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急な話ですが、ツンデレとは弁証法的概念では無いかと思うのですがいかがなものでしょう。
「正」であるツンと、「反」であるデレが止揚されることによって、特定の対象に対しての特別な存在に化すという「含」に落ち着く。こう考えると、ツンデレヒロイが多くの場合強い依存性を持つことを良く理解できます。
即ち、神のような超越者を否定せざるを得ない弁証法的世界においては、ヒロインが依拠すべき内在論理は必然的に欠如し、結果として彼女は特定の対象(多くの場合、ヒロインに対する主人公)に依存することとなるのです。
そう、かのガンパレードマーチにおいて芝村舞(言うまでもなくツンデレです)がヒーローであったのはこのためなのです。舞は、「芝村」という強力な内在的価値体系を有するが故にヒロインではなくヒーローにならざるを得なかったのでしょう。
なお、ツンデレとは美的要素を含むが故にキュルケゴール的な質的弁証法で扱うべきではないかという疑義も呈されましょうが、「ツンデレの場合は最初から相手への関心が強く、その気持ちの方向性がプラス(デレ)かマイナス(ツン)かの違いであるというだけで、相手に向ける気持ちの量は最初から最後まで一定である」との指摘があるように、ツンとデレの相違はあくまでベクトル的なものであり、質的なものではありません。問題となるのはベクトルの方向と量の多寡であり、あくまで量的弁証法の上において論じられるべきであると言えます。
同時に、ツンデレとは純粋な観念ではなく、あくまで現実の交流の場において展開される感情の表出です。この点において、ツンデレは、ヘーゲルの議論をふまえてマルクスが展開した思想により近い距離にあると言えましょう。
すなわちツンデレとは、ソ連崩壊によって共産主義と共に葬られたマルクス・エンゲルス的唯物弁証法が復権した姿なのです。哲学議論を実践に持ち込んだ実例として思想史上からも高く評価されるべきでありましょう。2006年度に見られた局地的ツンデレブームは、我が国においてポストモダニズムの沈黙以来長きに渡った日常的アカデミズムを蘇らせようという知的挑戦の表れであり、その系譜を絶やしてはなりません。反知性の時代である21世紀において、ツンデレは強固な知性の砦として聳えることになりましょう。
以上、何書いているのか解らないと思いますが私にもさっぱり解りませんでした。
まあ書いていて楽しいからいいや。
<関連リンク>
・『ツンデレ大全 完全保存版』(ツンデレ総合本)
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「移行型(時間の経過により変化)」と「内在型(状況により変化)」に分類していた方も見かけました
投稿者 流れ者 | 2007年02月11日 20:43