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1939年、ポーランドの首都ワルシャワに一人の研究者が辿り着きました。彼の名はアントニー・リートケ博士。名門ペルプリン神学校の図書館長です。
彼が携えていたのは三巻の書物。一巻は『時祷書』の写本。平信徒用の祈祷書であり、学術的にも価値の高いものです。
残る二巻は聖書でした。むろん、ただの聖書ではありません。縦40センチ幅29センチ、重量は実に18キロ、空押しの装丁がほどこした革装丁の逸品。そう、稀覯書中の稀覯書――グーテンベルク聖書だったのです。
ヨハネス・グーテンベルク。
その名を知らぬ人はいないでしょう。十五世紀ドイツの金属加工職人にして、ヨーロッパ初の活版印刷技術を実用化した人物です。
彼は『時祷書』『免罪符』『トルコ暦』等、多くの作品を印刷しました。その中でもっとも有名、かつ価値が高いとされるのがグーテンベルク聖書です。現存するのはわずかに48部。大半はヨーロッパとアメリカに点在します。我が国では慶應義塾大学図書館に所蔵されていますね。
リートケ博士がワルシャワ銀行に預けたのはそのうち1部でした。一般に「ペルプリン本」と呼ばれます。
ペルプリン本は、一葉しか欠葉しておらず、完本に近い状態にあります。グーテンベルク聖書中でもとりわけ貴重な一冊といえましょう。
西プロイセンの修道院に長らく所蔵されていましたが、1833年にペルプリンに移されました。以来、ポーランドの至宝の一つとして尊ばれていたといいます。
それほどの稀覯書が、なぜワルシャワ銀行に預けられることになったのか? その答えは、ナチス・ドイツおよびソ連軍によるポーランド侵攻に求められます。
1939年9月1日、ドイツ軍とスロヴァキア軍がポーランド侵攻開始。同月17日には、ソ連軍は東部国境を越えて侵攻を行いました。結果、ポーランドはドイツ、ソ連、リトアニアの三国によって分割占拠されてしまいます。
侵攻が完了すれば、ポーランドの誇る宝物が奪われるのは間違いありません。ワーフェル博物館館長ザレスキー博士、同管理人ポルコフスキーをはじめとした有志たちは、第二次世界大戦開戦直前、決死の逃避行によって宝物類をポーランドからパリへと移すことに成功します。
少し遅れて、ペルプリン本もパリに到着。財宝共々厳重に保存されることになりました。そのための費用はロンドンのポーランド亡命政府の負担です。
1940年、パリもまたドイツ軍によって占拠されます。この際にも財宝が奪われることはありませんでした。ポルコフスキーらの尽力によって、カナダ・オタワ市へと移されたのです。ポーランド亡命政府大使バビンスキーの元、世界情勢が落ち着くまで宝物は安全に保管されるはずでした。
1945年の終戦と共に新たな危機が勃発します。ポーランドに、ソ連の後押しによる共産党政府が誕生したのです。カナダ政府はフランスやアメリカともどもこれを承認、バビンスキーは大使としての地位を失ってしまいます。
新政府がグーテンベルク聖書を含む国宝の引き渡しを求めてくるのは必然。新政府の性質上、それらが無事に保たれる保証は全くありません。そして、今やバビンスキーに宝物を守る力はない。
バビンスキーは屈しませんでした。彼はカナダ・カトリック教会の援助を得て、宝物をカナダ各地の修道院や僧院に分散させます。
しかし好事魔多し、当面は安心、となったのも束の間、ザレスキー博士が甘言にそそのかされ、新政府に膝を屈してしまうのでした。聖書の隠し場所が暴かれるのは時間の問題です。
宝物の、そしてグーテンベルク聖書の運命や如何に。
……とまあ、長々と書いてきましたが、本書はかように、各地のグーテンベルク聖書が辿った運命を描いた一冊です。
「タイタニック号遭難とグーテンベルク聖書」「落書きされたグーテンベルク聖書」「鎖付きのグーテンベルク聖書」など、各章のタイトルだけで興味をそそられますね。類書がないだけに、資料としても有用でしょう。
興味深いエピソードのみならず、書誌的な解説も充実しています。グーテンベルク聖書入門としても便利でしょう。カラー口絵でグーテンベルク聖書が紹介されていますよ。美しい。
歴史好き、本好きの方には是非とも読んでいただきたい一冊です。大学出版会なのでページ数の割にやや高めですが、お勧め。
なお、ペルプリン本の顛末は本書第3章をご覧下さい。
ポーランド亡命政府と新政府の丁丁発止の情報戦、宝物が保管された修道院をめぐっての連邦警察と州警察との攻防など、見所満載。記述は短いながら、手に汗握りますよ。冒険小説にしたらたまらなく面白そうだ。
<関連リンク>
・慶應義塾大学HUMIプロジェクト(グーテンベルク聖書他、稀覯書をデジタル化して公開)
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