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ラングホーン館は鳴動していた。
白亜の身を震わせ、暴れ回っているかのようだった。
館全体に絡まったツタは千切れ、ゴシック・リヴァイヴァル様式特有の曲線的な装飾を施した壁から漆喰がぼろぼろと崩れ落ちる。化鳥が羽尾を広げたかのような両翼へとヒビが走った。亀裂は壁から壁へと縦横無尽に連鎖し、翼の先端にまで辿り着くと聳え立つ尖塔をかしがせる。
割れ爆ぜる音がして、庭に面した窓が吹き飛んだ。何かの内圧に押されたかのようだ。ガラスの破片が街灯の光をうけてきらきらと輝き、舞い散る。
館は死に瀕していた。
庭園にひしめく屍たちと同じように。
はがれ落ちた大小の破片が庭に降り注ぐ。大岩ほどの煉瓦が、ガラスの尖った破片が、右往左往する屍たちを押し潰し切り刻む。一帯を覆うのは今や真っ赤な細切れ肉ばかりとなっていた。
「今度はなんだ?」
千切れ飛んだ頭部をぐしゃりと踏みしめ、レミントンを背に収めながらアッシュは館を見やる。その体は文字通りに血まみれだ。洗いさらしだったシャツも、ラフなジーンズも、よどんだ匂いを放つ返り血を浴びてどす黒く汚れてしまっている。愛用のチェーンソーに至っては、刃がこぼれ、焦げ付いたエンジンがすすを撒き散らしながら煙を上げている始末だ。ある意味天晴れな姿と言える。
「かなりの魔力が漏出しているな。トオサカが何かしでかしたのかもしれない。彼女は随分とうっかりしているからね」
答え、真紅のコートをはためかせながらアルバがやってくる。こちらはこちらで見事な風体だった。時代錯誤な礼装は全く着崩れておらず、シルクハットから革靴の先端まで血の染み一つついていない。このまま結婚式に出席することも出来るだろう。原形を留めぬまでに炭化した腕が、革靴をかすめるようにして転がっている。あちらこちらから、焦げた腐肉の匂いが風に乗って漂ってきていた。
「まあ、それはいいとして――」
アルバは庭をぐるりと見渡す。蝗のように巣食っていた歩く屍たちはとうに動きを止めていた。チェーンソーに切り裂かれたもの、炎の魔術に焼かれたもの、半壊した館に圧殺されたもの――死因こそ様々だが、その大半は蠢くことすら出来ないような細かな肉片に還元されている。庭に飾られていた彫像は地面に転げ、屍から飛び散った血糊で真っ赤だった。
「この後はどうする?」
「放ってもおけないな」
ぶっきらぼうに答えながら、アッシュはチェーンソーの刃を数度振ると顔をしかめる。
人肉を切り刻み酷使しすぎたか、どうにも挙動が心許ない。無数に連なった細かな刃に指で触れると、ねっとりとした脂がまとわりついた。鋸状の刃が肉片で詰まってしまっている。これでは切れ味の劣化は避けられなかろう。
何か使える物はないか、と庭をぐるり見渡す。
と、視線がある一点で止まった。すぐに歩き出す。
「ちょっと待っててくれ」
「何処へ行くんだ」
訝しげなアルバを無視し、アッシュは庭の隅へと進んだ。門からは死角になっている一角に辿り着くと、しゃがみ込んで物色を始める。庭師が残しておいたものか、辺りには苅られた草と断たれた樹木が山積みになっていた。
アッシュは一心に目を走らせる。武器になりそうなものといえば、錆びた芝刈り機や転がった鎌ばかりだ。暗がりの中、樹木や工具の山を引っかき回すことしばし――
「こいつだな」
工具を手にすると立ち上がった。
手にされた得物の物騒さに、アルバは目を丸くする。
「……そんなもので何をするつもりかね?」
「ジャパニーズ・スタイルだ」
頼りになる武器を得た時特有の躁病的な表情を浮かべ、アッシュは走り出す。屍と一戦交えたばかりというのに、たった今館に辿り着いたばかりのような勢いだ。ただの人間とは到底思えない体力だった。
アルバは溜息をついて首を振り、その後を追う。
二人が去った庭園では、今度こそ蘇りようもない死を迎えた屍者たちが残骸となって魔風に吹かれていた。
▲▽▲▽▲▽
伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-16 這い寄る混沌 ~ Crawling Chaos
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(決まった!)
勝利の剣が振るわれた瞬間、凜は確信した。
セイバーの一刀は寸分狂わず闇男爵を斬っていた。
少なくとも、凜にはそう思えた。
事実、闇男爵は身じろぎもしない。一太刀を受け、電流にうたれたように立ちすくんでいるだけだ。爛れた顔面を隠すことも忘れ、両手をだらりと下げて自失していた。
微動だにしないのはセイバーも同じである。金色の聖剣を振り下ろしたまま薄闇に浮かび上がる姿は端整極まりなく、一分の隙もない。その佇まいはあまりに調和がとれており、どこかギリシャ彫刻を思わせた。
誰も動かない。
音すらしない。
幾何学的なまでに凝結した空気の中、冷たい静寂だけがこの空間を支配している。
どれほどの時間が経過しただろうか。
均衡を崩したのは
ぴ、と。
闇男爵の額から鼻梁へと走った線だった。
「ぐう……っ!」
黒衣の魔人はうめきをあげ、眼を見開いて掌で顔を押さえる。その指の隙間から、ねっとりと熱いものが染み出してきた。ねばりつくように黒いそれは、じくじくとした分泌液のように闇男爵の指を垂れ落ちる。
「貴……様……」
闇男爵はセイバーへと手を伸ばす。手の震えにつられるように、額から顎へ、顎から首へ、濁った色の筋が一層濃く浮かび上がる。
「……終わりだ、闇男爵よ」
冷たく言い放ち、セイバーは闇男爵に背を向けた。ひゅん、と風切り音をたて聖剣から血糊を払う。
あるいはその音が引き金であったものか。
「――!!」
憤怒と憎悪に満ちていた顔貌が崩れ、言葉としての意味を成さぬ絶叫が響き渡った。
滝のような音がして、闇男爵の体が縦に裂ける。裂け目に沿い、紅と黒がない交ぜとなった奇妙な液体が噴出する。
スプラッタ趣味の噴水のように吹き上がった液体は、天井に衝突して四散し、時ならぬ雨のように降り注いだ。
落下した液体は床に跳ね飛び、余波をかって凜の元にまで散り来る。身を捻ったものの、数滴が頬に付着してしまう。
返り血か――
そう思い、不快げに顔をしかめて上着の袖でぬぐいとる。その時の違和感に、凜はふと眉をひそめた。
血液特有の鉄錆臭さが無いのだ。
さらには、体液の付着した肌がちくちくと痛む。わずかに焼けるような感覚は、希塩酸を誤って手にこぼしてしまった時のそれに近い。酸性の血液など聞いたこともなかった。
何かが違う。
いや、何かどころではない。そこかしこに飛び散った液体から、濃厚なまでの魔力の残滓が漂っていた。含有されているといった域ではない。液体そのものが魔力で出来ているかのようだった。
熱泥めいた液体は、見る見る間にかさを増してゆく。ショゴスがそうであったように、膨張し、展開し、粘性をもって広がっている。
血ではない。
このような血などあるはずがない。
これは――
「まさか、混沌!?」
叫んだ。
瞬間、闇男爵の断面から一氣呵成に液体が噴出する。色合いは黒から赤、赤から黒、その中間へと変化を繰り返し、その形状もまた一定の形に留まることを知らない。凜の言葉通り、それはまさしく混沌、方向性を持たぬままに物質化した魔力の塊だった。
見る間に混沌は床一面を覆い尽くしてしまう。まるで氾濫した河川からの出水だ。二つに分かたれ地へと転げた闇男爵の体は混沌の波に数度揺られ、忽ち没してしまう。半分だけ突き出ていた右腕が混沌の中に沈むと同時に、陰々滅々たる声が響き渡った。
「……油断しました」
闇男爵の声だ。壁から壁へと反響し室内にこだまするそれは苦渋に満ちていた。
「さすがは約束の聖剣です。一撃までならどうにかなると思っていましたが、まさかここまでとは。おかげで体を失ってしまいましたよ」
「どこまでしつこいのよ……」
凜がぼやく。
執拗にも程がある。肉体を断ち割られてなお意識を有するなど、前代未聞だ。
「しつこいとはひどい言い草だ。肉体なぞ仮初のものに過ぎません。精神だけというのも意外と便利なものでね、伝説の宝具もさして脅威でなくなりますよ。現界しない存在を斬るのは不可能でしょう」
饒舌は変わらぬままだ。その声は空気を震わせると同時に、脳髄に直接響いてくるかのようだった。一種のテレパシーのようなものかもしれない。
「それはお互い様ね。そっちが私たちをどうこうするのも無理じゃないかしら」
「ミス・遠坂とも思えない台詞です」
声が笑いを含み、空気をさざめかす。肩をすくめ首を振る仕草が見えるようだ。
「僕は魔術師ですよ。精神から肉体に干渉する術を持たないわけはないでしょう。もっとも――」
僅かの間言葉を切る。凜の反応をじっと観察しているような気配すらあった。肉体を失っても、芝居がかった仕草をする癖はぬけないものらしい。
「さすがに僕も消耗しすぎたようだ。せめてもの土産を置いて、ここは退くとしましょうか」
ぱちり、と何処からか指を鳴らす音。
呼応して、混沌の水面が割れた。
水面をかき分け、ぽたぽたと水滴を垂らしながら人影がゆらりと立ち上がる。
襤褸を纏った、若い青年らしき姿だ。ただし、目玉が眼窩から垂れ下がり、口元にはよじれた舌が飛び出していたが。
半ば以上腐敗した肉特有の刺激臭と、混沌の放つ胸の悪くなるような魔力が絡み合い、例えようもない不快な臭気を漂わせていた。迂闊に匂いを嗅げば、よほどの豪の者でも胃の中身を戻しかねない。
凜は反射的に水死体を想起する。水死体と違うのは、よろよろと動いていることだろう。
いや、実際に死んでいるのだから、死体というところまでは当たっているというべきか。
またも――ゾンビであった。
無論、一体で終わるはずがない。青年に続いて、後から後から沸いてくる。
「倫敦中から呼び集めた生きた屍体です。雑魚といえばそれまでですが、意外と侮れないものですよ。せっかくの美女二人だ、三文ホラーの情景を存分に味わっていただきましょう。たまにはスクリーム・クイーンを演じてはいかがです?」
スクリーム・クイーンとは、悲鳴や叫び声といった演出を得意とする女優たちの俗称である。ねばねばした液体に覆われ、歩く屍体だらけの地下室に置き去りでは、女優でなくても絶叫して気絶したくなるだろう。
「お生憎様。逃げ回って叫ぶだけは好みじゃないのよ」
「勇ましいことだ。無謀と勇気を履き違えないことを祈っておきますよ。では、またお会いしましょう。命あれば、ですがね」
それきり、闇男爵の気配は絶えた。後には、凜とセイバー、そして、今までにも増して莫大な数の屍だけが残される。
「……最後の最後まで性悪ね」
不機嫌そうに呟き、凜は後退る。足元の混沌が、ぬちゃりと音を立てた。どろりとしたそれは踝にからみつき、足取りを重くさせる。
凜の瞳に映るのは、腐れた肉と汚液。そして、歩く死骸、生きた亡骸、蠢く屍体、また屍体、屍体屍体屍体屍体屍体屍体屍体……押し合いへし合い、みっしりと地下室を埋め尽く見渡す限り一面のゾンビどもだ。
老いも若きも、麗人も醜女も、男も女も、ありとあらゆる人種年齢階層性別の屍が蠢き、唸っている。
腕を前に突きだし、屍骸たちはゆっくりと顔を上げる。
白濁した瞳がセイバーと凜をぎょろりと見つめ――
「――!!」
声にならぬ叫びあげ、死に損ないたちは二人めがけて一斉に動き出した。
37
「リン!!」
セイバーの叫びがくぐもって聞こえた。音が思うように届いていない。
広い室ではある。一片が二十メートルを超える地下室など、日本の個人宅ではなかなかお目にかかれないだろう。豪奢な屋敷といえる凜の邸宅にしても、地下室はそれなりに手狭だ。
とはいえ、声が聞こえぬような広さではない。
声の届かない理由は簡単だった。
凜の声も、セイバーの声も、いや、ありとあらゆる音がゾンビの唸りにかきけされてしまうのだ。
頭がガンガンする。
耳もどうにかなりそうだ。
だが、屍者たちが凜の体調など斟酌するはずもない。奴らは体液を撒き散らし、腕を突き出して迫り来る。二、三度首を振って眩暈をこらえ、痛む頭をおさえると凜はよろめきながら後ろに下がる。
一歩。
また一歩。
もう一歩踏み下がろうとした時、背中に硬い感覚があった。見ずとも石壁だとわかる。
「逃げ場なし、か」
三歩も下がれぬとは。
とにかく数が違いすぎる。どうにかしてこの場を離れないと、押し切られるのは目に見えていた。
実のところ、脱出経路が無いわけではない。ちょうど反対正面の壁、淡い光の中に鉄錆びた扉がぼうと浮かび上がっている。直線距離にすれば二十メートル、辿り着けない距離ではない。だが、屍者に道行きを阻まれた今、その距離は無限にも等しい。
屍者にも個性があるのか、一体が凜の肩をつかもうと先走って腕を伸ばしてきた。先陣を切るといった様子だ。見ればまだ凜や士郎とさほど変わらぬであろう若い男、羽織っているジャケットは襤褸切れと化し、血にまみれた眼鏡は割れて眼球が飛び出している。
「まったく……っ!」
吐き気をこらえながら、伸びてきた腕を払いのける。
その拍子に、鋭く尖った爪が凜の二の腕をかすり、ブラウスをわずかに切り裂いた。ざくりとした裂け目からまろやかな肌が覗く。日本人離れして白いそれは、打ち身のせいで一部が紫色に変色していた。ずきずきと、痛む。
「ふっ!」
傷を意に介さず、肘うちの一撃を放つ。肘が肉を突き抜け、頭蓋骨に当たる感触。溜めていた息を吐き、さらに押し込むと、男の頭はごろりと落ちた。
勢いをかり、左側のゾンビに裏拳を叩き込む。のけぞった屍は足をもつれさせ、二、三度よろめくと転んだ。拍子にまきこまれた仲間たちが、ドミノ倒しのようにばたばたと倒れていった。
その隙に、調息を行い、呼吸を整えようとする。
だが、どうにもうまくいかない。
それだけ体力の消耗が激しいのだ。体は汗にまみれ、自慢の黒髪は肌にぴったりと張り付いている。愛用の赤いブラウスも血肉まみれだ。胸元の十字まで変色してしまっていた。それらに加え、蓄積した疲労と魔力の枯渇が刻一刻と活力を奪ってゆく。
息が荒い。
汗が止まらない。
体が思うように動かない。
視界の先で数十体のゾンビが吹き飛ばされ、天井と壁に血の染みを作った。セイバーが剣を振り抜いたのだろう。セイバーの周囲にぽっかりと開いた空間は、だがしかし、一秒と経ずに新たな屍で埋まってしまう。
――本格的に、まずい。
腹にわきあがる焦燥を押し隠し、凜はうめく。
本来ならば、凜にせよセイバーにせよゾンビなぞ歯牙にもかけぬ。魔術の一撃、剣の一閃で塵へと返すことが出来る程度の相手にすぎない。
少数を相手どった場合ならば、だが。
つまるところ、戦いは数である。かてて加えて、襲ってくるのは文字通りの屍者なのだ。ただただ、新鮮な肉を喰らいたいという一念だけで動き続ける理性の壊れた獣どもである。何千何万打ち倒そうとも、最後の一体が力尽きるまで止まることはなかろう。消耗の極にある凜にしてみれば、ある意味で一番相手にしたくない集団といえる。
だからと言って諦めるわけにはいかない。髪を振り乱し、息を切らせながらも魔術と拳を振るい続ける。
「邪魔よ!」
魔力をまとわりつかせた拳を旋風のように振るう。ごきりと嫌な音がして、直撃を受けた一体の首が折れ曲がった。よろめいたそれは、千鳥足のようにふらつくと仲間たちへと倒れかかる。屍に体勢を立て直す頭があるはずもなく、凜を取り巻いていた数体が余波を受けて転げた。
突如として生じた真空地帯のように、空間にそれなりの猶予が生まれた。
余剰の空間を逃す手はない。状況を見定め、出来るだけ有利な位置をとろうとした時。
「……っ!」
足首に激痛が走った。金槌で力一杯骨を叩かれたかのような痛みに脳髄が痺れる。
見下ろせば、肘うちで弾き飛ばしたはずの男の頭が足首に食らいついていた。汚らしく黄色に染まった乱杭歯をニーソックス越しに突き立てている。斜めに裂けた唇がピエロめいた笑いを浮かべた。倫敦の街中に続いて、二度目の不覚だ。
「この……しつこいのよ!」
己の不注意に苛立ちながらも、左足を大きく振ると、右足に食らいついたままの頭を蹴る。えぐりこむ爪先が腐肉をぐずぐずと崩し、骨を直撃した。勢い任せに足を降り抜くと、体液を撒き散らしながら、頭部はサッカーボールのように宙を飛ぶ。
ボールは重力に従って落下し、石畳へと打ち付けられた。
鈍い音と共に眼鏡が吹き飛ぶ。
飛び出した眼球は潰れ、眼窩からどろりとした体液が流出する。勢いは止まらず、頭は二、三度バウンドしてから血で濡れた床を滑ってゆく。
地上へと通ずる扉にぶつかった途端――
だん、と。
大きく扉が開いた。
転がっていた頭は、扉に弾かれ石の壁へと押しやられる。扉の動きは止まらず、石の壁との間に頭を挟み込み、圧搾した。
ぐしゃり、と潰れる頭。それなりに新鮮な死体であったのか、石を投げ落とされた蛙のような悲鳴が響き、トマトソースめいた鮮やかな血液が飛散した。
開ききった扉から、庭園の街灯が差し込んでくる。
霧を通り抜けた明かりが逆光を形成している。
逆光の中に影がいた。
逞しい男のようだった。
凜の視線が吸い寄せられる。
何故か、屍の群れまでが振り向き、その姿に釘付けになっていた。
「もしかして――」
凜が声をあげる。
男が逆光から歩み出る。
鋼鉄の右手には愛用のチェーンソー。
生身の左手にもまた一つ。
手の中、刃は既に最高回転数に達し、エンジンは二重の爆音をあげていた。ガイドバーが光をぎらり跳ね返し、不吉に煌めく。
「アッシュ!」
「さあて、かかってこいだあ!」
叫んだ時にはアッシュは駆け出している。
金縛りのようになっていた屍者たちも、反応して動き出した。凜を取り囲んでいた者たちも一斉に方向を転換し、新たに現れた獲物へとにじり寄る。
今の凜相手ならば、数の暴力は有効だったろう。だが、アッシュにしてみれば飛んで火に入る何とやらだ。
チェーンソー二刀を振り回しながら屍者の群れに突っ込む。右手を、左手を、そして両手を振るうごとに、十や二十ではきかぬ数のゾンビが切断され粉砕され、肉粉骨レベルの断片にまで切り刻まれてゆく。肉片の浮かんだ血のスープが四方八方に飛び散り、床の混沌を朱色に染める。向かうところ敵なし、まさしく無人の荒野を行くが如き姿である。
「まとめて叩き潰してやる!」
狂乱的に歯を剥き出し、アッシュが叫ぶ。どちらが襲われているのかわからない有様だ。
実際、アッシュが足を進めチェーンソーを翻すごとに屍者たちは退いていた。意志も知性も持たぬにも関わらず、アッシュを恐れ、怯え逃げまどっているとしか思えない。
「……すごい」
一人呟くと
「感心している場合か。そこから離れたまえ。焼け焦げても責任は持たんよ」
壁越しに聞き覚えのある声が聞こえてきた。同時に感じたのは、強大な魔力だ。魔力は壁の向こう側から発され、術式を行使する気配が伝わる。
凜の動きは素早かった。
痛みをこらえて身を起こし、よろけるようにして壁から離れる。
途端、灰褐色の石が赤熱した。外側からバーナーであぶられているかのようだ。石は数秒も経ずに溶解し、飴のように溶け崩れる。人一人通れるほどの穴が忽ちに開いた。ぽっかりとしたそこから、冷たい夜気と霧が流れ込む。
燠火のくすぶる穴から、ひょい、と白皙の美貌が覗き込んだ。美貌の主、シルクハットの下に金髪を流した青年は長身を屈めてそのまま滑り込んでくる。
「あなた、コルネリウス・アルバ……!」
「せめてミスターを付けたまえ。まったく世話を焼かせるじゃないか。これだから極東の田舎者は困るのだよ」
シルクハットをもたげ、炎の魔術師は大袈裟に溜息をつく。こんな時でも人を小ばかにした声音を崩さないのは、いっそ天晴れといえた。
「まあ、お説教は後だ。ここは退くことだね。後はこちらでどうにかする」
「どうにか、って……」
「どうにかはどうにかだよ。君と言い合いをしている暇はないのだ。素直に言うことを聞いて貰おう」
言い放ち、アルバは指先に小さな炎を灯らせた。その一つ一つが火炎放射器にも匹敵する火力を秘めているのが凜にはわかる。揺らぐ炎に、純粋なまでに貴族的な美貌が浮かんでいた。
「ちょっと待ってよ、私はまだ――」
言い差すと、アルバは凜を見下ろし、教師のような厳しい表情で睨み付ける。
「今の君では足手まといなのだよ。そのような判断も出来ないとは、やれやれ、嘆かわしいことだ。宝石翁も草葉の蔭で泣いているだろう」
「大師父は死んでないわよ……」
「ここは任せておきたまえ。まあ、私が出るまでもなさそうだがね」
アルバの指さした先を見ると、アッシュが丁度セイバーの元に辿り着いた所だった。取り囲んでいたゾンビの数は半分以下にまで減っている。
アッシュが魔術師でも何でもないことを考えると、驚異的ですらあった。この世ならぬ者たちにとってアッシュは天敵中の天敵なのかもしれないと、凜はふと思う。なるほどこれならば、消耗している自分はおろか、アルバの力も必要なかろう。
「……わかったわ。後はお願い」
「それでいい。この穴から庭に館の裏手に出られるはずだ。それとも、肩でも貸すかね?」
「その必要はないわ。一人で行けるから」
足を引きずるようにして、アルバが開けた穴から庭へと抜け出す。
崩れ落ちる館を背景に残り三人が戻ってきたのは、わずか数分後のことだった。
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「ひどいもんだねえ、こりゃ」
ソフィアは戻ってきた一行を見ると、心底呆れたように言った。
当然だろう。五体満足なのはアルバだけ、アッシュは全身血まみれで上半身は裸同然、セイバーは魔力の枯渇で今にも消え去ってしまいそうだし、凜に至ってはあちらこちらに傷を作り足首はほとんど砕かれてしまっているという有様だ。
衣服も衣服でぼろぼろだ。凜の上衣など、あちこちが裂けて肌が露出してしまっている。ソフィアを包む夜会服めいた黒のドレスと比べると無惨さが一層際立った。
満身創痍もいいところである。全員無事なのが不思議なほどだった。
「お孃さんは連れて帰ってこれたようだね。お疲れさん」
「リンが無事なのは幸いでした。しかし……」
セイバーの悔しげな言葉を、凜が引き取る。
「……片が付いたわけじゃないわ。“死者の書”は結局奪われ、倫敦は未だにゾンビだらけ、阿鼻叫喚の死都のままじゃない。負けも負け、大負けよ。闇男爵にしても――」
「ま、落ち着きな」
片手をあげて凜の言葉を遮った。息巻いていた凜は調子を崩され、少しだけ不機嫌な表情を浮かべる。
「生きてるだけもうけもんだよ。詳しい話は後で聞くとして――」
ソフィアはすいと目を細める。煙管の背を灰皿に打ち付けると高い音が響いた。上質の鈴のように澄んだ音色は、誰にとっても耳慣れぬものだ。オリハルコンやヒヒイロカネとまではいかずとも、かなり高価な希少金属を用いて造られているのだろう。
「少し休まなきゃあいけない。お孃さん方、そのままだと死んじまうよ」
「そんなことは――」
「自分でもわかってるんじゃないかい。妙な意地は張るもんじゃない。自殺志願なら止めやしないがね、犬死にの趣味はないだろう? 相手が相手だ、少しは言うことを聞いても罰はあたりゃしないさ」
凜は言葉につまった。紛れもない正論だからだ。
体中の怪我に加え、魔力も体力も限界に近い。正直なところ、凜は立っているのだけでやっとなのだ。セイバーにしても同じだろう。何といっても宝具を用いたのだ、魔力の消費量を考えると、自分より消耗しているかもしれなかった。
実際問題として、この状態で闇男爵を追いかけるなど無謀を通り越して愚劣である。優れた魔術師は例外なく現実主義者だ。凜は即座に思考を切り替えた。
「そうね、まずは体を休めなきゃだめか。どこか場所を貸して貰える?」
そうと決まれば後は早い。凜が問いかけると、ソフィアは満足げに頷いた。
「店の奥に棺桶があるよ。中でゆっくりと寝るといいさ」
「棺桶だあ?」
アッシュが頓狂な声をあげた。なるほどアッシュにしてみれば、ベッドではなくわざわざ棺桶に眠るなどは奇行に属するだろう。
「棺桶に寝るのは、吸血鬼だけの専売特許じゃないんだよ。水気をたっぷりと含んだ土気は癒しの象徴、体力と魔力をまとめて取り戻すにゃ一番ってね」
「ちょっと待ってよ。この店で棺桶って、幾らなんでも……」
慌てたような凜を気にもせず、ソフィアは壁によりかかったアッシュに目をやる。
「怪我人は口ごたえしないもんだ。兄さん、頼むよ」
「ああ」
答え、アッシュは手を伸ばした。そのまま凜とセイバーをまとめて抱き上げる。隆々とした腕と逞しい胸板は、小柄な少女二人を運ぶには充分だ。
「きゃっ!?」
「アッシュ、な、何を!?」
凜は小さな悲鳴を上げ、セイバーは声を裏返す。意外といえば意外な行動に、揃って狼狽していた。思いもよらぬ反応に、アッシュが困ったように頭をかく。
「変な声出すなよ」
「主従揃って意外と
店の主も何とも言えぬ微苦笑を浮かべる。思いの外な反応に半ば呆れ、半ば微笑ましく思っているのだろうか。
「棺桶を開けたら、そこに寝かせてやっておいておくれな。着替えも近くにあるからね。ああ、中に入ってる土はそのままにしておくんだよ。<新宿>に倫敦、おまけにアーカムシティから持ってきた土をブレンドした特製品だ。一日も寝てりゃ魔力も戻るし傷も治るだろうね。お孃さんも王様も一晩で元気になるって寸法だ。それと――」
両手に花のアッシュを一瞥し、ソフィアはしかめっつらで声をかけた。
「可愛い娘さんが二人もいるからって、変な気をおこすんじゃないよ。お孃さんにゃお相手がいるらしいんだ」
表情とは裏腹の冗談めかした言葉に、アッシュは大袈裟に肩をすくめると首を振った。おいおい、とでも言いたげだ。ご丁寧に溜息までついている。
「勘弁してくれ。リンとアーサーじゃ乳臭すぎるだろ。俺はグラマーなのが好きなんだ」
絶句。
直後、顔を真っ赤にしてわめき始めた二人をまとめて、アッシュは鼻歌を唄いながら店の奥へと消えた。
三人を見送り、ソフィアは手近な長椅子に身を横たえる。腹の下に伝わる、黒の本革の上から張られた天鵞絨の感触が心地良い。煙管をくわえ、紫の煙を吹き上げると一人黙りこくっていたアルバに流し目をくれやる。
「坊やもご苦労さん」
「坊やはやめてくれないか。私も今やシュポンハイムの修道院長だ。いくら貴女にでも、子供扱いされるいわれはない」
「なに一丁前の口をきいてるんだい。いくつになっても坊やは坊やさね」
椅子の肘掛けに顎を乗せ、ソフィアはけらけらと笑った。椅子と胴に挟まれた胸が一際豊かに揺れる。
「ま、わざわざ来てくれた礼は言っとくよ。あんな化け物相手だと、お孃さんたちだけじゃちょいと心許ない」
「化け物――“闇男爵”かね」
「ああ。<新宿>の次は倫敦とは勤勉なことだ。頭が下がるよ。付き合う協会はご苦労さんとしか言えないね」
軽口に、アルバは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「胃に穴があきそうだよ。ただでさえ面倒な事が多いというのに、この有様だ。生意気な小娘と使い魔が来たと思ったら、闇男爵に死霊ども、ついに倫敦は大混乱。神秘の隠匿も何もあったものじゃない!」
「はいはい、大声を出すんじゃない。癇癪持ちはは変わらないね」
肘掛けに置いてあった扇子を手にし、扇ぐ。ブルネットの長髪が柔らかに揺れた。
「あんたは生真面目すぎるんだよ。そんなだから弟子を育てるにもあっぷあっぷになるのさ。魔術師ともあろうものが手取り足取り、親切丁寧に指導をするなんて近頃はとんと聞かないじゃないか」
「放任主義の貴女に言われたくないな。大体、弟子を一人前に育てられなくて何が魔術師かね。神代の御代から連綿と受け継がれた術こそ我らが誇りだ。近頃の連中はそれがわかっていないのだよ」
気取った様子でふんと鼻を鳴らす。
嫌味ともみえる仕草だが、ソフィアにしてみればこれこそがコルネリウス・アルバだ。高慢で自信過剰、そのうえここ一番に弱いうっかり者だが、魔術師としての実力と責任感は決して侮るべきものではない。宿命的に個人主義者ばかりの魔術協会で、真摯に弟子の面倒をみる者がどれほどいるだろうか。
「へえ、いい顔をするじゃないか。なかなか立派になったみたいで、私は嬉しいよ」
「……貴女が人を褒めるとは、どういう風の吹き回しだね?」
「いや、確かに坊や扱いは悪かったかもしれないと思ってね」
「背筋が寒くなるからやめてくれ。そんな目をされた時は決まって何かあるんだ。貴女といい、トオサカといい、アオザキといい、私の回りの女性はどうしてこう……」
ぶつぶつ言いながら、アルバは帽子かけに手を伸ばした。シルクハットを取り、付着した埃を払う。
「さて、私はそろそろ」
「おや、もう戻るってのかい」
「倫敦がこうもなると、協会は協会で忙しいのだよ。今日もかなり無理をして出てきたんだ。後で老人どもに愚痴を言われるのはごめんだね」
「今更愚痴も何もないだろうに。安心しな、あそこの連中は意外と優秀だよ。それより――」
ソフィアは言葉を切り、猫のように瞳を細めた。不穏な空気を感じ取り、アルバはわずかに後じさろうとする。脱兎のごとく逃げる構えだ。
が、ソフィアがそんなことを許すはずもない。くい、と半身を起こし、右手をしなやかに伸ばす。
次の瞬間には、繊手は白蛇のように宙をしなり、アルバの首へと瞬時にしてからみついていた。獲物ははびくりと身を震わせ、硬直する。
「な、何を!?」
「お見限りとはつれないじゃないか」
狼狽したアルバの手から、シルクハットが離れた。
ふわり、絨毯の上に落ちたそれは、ぱたぱたと転がって椅子の足にぶつかり止まる。
アルバは身じろぎ一つ出来ないようだった。にんまりと、ソフィアは唇を吊り上げる。
「久々に尋ねてきたんだ。少しはゆっくりしときなよ」
「ご、ご老体……」
「近頃は誰も遊んでくれなくてね。色々とご無沙汰なんだ。たまにゃ火遊びもいいと思わないかい?」
ごくり、と息を呑む音が小さく響いた。
「し、しかし、こんな所では……」
「誰も来やしないよ。心配なら結界を張っておいてもいいさ」
ちろり。
薄くルージュを塗った唇を、真っ赤な舌が舐めた。餌を前に舌なめずりする蛇にどこか似ている。冷や汗と脂汗を流し立ち竦むアルバはさしずめ蛙か。まさに、蛇に睨まれた蛙の図である。
ソフィアの指は、柔らかい絹糸のようにアルバの上を這い回る。首筋をさすり、顎をもたげ、唇をなぞる。
そして伸びるもう一つの腕。
そのまま、両手がアルバの頬を包み込もうとしたところで――
「……そこまでにしていただこう」
アルバはソフィアの腕を押しのけ、すいと身を退いた。
汗を拭い、息を吐く。安堵の色が濃く浮かんでいる。よほど精神力を振り絞ったに違いない。
「おや」
ソフィアは頓狂な声をあげた。瞳の輝きがゆっくりと消え、少し残念そうな表情はすぐにいつもの微笑にとって変わられる。
「やるねえ。私の《
「勘弁して欲しい。貴女相手では火傷ですまなくなってしまう」
「いや、悪かった悪かった。炎の魔術師が大火傷じゃ笑い話にもならなかろうね」
穏やかな表情を浮かべ、ソフィアは眼鏡の奥で瞳を柔らかく細める。
「……ま、坊やのまんまじゃないみたいだ。少しは安心したよ」
「まるっきり進歩がないと思われては心外でね」
「ご立派なことだ。安心おし、意地悪婆さんじゃあるまいし、そんなことは思やしないからね」
「……ノーコメントとさせていただこう」
苦笑し、扉の前に進み把手に手をかける。
今度はソフィアも引き留めはしなかった。軽く手を振り、見送る。
と、アルバはふと振り返った。
「そういえば、一つ尋ねたいことがあった」
「答えられることなら構わないよ」
「なぜ、トオサカにあれほど手を貸す? 倫敦の騒ぎにせよ、その張本人にせよ、貴女なら対処出来ないことはないはずだよ。面倒で手を出さないだけかもしれないが、そうだとしたらトオサカにわざわざ肩入れする理由がわからない」
アルバはソフィアをいつになく鋭く見やる。
「お嬢さんには言ったけどね、今回の私はちょいと目立つだけの端役だ。主役を喰うつもりは最初からないのさ。それに――」
すい、と目を逸らし、ソフィアは視線を店の奥へと向けた。その先では、壁にかけられた絵画がランプの炎の中に浮かび上がっている。描かれているのは、牙を剥き出しにした竜、そして鎧兜に身を固め、槍を手にした一人の男だ。聖ゲオルギウスによるドラゴン退治の図である。
「竜を狩るのは英雄の役目だ。そいつは今も昔も変わらない。そしてね、英雄は人じゃなくちゃいけないんだよ。竜退治に限ったことじゃない。竜、吸血鬼、悪魔、人智を超える化け物に抗するのは、常に人間だよ。人を止めた連中が出しゃばったら、それはもうただの同族争いだ」
「貴女でも
「ご明察」
ソフィアは上機嫌に煙管を回した。出来の良い生徒を見守る教師のようだ。
「ラスキンのお説教じゃないが、誰かが因果の帳尻を合わせなきゃいけない。放っておけば痛い目をみるだけだからね。でも、ただの人間じゃそんなことは出来やしない。そこで、魔術師に成りきれない甘ちゃんのお孃さんの出番ってワケだ」
「なるほど。確かに仰る通りだ。魔女はあくまで助言者に留まり、常に人を助ける任を負う。無数の騎士たちに竜の殺し方を伝え、
アルバの瞳が怜悧に細まる。
「魔女たちが得た見返りは何だったのだ? 貴女が私利私欲だけで動くとは思わないが、何の報償もなしに尽力するとはもっと考えがたい」
「お見通しかい。本音を言えば――」
「言えば?」
袖口で口元を隠し、ソフィアはくすりと笑む。
「可愛い娘さんたちが必死で頑張ってるのは楽しいんだよ」
「……悪趣味は相変わらずか」
天を仰ぎ、アルバはシルクハットをかぶり直す。今度こそ話を終え、協会に戻るつもりなのだろう。
「では、私は失礼するよ」
「ああ。協会の連中にもよろしく伝えといてくれ」
ソフィアの言葉を背に受け、シュポンハイムの長はゆっくりと扉を開く。そして、真紅のコートを翻しながら霧の倫敦へと消えていった。
ようやく訪れた静寂の中、ソフィアは寝そべったまま物憂げに煙管を弄ぶ。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。煙管からは、七色に変化する虹色の煙がたゆたっていた。
そのまま、空いている左手を天井に向ける。と、淡く光る球体が掌に生じた。薄い金色に発光するそれは、野球ボールより少し大きいほどだ。何かの液体が満ちているのか。その中心部に、黒々とした粘液が球状となって揺らめいていた。
闇男爵から吹き出し、ラングホーンの地下室を覆ったあの液体である。掌をゆらしながら、ソフィアはしばし瞑目する。
「混沌……か」
ゆっくりと眼を開き、眉間に皺を寄せて呟く。表情と声が、いつになく厳しい。
この混沌は、そして倫敦を覆う魔力はある意味で馴染み深いものだ。ソフィアにとって力の源たる存在が放出する魔力そのものではないにせよ、性質としては極めて近い。
言い換えれば、人間の――いや、地球上の存在が有し得る魔力ではない。
ショゴスを容易に従える力。
浅黒く深い肌を持つ黒衣の青年。
これらの要素を検討すれば、思い至る名はただ一つしかなかった。
宇宙を嘲る究極のトリックスター。
月に吠え、闇を跳梁する黒の王。
千の顕現を有せし無貌の神。
すなわち――
「"
ソフィアの呟きは、天井近くにわだかまった闇に聴くものとてなく吸い込まれる。
彼方から、誰かの嘲笑が響いたような気がした。
⇒ to be continued in Chapter - 17
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