連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第十四話

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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-14 永久の水神 ~ Call-out of Cthulhu

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29


 間桐桜はいつもそうしている。
 薄い暗がりに佇み、目を伏せて己が身を抱いている。
 柔らかな細面、白くしなやかな四肢、優しい丸みを帯びた身体。その姿は少女の無垢と女性の艶を兼ね備え、蠱惑的だ。だというのに、桜は縮こまり、誰かの、何かの視線を恐れるように萎縮している。
 四方を包む薄闇から吹き付けるのは、身を切るような風。紫髪が風に舞い、ばさばさと踊る。
 足下に広がるのは、肉だ。心の臓の如くに律動し脈打つ肉塊が大地を覆いどこまでも広がる。肉から跳ね出でてまた戻るのは、大小とりどりの蟲。醜怪さに目を背けて空を見上げれば、宙天に白く朦朧とした月が昇り、太陽は地平線に沈みかけている。黄昏時、彼誰時。昼とも夜ともつかぬ曖昧な時間、何処とも知れぬ茫漠とした空間。
 時を示す指標も無ければ、空間も定かでないこの世界。道標となり得るのは、肉の大地の上、右に左に走る二股の道だ。それぞれの道端には、粗末な木の看板が突き刺さっている。看板はそれぞれ、一色に塗りつぶされていた。
 右は黒。
 左は白。
 黒は闇、白は光。昼と夜を分かつ黄昏の世界には相応しい看板か。右に踏み出せば薄闇は暗さを深めて真の闇と化し、左に進めばやがて夜明けがやってくるのだろう。
 どちらに進むべきか、或いは進むべきではないのか。迷うことはないはずだ。人は薄暗がりを愛することはあっても、真の闇には耐えられない。桜とて例外であるはずがなかった。
 ただ左の道を行けば良い。遮るものは何一つ無いのだ。この不気味で気色の悪い空間を抜け、陽の当たる場所へと辿り着けると、理性はそう告げる。その言葉を疑う理由は無い。
 だが。
 桜の本能は理性を否定し、身をすくませる。足は小刻みに震え、ほんの少しも動かない。あしなえにでもなったかのように。
 理由は明白、道の彼方から耳慣れた声がするからだ。
 声も、また二つ。
 一つは穏やかで優しく、それでいて鉄のように強い男性のそれ。桜にとっての思い人であり、隣人。救い主であり、ただ一人とも言える安らぎを与えてくれる人。
 だから、すくみ足の原因はその声ではない。桜にとっては招き手となる筈なのだから。
 足を竦ませるのは、もう一つの声。心をちくちくとささくれ立たせるそれは、ぬるりとした風に乗り絶え間なく耳ヘと届く。
「――だから……くんは……」
 鈴を転がすように美しく、それでいてしなやかに凛々しく強い、良く通る声。耳にするだけで、生気と自信とに満ちた、不敵で明敏な少女の肖像が脳裏に浮かぶ。
「……ぱり、桜は――」
 遠坂凛。
 学校の先輩、魔術の天才、愛すべき、そして疎ましき血族。
 あの人は持っている。
 万能の才を。
 あの人は受けている。
 天からの、人からの寵愛を。
 顧みて己はどうだ。内外に在るのは、跳ね回る蟲、暗鬱な舘、そして腐りゆく老爺。我が身にじっとりと纏わり食らいつき、厭わしくも逃れられない。
 だというに、遠坂凛は陽の当たる場所で、衛宮士郎と共に暖かな日々を送っている。その姿を思う度、心は乱れ、得体の知れぬ黒い塊が顔を覗かせる。
 何故。
 何故あの人だけが得るというのか。
 間桐桜が切望しながら、望めば望むほどに手に入れられぬものを。
 意識はぼやけ、脳髄は揺れ、身体は煮えたぎるように熱い。
 身をかき抱き、桜は一人うずくまる。
 頭の中に響く声は、いつまでも消えそうになかった。


30


「桜……桜、聞こえないの!」
「無駄じゃ。今の桜は木偶と変わらぬ。己が内にただ閉じこもり、澱のように濁った思考を沈殿させるだけよ。お主の言葉なぞ届きはせぬわ」
 凛の呼びかけに、臓硯が淡淡と答える。
 桜は凛の声に反応する様子すら見せない。洋燈(ランプ)の下でただ立ちつくし、虚ろな瞳を宙に彷徨わせているだけだ。日本人離れした白い肌と整った容貌ゆえか、その姿は上質なマネキンのよう。能面のような無表情が、その印象を一層引き立てている。
「ふむ……しかし、その姿ではどうにも場にそぐわぬ」
 かつん、と。臓硯は杖で床を叩く。
 桜は僅かに頷くと、身を覆う厚手のローブに手をかけた。メフィスト病院で着せられていたものだが、凛には無論知る術がない。
「ちょっと、何するつもりよ」
「そう憤るでない。孫の着替えに手を貸してやるだけじゃというに」
 さらと、ローブが地に落ちた。
 その下から魔法のように現れたのは、純白の(うすもの)だ。上下が一体化した絹は、桜の豊かな肢体をゆったりと覆っている。どこかから吹き込む風が、紗をひらひらと揺らした。場の空気もあってか、その姿は扇情的というよりも神秘的だ。心ここにあらぬという様子とも相まって、ギリシャ時代の巫女のようにも思える。
「これでよかろう。あのように無粋な服では風情がないものよな」
 満足げな声に、凛は呆れて溜息をつく。
「何が風情よ。傍から見ていれば狒爺ね」
「減らず口を叩きおるわ。長がその様では、遠坂の名が泣くというものよ」
「大きなお世話」
 ふん、と鼻を鳴らした。不作法といえば不作法な仕草だが、今更猫をかぶる必要もない。
「それで、聞きたいのだけれど」
「何かな」
「――桜に、何をしたの」
 押し殺した声で、問う。声の調子は変わらず、あくまで平静だ。だが、勘の鋭い者なら、奥底に潜む殺意と敵意を感じ取っただろう。当てられて気を失うかもしれない。
「見れば解ろうに。少しばかり心を眠らせての、夢を見て貰っておる」
 だが、臓硯には動じた様子もない。凛の敵意殺気ですら、凪ぐそよ風程でしかないものかの如くに恬然としている。ある種の年の功と言えるだろうか。
「夢は夢でも悪夢でしょうに」
「腐っても間桐の一族よ。悪夢の一つや二つどうということはあるまい。無論、己が意は失っておる――と言いたいところじゃが」
「まだ完全ではない、ってわけね」
「うむ」
 臓硯は言葉を切り、重々しく頷く。
「儂の見るところ、心の奥底で自我は眠りと目覚めの狭間にある。先の衣替え程ならば言いなりにはなろうが、無理をさせようとすれば抵抗するじゃろうな。我が孫ながら大した意志の強さ、不出来な兄とは大違いよ。もっとも――」
 臓硯は言葉を切り、彼方を見詰めて
「それでこそ、器に相応しい」
 にんまりと、嗤った。
 悪意と私欲とがにこごった、胸が悪くなるような、それでいながらどこか夢見るような奇妙で不気味な笑みだった。魔術師というより、ほとんど妖怪の域だ。断じて常の人が浮かべる表情ではない。
「器、ですって……?」
 凛の声に訝しげな色が混ざる。おや、とでも言いたげに臓硯が眼を寄せた。
「ほ、知らなんだか。そうじゃの、アイツベルンの娘ならいざ知らず、お主は聞き及んでおらぬかもしれぬ」
「折角だし、説明して貰えるかしら」
「……まあ、良かろう。知り得たとて何が為せるものでもなかろうしの」
 部屋の隅から椅子を引き寄せ座り込むと、臓硯は息をつき目を瞑った。冷たい鎖に縛られ石床に置かれている身としては、椅子の一つも欲しいところだ。心中でぼやいていると、臓硯が目を閉じたまま言葉を続ける。
「お主ならば、我らマキリの術も少しは承知しておろう。桜の身はの、ただの躯ではない。心の臓、神経、肺腑に臓腑、隅の隅に至るまで、我が使役する蟲の住処となっておる。念のため申し添えるが、お主であっても取り除くのは至難じゃ。そうさの、せめて教会の代行者でもなければ話になるまい」
 教会の、との言葉に、一人の神父を思い出す。隆々たる体躯と真っ直ぐに歪んだ信念を持っていたあの男。
 もっとも、かの神父、言峰綺礼は既に世にない。万が一健在でも頼み事をするなど真っ平御免である。
「桜は蟲の器だ、なんて話じゃないでしょうね」
「当たらずといえども遠からず。肝心なのはあの娘に埋め込んだ聖杯よ」
「――何ですって」
 聖杯、との言葉に凛の瞳が細まった。
 それが合図であったかのように、思考の一部がかちりと音立てて少女から魔術師のものへと切り替わる。感情的情緒的反応を締め出し、情報を最大限手に入れ、分析し、活用しようとするリアリストとしてのそれだ。
「厳密に言えば聖杯の欠片じゃな。手段も経緯も主に説明するつもりはないし、その理由もない。ただの、桜は聖杯とほぼ同等の機能を持っておる。いわば予備の聖杯よ。敗れた英霊の魂を回収し内に留めるためだけの器じゃ」
「――」
 そんなことが、と言いたくなる気持ちを横に除け、凛は臓硯の言葉を咀嚼する。
 聖杯とは英霊を回収する器であること。
 桜は聖杯として機能し得ること。
 臓硯はその桜を利用して何か忌まわしい事を成し遂げようとしていること――
 大まかに整理すればこのようになろう。
 聞き捨てならぬ事ばかりだ。考えるべきこと、問いただすべきことは数多い。だが、状況が状況だ。今は聞き出せるだけのことを聞き出さねばならないだろう。
 そう判断し、凛は平静を装って会話を続ける。
「でも、聖杯戦争はもう終わったわ。英霊だって、その殆どが現界していない。器だけあっても、盛りつけるべき中身がなければ何も出来ないでしょう」
「正論じゃ。じゃが」
「そこからは僕が説明しましょう」
 か、と。
 床を打つ革靴の音が臓硯の言葉を遮った。隣室にと繋がる扉を開き浮かび上がるのは、闇男爵こと呪紋大三郎だ。夜会服めいた黒の礼装にマントという、既に見慣れた姿。根を詰めた作業でもしていたのか、その顔には仕立て下ろしらしい衣装には似つかわぬ疲労の色が浮かんでいる。だというのに、白皙の美貌は寸分たりとも衰えを見せていない。いや、輝きを増しているとさえ言えよう。まるで魔都倫敦の瘴気を吸収しているかのようだった。
「ちょっとした応用問題ですよ。魂を留めるだけでは意味がない。本来の役割を考えれば、大聖杯駆動の為の鍵として“根源の渦”に至る手助けをして貰うところですが、いくら倫敦でも大聖杯が都合良く転がっているはずもありません」
「……大聖杯は即ち魔法陣ってわけね。その魔法陣を起動させるために必要なのが聖杯。今の場合は桜ってことか」
「的確なまとめですね」
「筋は通っているわね。魔法陣を本来とは異なる目的に応用するなんて珍しくもない。でも――」
 切れ長の瞳が、闇男爵を鋭く見据える。
「“闇男爵”ともあろう魔術師が、そんなことが出来ると本気で思っているのかしら」
「難しいでしょうね。実に難題だ」
「なら――」
「ですが」
 凛の言葉を遮り、闇男爵は許可を求めるように臓硯を一瞥した。仕方なかろうと臓硯は頷く。
「僕はともかく、臓硯翁の望みは根源の渦への到達などではありません。肉はおろか魂までもが朽ちることのない、いわば永久の死すら超える体を手に入れること。ミス・間桐はそのための容器なのです。ならば、英霊でなくとも、同等の、いや、それ以上の神的な力を持つ魂を受け入れ、心身を作り替えてしまえばよろしい」
「簡単に言うけどね、そんな魂が都合良く在るとでも思うの? 聖杯戦争でも、英霊を喚ぶのがやっと――」
 反論を試みたその時
「……神的な、ですって?」
 凛の頭脳に電流が走った。
 鋭利にして明敏な精神が高速で活動を開始する。脳髄に蓄えられた情報を半ば無意識化で検索し、有用と思しい情報を無数に抽出し、複数に分割した思考経路で同時並行処理を行い最適解を導き出す。
 忽ちにして、鋭さと輝きを増す凛の瞳。その色に、闇男爵は満足そうに頷く。
「理解したようですね。そう――」
 瞑目した闇男爵の唇から、英語の詩句が静かに漏れ出す。


 That is not dead which can eternal lie,
 And with strange aeons even death may die.


「――和訳もしておくとしましょうか」
 目を閉じたまま、闇男爵は謡うように言葉を続ける。
「其は永久に横たわる死者にあらねど 計り知れざる永劫の元に死を超ゆるもの――」
「あなたたち……」
「ええ。貴女が思っている通りですよ、遠坂凛」
 闇男爵はケープを翻し、高らかに宣言する
「僕たちが招き、ミス・間桐に回収して貰おうとしているのは、太古よりこの世界をわがものとする神々の一柱――クトゥルフの魂です」


31


「あなたたち、正気!?」
 凛は反射的に怒声をあげていた。
 当然である。
 ――クトゥルフ。あるいは、クトゥルー、ク・リトル・リトル、チュールー。
 かって外宇宙から地球へと飛来し、古えのもの、大いなる種族のような生命体と覇権を争った存在である。蛸に似た外見を持ち、神の一柱とも、人類とは異なる法則に従う生命体とも言われるが、詳らかでない。確かなのは、人間とは異なる法則に従っていること、人類から見れば神にも等しい力を有していること、そして、現在は南太平洋に水没した巨大都市ルルイエで眠りの最中にあることだ。
 1920年代に一時的に目を覚ました時には、世界中で感受性の鋭い芸術家たちが狂死している。有史以来一定数の信者を有しているものの、人類にとっては本質的に異質な存在だ。直視でもすれば魔術師ですら正気を保ち得ないだろう。
「無茶もいいところよ。控え目に見ても、クトゥルフは神霊かそれ以上の化け物よ。そんなモノの召喚に成功したなんて、聞いたことがない」
 凛の言葉に嘘はない。
 世には幾多の魔術があるが、召喚術はその中でも主要な一つである。多様な系統をもって世界中に存在する術の形式であり、魔術協会でも専攻している者は数多い。同時に、極めるには奥深く困難な術でもある。術者の力量、入念な準備、霊格の高い土地、これらが揃わなければ、強力な存在を召喚することなど覚束ない。西洋魔術は儀式を重視することもあり、この傾向は特に顕著だ。神にも等しい力を持つ異界の存在、クトゥルフの召喚など――
「寡聞にして知らぬの。じゃが、地の利は我らにある」
 嗄れ語の老爺がぎょろりと目をむく。地の利、との言葉に凛の思考はさらに加速した。
「……そっか、倫敦をこんな有様にしたのは、その為なのね。屍者を自由に濶歩させ、人々を喰らわせ、街を霧に閉ざされた魔都とする。倫敦の住人は生贄で、街そのものが魔力を集積する場というわけか」
「ご明察です。矢張り貴女は聡明だ」
 闇男爵が手を一つ叩き賞賛する。本来ならば人の心を浮き立たせるであろう拍手も、凛には忌々しいものでしかない。
「場さえ整えば、あとは術者次第です。とはいえ、クトゥルフ神は気紛れでしてね。幾ら僕でも、独力で呼び出すのは少々大変だ。臓硯翁にしても同じ事でしょう。そこで――」
「もう一度、“死者の書”が登場するわけね」
「ええ。魔法の一つに数えられる時間移動すら可能にする究極の魔導書。世に流布する『死霊秘法(ネクロノミコン)』とは異なる秘術が記された魔書。彼の書が完全なる姿に復すれば、クトゥルフの召喚も不可能ではない。いや、十分に可能です。ヌーレンブルクの魔女にも匹敵する間桐翁、<新宿>に比せられる倫敦、何より、人でありながら人にあらぬ、この僕がいるのですから」
 闇男爵は熱に浮かされたかのように昂揚的に続ける。その言葉の中に、凛は引っかかりを感じていた。
 人でありながら人であらぬ、とはどういうことだ。
 闇男爵は確かに一種の怪物だ。かの魔界都市<新宿>を支配する一歩手前までいくなど、協会の重鎮でも不可能に近いだろう。
 だが、人間離れと人ではないとでは全く意味が異なる。闇男爵が人間離れしていることは間違いないが、種族的には未だ人間であるはずなのだ。
 もしやこの男――
「何か気にかかることでも?」
 不審げな声に、凛は首を振って思考を中断する。今は熟考の時間ではない。
「いいえ、言いたいことは理解できたわ。でも、クトゥルフが少しでも目を覚ましたりすれば、倫敦どころか地球が危ないと思うけれど」
「その点は心配無用ですよ」
 穏やかな微笑みに、凛の背筋に寒気が走った。
「僕たちに必要なのは、クトゥルフの覚醒ではない。必要なのは、いわばその精神だけです。先ほども言いましたが、そのために“死者の書”を探していたのですからね」
「して、肝心の書じゃがの」
 臓硯が闇男爵を見上げる。二人並ぶと、大人と子供ほどに背丈の差があった。だが、精神の醜怪さは甲乙付けがたい。
「作業は順調ですかな?」
「今しばらくかかりそうです。さすがはミス・遠坂、厄介な鍵をかけてくれる」
「残りの箇所はどうなっておられる」
「既にスキャンを終え、画像データをミスタ・ウェスカーに送ってあります。多少時間はかかりましょうが、複製が出来るのもそう先の話ではない」
「便利になったものよ。儂の若い頃には、幾年とかけて筆写したものじゃが」
「科学技術も使い方次第、ということですよ」
 口元を歪め、貴族と魔翁とが視線を交錯させる。何を話しても、どんな仕草をしても腹に一物ありそうに見えるのがこの二人だ。実際、信頼関係があるようにはとても思えぬ。互いに何を考えているか知れたものではなかった。
 化生たちを横目に、凛は一人思案にふける。
 客観的に見れば絶望的な状況だ。
 己は未だ鎖に繋がれ石の地べたに置かれたまま。少し離れた場には、自我を奪われゆらゆらと揺れる間桐桜の姿。
 構造や内観から、歴史ある建物の地下室ということは推測がつくが、建物の正確な場所は全く解らない。
 体力と魔力の消耗は激しい。倫敦を歩きづめの上、連戦に次ぐ連戦、さらに足首の骨は未だに折れたままで激痛を伝えてくる。今すぐ倒れて気を失ってしまってもおかしくない状態だった。
 凛とセイバーを繋ぐ魔力のパスも弱体化している。
 逆に言えば、凛が囚われてから相応の時間が経過していると言うことだ。希望的観測だが、これだけの時間が経てば――
 そう考えていた時
 
『――』
「え?」
 
 ざ、と。
 断片的な声が凛の耳に届いた。いや、直接脳に響いたというべきか。
(今のって……)
 心中で呟く。
 声の中身までは聞き取れなかった。だが、空気の振動でなく、エーテルの振動で伝わってきた声なのは明白だった。つまりは魔術の一種であり、いわば「声を飛ばす」術といえるだろう。
 魔術である以上、魔力の痕跡は残ってしまう。眼前の二人組ならば、微かな魔力とても容易に感知してしまうだろう。この魔力に気付けば、何事かと警戒するのは間違いなかった。
 だが、驚くべきことに
「……して、今後の事じゃが」
「そうですね、用件が済んだら場所を移って……」
(気付いて、ない……?)
 闇男爵も臓硯も話を続けているだけだ。魔術が行使されたことには、全く気がついていないらしい。
 これは、声を飛ばしてきた魔術師は、室に建物に張り巡らされた魔術的な障壁や警戒網に引っかかることなく、さらに怪物めいた術者二人にすら感知されないレベルの術を行使し得ることを意味する。
 闇男爵や間桐臓硯の目すら掻い潜り、声を飛ばしてくる程の術者。協会の本場たる倫敦といえど、それほどの魔術師は多くなかろう。まして、凛に接触してくるようなものといえば、一人しか心当たりはない。
 彼女が接触してきたということは、おそらく――
 カツ、という杖の音が思索を破った。目を上げると、満足そうな微笑を浮かべる臓硯が映っている。
「さて、遠坂の娘よ」
「何かしら、マキリ」
 呼び捨ても意に介さず、臓硯は言葉を続ける。
「彼の書に施した防護の術、見事なものであった。孫めにお主の爪の垢を煎じて飲ませてたい程じゃ。じゃが、の」
 凛の表情を読み取り、臓硯は皺だらけの面貌を歪めてにやりと嗤う。
「お主も解っておろう、解呪は時間の問題よ。魔術師が施した呪ならば、それを解くのもまた魔術師であろうよ。中々の業であったが、儂と闇男爵の手に負えぬ程ではないわ」
 言われるまでもない、と、凛は心の中で舌を出す。
 元より即席の術である。知識と経験を持たぬ素人や三流魔術師相手ならばともかく、熟練した魔術師相手に長持ちするようなものではない。まして、相手が相手だった。今まで長持ちしているだけ見事と言える。
 全く――我ながら見事だ。
 長持ちさせた甲斐はあった。
 そう思いつつ、部屋の天井から床までに視線を這わせる。
「この部屋……というより、部屋のある建物、かなり強力な結界が施してあるわね」
「それはそうです。弱っているとはいえ、貴女は優れた魔術師だ。お友達が魔力を辿ってここまで辿り着きでもしたら面倒ですからね。もっとも、ここを見つけ出すのはそれだけで一苦労。おまけに貴女は囚われの身、どうにもならないでしょう」
「そうでもないわよ」
「この期に及んで強がりですか」
 闇男爵の冷笑に、凛は可憐に微笑み返す。
「魔術師が施した呪ならば、それを解くのもまた魔術師――そうでしょ?」
「な――に?」
 闇男爵が眉を潜め。
 遠坂凛が不敵に口元をつり上げた刹那。
 石の部屋が、揺れた。


32


 ラングホーン館は闇に沈んでいた。
 倫敦西部には豪壮な舘が多い。毒婦ローダーデイル公爵夫人の幽霊が出たことで著名なハム・ハウスをはじめ、歴史的価値を持つ建築物が山のように存在している。街そのものが史跡と言うべき倫敦にあっても際立っていると言えるだろう。その中にあって、ここラングホーン館は一年中扉を閉ざしていることで知られていた。十七世紀からこの地に建っているということ以外は一切不明。住人の在否は知られておらず、誰が館を所有しているかも未知のままだ。館の中は無論のこと、庭園にすら足を踏み入れたものはいないという噂だった。
 謎めいた歴史ゆえか、ゴシック・リヴァイヴァル式の館は陰鬱な空気を纏っており、見る者の心をどこか暗澹とさせる。館にたゆたう影は平時ならば忌避されようが、屍都と化した倫敦にはこの上なく調和していた。一帯を覆う濃霧の彼方から届く、人の悲鳴と死者の呻きすら相応しいものと思える。ずり、ずりと、何かを引きずる音を響かせながら、生ける屍者が館前の道路を通り過ぎていった。
 いや、道路だけではない。
 目を凝らせば、緑の庭園に立ち並ぶフリークスやガーゴイルといったバロック趣味の石像を背景とし蠢く姿が見えるだろう。ある者は眼球を落剥させ、またある者は臓物を腹から吊り下げ、肉汁を滴らせて庭を彷徨い歩いている。だらしなく開いた口元からは、腐液と共に呻きが漏れ続けていた。
 生ける屍者たちだ。
 広大な庭園に点在する屍者どもは、思い思いに吼え、呻き、鳴き声をあげている。爛れた口から覗く歯が、月光を受けてぬらりと光る。侵入者でもいたら、たちまちのうちに食い尽くされてしまうだろう。事実、屍者の中には四肢を食いちぎられ地面を這いずるだけの者もいる。共食いでもしたのだろうか。
 ぴくり、と。
 ふと、屍者の一体が身を震わせ、庭を囲い込む鉄柵へと目を向けた。吊られたか、周囲にいたおよそ十体も同じ方角を向く。何かを嗅ぎつけたかのように鼻をひくつかせ、揃って足を踏み出そうとした時――
 
「――Repeat(命ずる)!!」

 朗々とした叫びと共に、爆炎が屍どもを覆い尽くした。
 豪奢な庭園は、忽ちにして阿鼻叫喚の地獄と化す。屍といえど苦痛を感じるのか、耳障りな唸りと叫びを上げて、屍者たちは右往左往し、頭を抱えてかきむしり、やがて地面に倒れて燃え尽きてゆく。生ける屍者にとって炎は天敵だ。刻一刻と水分を失い干からび行く体は、僅かな火でも容易に燃え上がってしまう。
 まして、彼らを覆った炎はガス爆発にも等しい――いや、それ以上のものだった。メキドのそれを思わせる破滅的な炎。自然に、偶然に発せられる類の火炎ではない。まるで何者かに呼び出されたかのように、炎はくねり蠕き、生ける屍を喰らってゆく。
 ぎい、と。錆び付いた音を立て、鉄柵の一角、道路から庭園へと続く門が開いた。
 生き残り――いや、死に残りの屍者たちが、音と、肉の匂いにと反応して視線を向ける。
 天まで焦がせとばかりに吹き上がる炎の中、浮かび上がるのは二つの影。
 隆々たる体躯をラフな服装にに包み込んだ男がいた。擦り切れたTシャツと使い込んだジーンズという、米国通俗映画のヒーローのような恰好が不思議と似合っていた。その右手に巨大なチェーンソーをはめこみ、ショットガンを背負っている。
 今一人は、インテリめいて細くしなやかな体躯を、奇矯な礼装で飾っていた。瀟灑なシルクハットに深紅のコート。英国のお茶会にでも出かけるならともかく、場違いとしか思えぬ姿だ。だが、貴族的な面差しと優雅な気色のせいか違和感は感じられない。中世欧羅巴の貴族が顕現したかのようだった。
 べた、べた、と音を立て、四方八方から屍者が集ってくる。それらを迎えるのは、不敵な笑いと冷淡な一瞥。
「――Repeat」
「――!?」
 貴族的な男がシルクハットの鍔を持ち上げ、指を鳴らした。
 ごお、と。
 ただそれだけの仕草で、屍者たちが、庭園が炎に包まれる。火の元などどこにもあるはずがないのに、だ。
 心得のあるものなら、その僅かな仕草に膨大で濃密な魔力を感知しただろう。屍者たちは熱に声ならぬ悲鳴を上げながらも、男たちに一歩踏み出すが――
「そらよ!」
 一閃。
 チェーンソーが、機械の唸りをあげた。回転するままに振るわれた刃は、忽ちに屍者たちを薙ぎ払い胴部を寸断してゆく。チェーンソーは本来、小さな刃で連続して対象を削り取る工具であり、肉を断ち切るには全く不向きだ。だが、無骨な自動鋸は、男の手にあって名刀もかくやという切れ味を示し死にかけの亡者たちを肉の破片にと還元する。血液と肉汁とミンチが飛び散り、男の頬に返り血を印した。
「凄いもんだな、炎の魔術ってのは」
「く……何故私がこんなことを……」
 賛嘆の声も耳に入らないのか、コートの男は、魔術協会が壊滅したかのような仏頂面を崩さない。
「大体、アオザキといいご老体といい、私の周りにいる女は何故あんな魔女ばかりなんだ。無理に協会を動かし私を駆り出すなど、非常識にも程がある」
「愚痴は後回しだ。楽しもうぜ」
 チェーンソーの男は、陽気に言い放ち、背中からショットガンを取り出し放つ。六体の屍者が頭を吹き飛ばされ、倒れ、痙攣して今後こそ死んだ。その死骸を、大気から出現した炎がなめるように焼いてゆく。
 大胆不敵にショットガンを放つは、世界最強のスーパーマーケット店員、アッシュ。
 天を仰ぎ嘆きながら炎を喚ぶは、魔術協会の誇るトップエリート、コルネリウス・アルバ。
「それで、私たちは中にまで行かなくて良いのかね」
「あっちはあっちで任せてあるだろ。俺たちは一暴れすればいいだけだ」
 問い答えながら、刃と炎は止むことがない。
 闇男爵の居城の一つたるラングホーン館で、異色の二人組は鮫のように笑い、あるいは諦めたように肩をすくめ、屍者たちを殺戮し蹂躙する。
 庭園は生ける屍にとっての地獄絵図と化し。
 その余波は、館にまで届き、地下室を揺らしていた。


33


「何事か……などと問うまでもありませんね。ミス・遠坂のお友達がいらっしゃったようだ」
 揺れる地下の石室で、闇男爵が眉をひそめた。平静な声とは裏腹に、眉間の皺が不興の念を伝えてくる。。
 凛にとっては驚くべきことでもなかった。セイバーやアッシュが助けに来るであろうことは予想済みだ。セイバーとパスが繋がれている以上、彼女はいかなる手段を用いても凛を追ってくるだろうからだ。その点において、凛はセイバーを絶対的に信頼していた。聖杯戦争での衛宮士郎もそうだったのだろう。
 問題はそのための手段だった。魔術協会の協力を仰げば、パスと魔力の流れを用いて凛の居場所を特定することは可能だろう。だが、あの協会が易々と手を貸すとはとても思えない。加えて、倫敦は阿鼻叫喚の有様である。協会と接触することすら困難であろう。
 協会に成り代わりそれを可能とし、なおかつセイバーたちに手を貸してくれる人物などいる筈がない。
 先ほど凛の脳に響いた声の主、謎めいた麗人にして、魔法使いにも匹敵するとされる魔女、ワルプルギスの御老体ただ一人を除いては。
「念のためお尋ねしますが、お仲間と連絡を取られましたか?」
 僅かな苛立ちを滲ませ、闇男爵が問いかける。
「はいそうです、って素直に答える義務は無いわね」
「方法は幾らでもあるでしょう。電波を発信しているのかもしれない、使い魔を飛ばしてもいい、電話という手だってある」
「そんな便利な道具も使い魔は持っていないし、電話なんて出来るわけがないじゃない。妙案があったら教えて欲しい位よ」
 嘘はついていない。凛から連絡を取る術は確かになかった。
 その答えに、闇男爵が頷く。
「仰る通りです。貴女が何かしたなら、この僕が気付かないはずがない。事前に策を弄する時間も無かったでしょう。となると、僕たちの結界があってなお貴女の魔力を辿り得たというところですが……それほどの魔術師がそうそういますかね」
「協会めが動きおったのやもしれぬ」
「彼らのことです、倫敦の騒ぎに対処するのに汲々としてそれどころではないと思いますがね」
「何事であれ、不測の事態は起きるものじゃて」
「全くです。ミス・遠坂といい、<新宿>の彼らといい、予想外のことをしでかしてくれて困りますよ」
「何にせよ、此処に長居は得策ではなかろうな」
「ええ、翁は一足先に退いてください。ここは僕にお任せを」
「ふむ。では言葉に甘えるとしようか。後は頼みましたぞ」
 あっさりと答え、臓硯は闇男爵に背を向けて出口であろう扉へと向う。淡々とした、事務的ですらあるやり取りが、この二人の関係を明瞭に示していた。
「行くぞ、桜」
「……」
 臓硯の言葉に桜は声無く頷き、足取りもふらふらと追随してゆく。体は揺れ、眼には光が無く、まるで夢遊病患者だ。その有様に、凛の奥歯がぎりと鳴った。
「――さて、ミス・遠坂」
 ばたりと扉が閉まり、翁と孫娘の姿が消えてから、闇男爵は凛に声かける。
「何かしら、ミスター・呪紋」
「残念なお知らせがあります」
 闇男爵がぱちりと指を鳴らした。
 鋭い音が石壁と石畳に跳ね返って室を満たし、凛の鼓膜を刺激する。わんわんと鳴り響く反響音が、徐々に消え去る中――
 ぞわり。
 石畳が盛り上がり、畳数畳分はあろうかという粘液質の獣が這いずり出でる。
 黒々としたおぞましい液体を滴らせ、巨体は一瞬たりとも同じ形をとることなく不定形に蠢き続ける、いわば漆黒の巨大なスライム。
 Sマートで凛とアッシュを襲った怪物、ショゴスである。
「ショゴス――ね」
 平静を装っても、声の嫌悪は隠せない。一瞥しただけで生理的嫌悪感を呼び覚ます姿からも、耳障りな音をたて撒き散らされる体液も、酸性に近い言い表しがたい匂いも、ショゴスが人と相容れぬ怪物ということを教えてくれる。
 不快そうな凛を余所に、闇男爵は肩をすくめて首を振った。
「貴女は矢張り厄介な方です。幸い、“死者の書”の仕掛けをどうにかする目処はつきました。月並みで申し訳ないのですが――」
 闇男爵がさっと手を振った。
「ここで消えていただきます」
 手の動きに呼応して、ショゴスは振り絞るような唸りを上げ、行動を開始した。
 ずるり。
 ずるりずるり。
 粘液を滴らせながら凛へと方向転換するショゴス。不定形の体は一瞬たりとも同じ形状をとろうとしない。
 糸を引きながら生成され、次の瞬間には崩れる眼玉がじろりと凛を睨む。
 ぱかあ、と。
 黒々とした顎を大きく開き、凛を飲み込もうとして――

「――そこまでだ」

 石壁越しの閃光に、両断された。
「何っ!?」
 ショゴスの苦痛の叫びと、闇男爵の驚愕の声が重なり響いた。泥水のような液体をほとばしらせつつ、身をよじるショゴス。巨体は悶える度に、体のどこかが石壁を、あるいは天井を打ち叩き岩の破片をまき散らす。強酸性なのか、天井に、壁に床に飛び散った飛沫が白煙を上げて石を焼いていた。
「こっちもよ!」
 凛の叫びに呼応して、再び閃光が走る。凛の四肢を拘束していた鎖が断ち切られ、ただの鉄の塊となって床に落ちた。苦悶するショゴスに気を取られていたか、闇男爵の反応が一瞬遅れる。
「しまっ……」
「遅いわ!!」
 折れたままの右足をかばいながら、凛は身を跳ね起こし、姿勢を低くしたまま掌を突き出した。一際硬い掌の下部が、闇男爵の無防備な腹部を襲う。
 拳法で言う所の掌底、それも見事な腕前だ。中国拳法の達人であった神父、言峰綺礼直伝の技だ。負傷し消耗している少女が放ったとは思えないほど、力と速さの乗った一撃であった。
「ぬうっ……!」
 体をくの字に曲げ、闇男爵が唸った。後方に吹き飛ぶようなことが無かったのは、流石といえよう。
「……!」
 ざ、と凛が距離をとる。大したダメージにもなっていないことは、手応えから解っていた。凛の体調が最悪に近いこともあるが、闇男爵は体の鍛え方も相当なものらしい。
 察するに、凛の一撃が優れていたとしても、闇男爵さえその気なら反撃は容易だったはずである。
 だが、彼はそうしなかった。
 出来る筈が無かった。
 なぜなら。
 闇男爵の首筋には、不可視の切っ先が突きつけられていたのだから。
「矢張り――来ましたか」
「無論のこと。主を護る剣となり盾となることこそ、我が務め」
 洋燈の薄明かりの下、鈴を振るように美しく凛然とした声が響く。
 金の髪。
 白銀の鎧。
 王の証たる剣。
「遠坂凛の使い魔、セイバー。マスターの危機を救うべく参上した」


 ――剣の英霊、推参。






⇒ to be continued in Chapter - 15

投稿者: 日時: 2007年07月22日 16:21 Web拍手

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