝そうな顔で問うてくる。
「あら、どうしたのかしら。鏡なんか出して。何かあったの?」
「いえ、別にちょっと模様替えをしようかと思いまして」
「模様替え? 何でまたこんな時期に」
 しつこく問いかけてくるが聞こえなかったふり。
 迂闊に答えては何を言い出されるか解ったものではない。この鏡は不可思議ながらも大切なものだ。あれこれ詮索されたくはない。早いところ話を変えてしまおう。
「それで叔母様、今日は何のご用でしょう。
「あら、そうだったわね」
 あっさりと話に乗ってくる叔母。
 どうせ大したことではあるまい。適当に聞き流しておけば良かろうと、高をくくっていた私は――続く言葉を耳にした途端、天を仰ぐ羽目になった。
「先日の結婚のお話よ。あちらが大変乗り気でね、是非とも一度お会いしたいと云ってくださったの」

 ――藪蛇だった。

 そんな話か。
 適当に話を引っ張って、頃合いを見て追い返してしまえば良かった。最もこの話が本題だったのだろうから無駄だったのかもしれない。
 思わず沈黙してしまった私に勘違いしたのか、叔母は上機嫌で、かつ一方的に喋りだした。
「まあ、貴女の将来にも関わることですしね、今ここでどうするか決めろなんて無茶なことは云わないわ。とにかく、お互いに話してみないことには何とも云えないでしょうし。先方のお屋敷まではそう遠くないから、レイラさえ良ければ今からでも――」
「その件なら先日お断りしたはずです」
 自分の言葉に酔っているのか、陶酔的な叔母の声を遮る。刺々しいな――と自分でも少しそう思うが、何、叔母に対してはこれくらいで丁度良い。
 しかしまあ――本当に、しつこい。昔からその傾向はあったが、一度断られたことを臆面もなく持ち出すほどとは思わなかった。私の人間観察が甘かったのだろうか。大きく溜息をついて、反論を続ける。
「何故そこまで私の結婚にこだわるのですか。叔母様の家に限らず、親族の皆様は無事栄えているはずです。お願いですから、そっとしておいてくださいませんか」
「そうもいかないのよ。この家はまだプリズムリバー一族の主家なのよ。私たちとしては、主家の息女――いえ、今となっては一族の主である貴女が、滞りなく平穏無事に暮らせるよう世話をし、見届ける義務があるわ。貴女も子供じゃないんだから、それくらいは解るでしょう」
 正論と云えば正論か。
 だが、理解することと納得することは等価ではない。叔母にはそれが解っていないようだ。大体、私の今の生活は十分に平穏で無事である。人と関わらず波風を立てず、ずっと屋敷で暮らしている。どこに問題があるのだ。
 こんなやり取りをしていても何もならない。単刀直入に聞いてしまおう。
「叔母様、はっきり仰ってくれませんか。何故そこまで執拗なのか、私には正直解りかねます」
 ふう、と。大袈裟に溜息をつかれた。やれやれ解っていないなあ、と云わんばかりだ。無自覚にここまで神経を逆なでできるのは才能かもしれない。
「いい? 歴史と伝統ある一族の正当な跡継ぎが、世間から引きこもって一人で暮らし続けている。それも、未来あるうら若い女性がね。家に居なければならない理由があるならともかく、身も心も健康なのよ。同じ階級の方々からは奇妙な目で見られるし、街ではお化け屋敷扱い。そうなると私たちにしても何かと困るのよ……」
 延延と自前の論理を展開してゆく叔母の言葉。それを聞いているにつれ、目つきが険しくなるのが自分でも感じられた。
 そんなことだろうとは思っていた。要するに誇りやら家柄やら世間体やら、そんな、愚にもつかないもののためか。
 それが一体何だというのだ。
 貴女のためだと? 笑わせる。結局は自分たちのためではないか。最初から素直に「このままでは世間体が悪いからどうにかしてくれ」とでも云えば良い。下手に貴女のためだなどと取り繕えば繕うほど、私としては忌々しさがつのるだけだ。
 まあ、何を云っても無駄なのだろう。他人と自分の論理が異なるということを理解してはくれまい。これ以上相手をするのも面倒だ。思い切って話を打ち切ってしまおう。
「善処します。では叔母様、私、これから出かけますので。失礼します」
「ちょ、ちょっとレイラ、何処に行くの?」
「お望み通り、屋敷の外へ散歩です。閉じこもっているより少しは健康的ではありませんか?」
 出来る限り穏やかで静かな声でそう云って。叔母が引き留める間もなく、私はぷいと背を向けると扉の外に滑り出てしまう。勿論、口やかましいあの女性(ひと)は置き去りだ。
 ――嗚呼、まったく。
 前言を撤回。こんなことなら、帰り道が無かろうと、屋敷ごと扉たる鏡の彼方に行ってしまいたいものだ。
 そう思いながら、私は街の方へと足を向けていた。


10


「何処に通じているか、か。なかなか難しい質問だね……と、煎茶でいいかな」
「あ、有り難うございます」
 私にお茶を渡しながら香霖堂さんはそう云った。
 叔母を置いて外に出た後、私は何となく街を彷徨っていた。外に出るのは好きではない。だが、家に叔母の香水の匂いや粘着的な気配が残留してしまっているだろう。しばらく距離を置いたほうが良かろうと、半ば仕方なく街を歩く内に、此処に辿り着いていた。幸いにして店は開いており、香霖堂さんも来客を歓迎してくれたというわけだ。
 今日も先日と似たような服装、青い上着――甚平と云うらしい――を来て、丸い眼鏡をしている。十年一日の如く同じ姿なのだろうか。だけれども、この店と人にはそれが良く似合っている。
「貴女は、どう思うね?」
「此処とは少し異なる場所に通じているのは間違いないとは思いますが。かといって、国境を越えた先や、海の彼方の国というのも面白みにかけます。もしかすると、行き先はある種の理想郷なのかもしれません」
 私の答えに香霖堂さんは首を振る。それでも乱れない静謐な空間。
「理想郷などというものはありはしないよ。ユートピアはね、僕の国では無何有郷と書く。何処にもないからこそ、理想郷の名を関することが出来るのさ。この世の彼方、向こう側に繋がっているとしても、その先は精精が幻想郷だろうね」
 まあそうだろう。理想郷があるなどと私も本気で信じているわけではない。
 それにしても『幻想郷』とは面白い表現だ。一体如何なる場所だろうか。そう問う私に、どう答えたものかな――と、香霖堂さんはお茶を一口。
 僅かな沈黙が降りる。穏やかなで心地良い時間。こういう空気は嫌いではない。
「幻想の世界とは、単に『あちら側』だよ。それは現実の対立項ではないし、理想郷ともまた異なるものだ。幻想が根幹である世界には、相応の理があり法則がある」
 頷き耳を傾けながら、頭に浮かんだ問いを深く考えず口に出す。
「住み良い世界なのでしょうか、そこは」
「可能性としてはね。今云った通り、幻想郷とはこの世界とは異なる論理により成立しているものだ。万人にとってどうかは知らないけれど、貴女にとってより良い住処である可能性はあるだろうね」
 軽い気持ちでの問いかけに、一瞬鼓動が速くなる。そのような世界もいいな――と、思ってしまったからだ。
 もっとも、此方側に嫌気が差しているのも事実だが、積極的に何処かに消えてしまいたいとまでは思っていない。屋敷以外の世界に未練が無いのもまた確かではあるのだが。
「ただ、性質を異にする世界である以上、其処への道を簡単に見出すというわけにはいかない。散歩気分で迷い込むこともあるようだけれども。意識して幻想郷に辿り着くとすれば、矢張りそれ相応の代償が必要になると思うね」
「その代償とは何なのでしょう?」
「それは――」
 ボーン、ボーン、ボーン……
 香霖堂さんが言い淀んだところで。掛け時計が深夜の招来を告げた。
 一人暮らしの身とはいえ、そろそろ帰るべきだろう。夜の街は相応に物騒かもしれないのだし。叔母もいい加減に姿を消しているに違いない。
 答えは気になる。それだけでも聞いておこうかと思ったところで
「おや、もう閉店時間だ。すまないね、引き留めてしまって」
 香霖堂さんがそう云った。
 絶妙なタイミングだ。質問の間合いを外されてしまった。
 ひょっとすると、しつこく問われるのを避けたのかも知れない。無理矢理聞くのは良いことではないだろうし、時間も時間だ。素直に帰った方が良いだろう。
 私が席を立つと、入り口の扉を引いてくれる。外では満月が人気のない路地を照らしていた。
「お邪魔しました」
 一礼すると白いワンピースの足元が風に翻った。玄関口でつばの広い帽子を手に取りかぶる。香霖堂さんは微笑み頷くと――奇妙な言葉を口にした。
「次は、あちら側でお会いしましょう」
「あちら側……?」
 きょとん、と見返す私に。
 香霖堂さんが微笑みを崩さず、指を鳴らす。
 その瞬間。
「きゃっ……!」
 ぱん、と。
 何かが弾け割れたような音がした。針を突き立てられた風船がそうであるように、空気の塊が飛び出してくる。凄まじいばかりの勢いは、目を開けていられないほどだ。
 髪が千々に乱れ、服の裾が舞う。帽子を押えながら身を縮めた。

 轟々。
 轟。

 やがて風の音が徐々にと弱まり、やがて止む。
 ゆっくりと、目を開けるとそこでは――
「……」
 店が、魔法のように消え去っていた。
 温かみのある木に匂いも、独特の風味を持つ看板も消え失せている。路地の一点に、私有地らしき荒れ地が広がっているだけだ。
 ――成程。
 そういう店だったのか。香霖堂さんがどうにも不思議な存在と感じられたのも、故無しではなかったというわけだ。
 いわゆる『魔法のお店』だったのだろう。物語の中では良く聞く話だが、自分が体験するとは思わなかった。
 ともあれ、お世話になったことにはかわりない。
 今ではもう何もない空間にぺこりと頭を下げ。
 私は帰路についたのだった。


11


 数日後。
 私は鍵を弄びながら、居間のテーブルに一人座っていた。長い髪に手をすべらかし、頬杖を付く。こんな時、父さんや姉さん達ならどうしただろうか。
 
 ――実際、どうしたものか。

 迷い惑いながら、壁に立てかけた鏡の前に立つ。今ではこれが実は何処かへ通ずる扉であるということには全く疑いを抱かなくなっていた。夢で見た光景のせいもあるし、香霖堂さんの話のせいもある。それに、何より――
 鏡の前に立ち、鍵を手にする。
 手を伸ばしてゆけば、当然鏡面に突き当たる。それでも気にせず手を伸ばし続ければ――ずぶりと。腕が鏡面に沈み込んだ。
 香霖堂さんの話を聞いてから、鏡を相手に色々と試し、見つけた現象だ。少し前までなら何があったと慌て、次いで自分の頭を疑うところ。だが、鍵の到着や、香霖堂が目の前で消えるという現象を経験した今、この程度では驚かない。
 さらに腕を、即ち鍵を送り込んでゆけば、指先に金属らしき感触が伝わる。手探りで形を把握すると、一部分に穴があいている。
 鍵と穴とくれば鍵穴しかあるまい。そう判断して手にした鍵を差し込む。
 かちり、と。
 鍵が鍵穴にはまりこんだ。
 だが、それだけだ。右に回しても左に回しても何も起らず。解錠したとて、何か変化があったわけではない。
 香霖堂さんは、扉は鍵だけで開くものではないと云っていたが――さて。
 仮に開いたとしても、その後どうするのだろうか。繋がる先は幻想郷とやらであろうが、こちらよりも心安らかに暮らせるならば行ってしまっても良いと、そうも思う。その気持ちは、ここ数日でますます強くなっていた。相当に現世嫌悪が強まっているらしい。
 あれやこれやと考えていると、扉を叩く音がした。
 嫌な予感がする。予感というより確信。来客が誰かは、火を見るより明らかだ。
 とはいえ、居留守を決め込むわけにもいくまい。最低限の礼儀というものがある。
「はい、今参ります」
 とてとてと玄関に向かい。がちゃりと扉を開ければ。
 ――ああ、やっぱり。
 そこには、随分と真面目な顔をした叔母が立っていた。

*


 私と叔母は居間のテーブルで向かい合っていた。先ほどから一言の会話もない。まあ当然だ、私としては話すべき内容など全くと云って良いほどないのだから。必然的に叔母も意地になって、何も云おうとしなくなる。
 時計の鐘が15時を知らせる頃――ようやく諦めたのか叔母が自分から口を開いた。
「この間はびっくりしたわ。いきなり出て行ってしまうのだもの」
 驚いたのはこちらだ。一度断った話を臆面もなく持ち出されるとは思わなかった。まあ……あのように大人げない反応をしてしまったのは少々恥ずかしいが。
 私がそう返答すると、叔母は紅茶を口にしてきまりが悪そうに笑う。
「確かに少し無神経だったわね。申し訳ないと思うわ。でもね、貴女の為を思ってのことなのよ。それだけは信じてちょうだい。恩を着せるつもりはないけれど、お兄様のことがあった時だって、貴女たちの味方をしたのは私くらいだったわけだし……」
「云いたいことははっきり仰ってください」
 言葉を遮った私に、叔母が一瞬むっとした表情(かお)を向けた。どうやら私は露骨に嫌な顔をしていたらしい。
 だが、それは当たり前だ。先日あれほど云ったのにまだ懲りないのだから。おまけに奥歯に物が挟まったような物言いをされては誰でも苛つくだろう。
「そう、ならはっきり云うわ」
 ゆらりと叔母が立ち上がった。両の瞳がぴたりと据わる。いつに無い様子に、私は怪訝に目を細める。空気こそ読めないが最終的には強引とまではいかない(ひと)が、こんな振る舞いに出るとは珍しいこともあるものだ。


「レイラ。この家を出なさい」


「……え?」
 きょとんとして叔母を見やってしまった。いつになく真剣な瞳、厳しい表情で私をじっと見返してくる。これはどうやら、一時期の気の迷いや勢いに駆られたものではなさそうである。
「……本気で仰っているのですか?」
「勿論よ。こんな時に冗談は云わないわ」
 貴女の存在が冗談だという気もするのだが、そんな言葉を口に出来る空気では無さそうだ。じろりと見返せば、私の碧の視線と、叔母の蒼いそれが空中でぶつかる。視線を逸らすことなく、叔母は言葉を続けてくる。
「いい加減過去にしがみつくのはおやめなさいな。貴女は現実から目を背けているだけよ。お兄様は亡くなったし、ルナサも、メルランも、それにリリカももう居ないのよ。思い出は大事。でもね、もう忘れなさい。捨て去りなさい。それが貴女のためよ」
「――」
 言の葉が喧しい。
 動悸が激しい。
 息が苦しい。
 頭が痛い。
 沈黙しているのを肯定と解したのか、叔母は一人頷いて滔滔と喋り続ける。
「例の結婚のお話だって貴女を思ってのことなのよ。他家の方々とお付き合いして、家に入るということになれば、いくら貴女でも現実を見つめざるを得ないでしょう。最初は少し辛いかもしれないけれど、長い目で見れば、誰にとっても良い結果を招くはずよ」
「……叔母様、少しお黙りください」
 声を押し殺し、ただそれだけを告げる。私もそろそろ我慢の限界だ。
 ぴしり。
 手元のカップにヒビが入った。
 だが、この女性(ひと)が黙るはずもない。私を一瞥するだけだ。
「いっそのことお屋敷を売り払ってしまうべきかしらね。この家をわざわざ残しておく理由などないのだし――」
 ばん!
 声を阻むべく強くテーブルを叩くと、叔母が身を震わせた。ソーサーが揺れ、紅茶がクロスにこぼれる。後で掃除をしなければ。
「お黙り下さいと云っているでしょう! いかに叔母様といえども、そのようなことを云う権利はないはずです。私はこの家の当主であり、屋敷を守る義務があります。貴女の云いぐさは無礼も良いところ。今すぐお帰り下さい」
 さっと叔母の顔色が変わった。堪忍袋の緒が切れたのは、ほとんど同時というわけだ。顔を朱に染め、怒鳴り出す。
「いい加減になさい! 貴女はそれでもプリズムリバー一族の娘!? 家のことを、一族のことを思うならこんな生活はやめるべきよ。この家に、屋敷に、皆の思い出にしがみついていて何の意味があるっていうの!!」
 その言葉を聞いた刹那。
 ぷちり、と。
 私の頭の中で何が切れた。

 ――もう、駄目だ。
 ――これ以上、この人の言葉を聞くことは出来ない。一刻たりも。

 ゆらりと立ち上がった。
 特に意味ある行動ではない。座してくだらぬ話を聞き続けるのに耐えられなくなったというだけだ。
 それなのに、叔母が少し身じろぎした。私の迫力にたじろいだのか。
「レイラ、聞いて……?」
 震える声で精一杯問いかけようとして

 がた。

 そんな音が、喧しい声を遮った。
 何の音だ、とばかりにきょろきょろしていた叔母の瞳が、テーブルのあたりで大きく見開かれる。
 私が席を立ってすぐに、テーブルと椅子が自動的に揺れ始めたからだ。何が起ったのかと、あたりを見回して落ち着かない様子。
 ぴしりと。叔母の手元に置かれていたティーカップが二つに割れた。流れ出した紅茶が、純白のテーブルクロスを鈍色に染める。
「ちょ、ちょっと、何なのこれは!? レイラ、貴女、何を……?」
 今更そんな問いもあったものではない。
 騒霊現象(ポルターガイスト)に決まっているだろう。私程の年である少年少女の感情が激発すると、時として発生する現象である。ここ何年かは絶えてなかったのだが、久しぶりにやってしまった。父さんや姉さんたちならまたかですませる程度の出来事とはいえ、叔母は初体験のはず。怯えるのも無理はない。
 これで帰ってくれるだろうか――と淡い期待を抱けばさにあらず、がたがた揺れるテーブルを椅子を気味悪そうに眺めながら、ごくりと息を呑んだだけだった。頭を振り、目を当ててくる。気丈にもまだ言葉を連ねるつもりらしい。
「――脅かそうとしても意味がないわよ。今度ばかりは譲るつもりはないわ。一族のためにも、貴女のためにも、この家にしがみつくことは無意味だと――」
 まだ云うか。
 ――本当に。
 本当に、くどい。
「叔母様こそいい加減にしてください」

 がた、がた。

 声を低く押し殺すにつれて、私の内心は激化してゆく。感情が高ぶるにつれて、揺れが大きくなってきた。風景画が、ばたばたと壁を叩いている。まるで縦開きの窓のようだ。
「意味の有る無しではないのはお解りでしょう! ここは私の、私たちの家です。プリズムリバー一家の最後の拠り所です。現実から目を背けている? ええ、その通りです。私は現世など見たくはない。姉たちのいない世界など何の意味もない。大切な家族がもう誰も居ないなら、その思い出をよすがとするのみで生きていきたいと思うことが悪なのですか? 幻想の世界に耽溺するのは弱者なのですか? それなら私は弱者で結構です。自ら望んで、喜んで、現に生きるに値しない者になりましょう。往時の幻影に耽溺し、幻想の世界に参りましょう」

 がたがたがた
 がたがたがたがたがた
 がたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた。


 言葉が発せられるにつれ、何もかもが揺れを増してゆく。地震かと見紛うばかりだ。こうなってしまうと、自分でも、もうどうにもできない。
「――っ、レイラ……!」
 床までが上下左右に揺れ、跳ね飛び出した。立っていられなくなったのか、叔母が尻餅をついた。その瞳には恐怖が滲んでいる。
 がたん! 
 一際大きい揺れが襲ってきた。居間の片隅でしっかりと台座に固定されているはずの中世の甲冑が大きく揺れ、倒れ込む。装飾用の槍がその手を放れ、宙を飛び
「ひいっ!?」
 ぐさりと。
 叔母の足元に突き刺さった。顔面蒼白となって、叔母が怯え声を上げる。
「わ、私をどうするつもりなの! 一体何がしたいの、レイラ!?」
「ご安心ください。叔母様を傷つけるようなことはありませんから。私の願いは、一刻も早くこの家から出て行っていただきたいというだけです。そして叶うならば、もう二度と来ないで欲しいという、ただそれだけのこと」
 先ほどまでの威勢はどうしたのやら、ぱくぱくと金魚のように口をふるわせながら、こくこくと頷く。
 最早言葉もないようだ。床に這うようにしてよたよたと歩き、叔母が玄関口へと向かってゆく。
 それを邪魔するつもりはない。開けと念じると、観音開きに扉が開いた。
 這々の体で叔母が出て行く。
 腰が抜けたのか、よろめきながらやっとの思いで屋敷の門に辿り着くと、一目散に丘を下っていった。あの様子では、二度と来ようとはしまい。

 ――では、最後の仕上げだ。

 叔母が開け放しにしたままの扉に向かい念ずると、轟音と共にそれが閉ざされた。かちゃりがちゃりと二重三重に施錠(ロック)がされる。封印と云っても通用しそうな強固さだ。もう二度と、開くことがなさそうなほどに。
「……久々にやっちゃったな」
 呟いて息をつくと、揺れ、あるいは空中を舞っていた絵や、椅子や、テーブルが動きを止めた。先ほどまでとはうってかわった静寂が居間を満たす。嵐の前ならぬ、後の静けさといえようか。
 だが、これにて一件落着、とはいかなかった。いくわけがない。
 しばらくの間、ぼうっとしていると、突然。
 ぱりん、と。
 何かが割れる音が、私の耳に届いた。


12


 この部屋に、音を立てて割れそうなものは少なくない。庭に面した窓、装飾的な戸棚の硝子、照明など、幾らでも数え上げることが出来る。だが、この時期、この場所で割れそうなものといえば、件の姿見しかあるまいと私は感じていた。
 慌てず騒がず、壁に立てかけておいた姿見へと近寄ると――
「……成程、こうなってたんだ。確かに扉ね、これ」
 姿見の鏡面が粉々に砕けていた。床に散らばった破片が、照明からの光を反射して虹色に光っている。
 そして、鏡面の代わりに浮かび上がる、精巧な彫り物の施された黒く揺らぐ幻影(まぼろし)の扉。
 それを目にした刹那。
 頭の中で個々の情報が繋がり、パズルの断片(かけら)が一点に集約してゆく。

 鏡からの音楽。
 香霖堂さんの言葉。
 騒霊現象により閉じた扉――

 偶然の導きか、神――或いは魔の見えざる手か。
 外界と内界を通ずる扉が閉ざされ。
 内界はそのままに幻界への扉が開かれ、そして幻界は外界と化す。
 2から1が引かれ、新たに1が足され、プラスマイナスゼロ。帳尻はぴったりだ。相応の代
償とはこのことか。
 鍵穴に鍵をはめこむだけで扉が開くはずがなかった。現実への扉を閉じることによって、幻想への扉を開かねばならなかったのだ。
 他の誰でもない、私の意志をもって。
 鏡面が砕かれ扉が出現した事実が意味することは唯一つ。此方に愛想をつかした私は、彼方――幻想郷に相応しいということなのだろう。
 ならば善は急げ、である。
 今更こちらに留まるか、あちらに行くかを迷いはしない。
 行き先は無論、夢の国などではなかろう。香霖堂さんが指摘したように、幻想と理想は等価ではないからだ。それでも、姉たちの過ぎ去りし幻にしがみついている私には、幻の国こそが相応しい。
「……ある意味、叔母様には感謝しないとね」
 実感を込めて呟く。自分がどうすべきか、結果的には叔母の来訪によってはっきりとしたのだから。感謝状くらいあげてもいいかもしれない。
 飛び散った家具を片付けると、私は準備をすべく衣装部屋へと向かった。

*


「これでよし、と」
 碧の舞台衣装と帽子をかぶり、扉と化した姿見を外壁に立てかけて、私は屋敷の庭で一人頷いた。まだ姉さんたちが居た頃に仕立てた物だが、何とか着られるようだ。背が然程伸びなかったことが幸いした。胸の辺りが多少きついが、これは仕方がなかろう。
 一人きりになってから開くことの無かった衣装部屋から持ち出してきたこの衣装、着るのは本当に久しぶりだ。そもそも普段から着るようなものではない。
 最後に着たのは、姉さんたちが居なくなってしまう直前、何処で開かれたか覚えてすらいないが、父に請われて独唱会に出場した時だったか。あれからどれ程経つのか、正確な日付は数えたことがないし数えようとも思わないが、数年は経っているのは間違いない。
 着飾った自分の姿を確認する。夢の中で見たのと瓜二つだ。そして、あの夢の中で私は歌おうとし、姉さんたちは演奏していた。ならば、今から何をどうすればいいのか迷うことはない。
 時刻は丁度、深夜の零時。昨日と今日の、今日と明日の境界たる時間。
 満月の光が柔らかく私を照らしている。今夜ばかりは虫の音も聞こえない。私たちに気を使っていてくれるのだろうか。
 遠くに望むのは街の光。見納めだ。

 ――では、はじめるとしよう。

「じゃあお願いね、姉さん」
 そう呟くと、鏡――鏡だった幻の扉越しに、耳に馴染んだ旋律が漏れ出でる。
 こんなことは起こりえない。常識ではあるはずがない。
 だが、既にして鏡は扉であり、屋敷は幻界に近しい物と化している。ならば、消えた筈の姉たちが舞い戻ってきていても何の不思議もあるまい。
 扉を透かして影が舞っているのが見える。煌々と照らす月光の下で、黒と白と赤の影絵がちらちらと蠢く。
 黒にはヴァイオリン。白はトランペットで、赤はキーボード。
 音がいっそう大きくなった。途端、私はそれが何の曲であったか明瞭に思いだした。
「……姉さんたら」
 くすりと笑う。
 何度となく、幾度となく親しんできた旋律だ。
 私の好きだったうた。
 嬉しいときも哀しいときも、姉妹全員での誕生パーティーでも姉さんがたちが居なくなったときも、何かあれば私が口ずさんでいたうた。
 わざわざ私の好きだったものを選ぶあたり、ルナサ姉さんの差し金だなと思って口元が緩む。全く、いつもいつも気を使いすぎるのだから。
 せっかくの気遣いを無駄にしてはいけないだろう。碧の舞台衣装の裾をつまみあげ、私はぺこりと一礼。胸元に手を当て、ステップを踏んで歌い始める。屋敷に私しか居なくなってから、こうやって歌うのははじめてだ。


Votre ame est un paysage choisi(あなたの魂は選びぬかれたひとつの風景)
Que vont charmant masques et bergamasques(とりどりの仮面や舞踏に眩惑はつのるけれど)
Jouant du luth et dansant et quasi(リュートを弾きながら踊りながら)
Tristes sous leurs deguisements fantasques.(その夢幻的な仮装の下は、ほのぼのと悲しい)

Tout en chantant sur le mode mineur(短調の調べに乗せて)
L'amour vainqueur et la vie opportune,(恋の勝利とわが世の春を歌いながらも)
Ils n'ont pas l'air de croire a leur bonheur(自分たちの幸福を信じてはいないようだ)
Et leur chanson se mele au clair de lune,(その歌は月の光に溶けてゆく)

Au calme clair de lune triste et beau,(悲しくて美しい静謐な月の光に)
Qui fait rever les oiseaux dans les arbres(するとその月の光は、木々の鳥たちを夢見させ)
Et sangloter d'extase les jets d'eau,(噴水をうっとりとすすり泣かせる)
Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres.(大理石に囲まれてすらりと吹き上がる噴水を)



 どれほど歌い踊り続けていたか。
 やがて演奏付きの独奏を終え、拍手も無い中で私は庭をぐるりと見回す。
 屋敷は静かに佇み、人や虫の声はなく、月はただ静かに私を照らしている。そこには何の変化もない。
 ただ、一点を除いては。
「入り口はここ、ね。それじゃあ……」
 黒く揺らぐ幻影の扉は、強固な銀のそれへと姿を変えていた。触れることも、押し引きすることも出来る。
 さあ、行くとしよう。もう迷いはない。
 鍵を扉にさし。
 ぎいと開く。
 足を踏み出せば、柔らかい光に包まれて――


13


 ――優しい日差しが、私の瞼を突き刺した。
 あたたかい陽光が照らしてくる。陽は高く、足元には柔らかい草の感触。私は、プリズムリバー屋敷の庭に一人立っていた。
 風が頬を撫でた。長髪がなびいて流れる。爽やかで少し涼しげな風だ。秋がもう近いのだろう。
 振り返れば、今し方くぐったばかりの鏡――いや、扉は何処にも無い。私が此方に来てしまった以上、用済みということなのだろう。
 庭を囲む柵はそのままだ。
 だがその彼方に広がるのは無論、今まで住んでいた街ではない。丘の遙か下に広がる風景は違ってしまっている。教会の尖塔も、壮麗な鐘楼も、石造りの街も無い。茫漠と広がる田畑、木造らしき家屋に、大きな鳥居。そんなものばかりだ。
 此処が幻想郷。理想郷ならぬ、現実の彼方の地。
 その世界に来てしまった以上、後戻りは出来まい。扉はもう無いのだし、私も、家も、既にして幻想の物となってしまったのだろうから。
 そう。
 この屋敷、私の家は現より放たれた。私が望んだ通りに。
 私は自分の部屋を振り仰いだ。窓からはお気に入りのベッドがはっきりと見える。そして、ちょこちょこと動く三つの影も。
 黒と白と赤の舞台衣装。昨夜の演奏会からの着たきりすずめというわけだ。あんな格好をずっとしているのは目立ってしょうがないけれど、それ以上に似合っているのがおかしくて私は微笑う。
 楽器もそのままだ。ルナサ姉さんはヴァイオリン。メルラン姉さんはトランペット。そしてリリカ姉さんがキーボード。そして私の楽器はこの唄聲。四人での演奏会はいつでも準備完了だ。
 ふわりとした風に目を細め、草を踏んで私は玄関の扉に手をかける。
 閉じられているはずがない。
 鍵は外され、扉は既に開かれた。
 何より、ここは私の――私たちの家なのだ。
 さあ帰ろう。
 我が家に帰ろう。
 ――今日から私たちは、また四人になるのだから。





(了)



(※作中の詩はポール・マリー・ヴェルレーヌ『月の光』。原文、翻訳は思潮社『海外詩文庫 ヴェルレーヌ詩集』による)


戻る