連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第十一話

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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-11
彼方より ~ From Beyond
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18


「ご挨拶ね。はいそうですか、って渡すと思う?」
「思いませんね」
 言葉遣いを切り替え腕を組む凛に、闇男爵が微笑みかけた。
 美しい笑みだった。
 とろけるよう、とはこのことだろう。こちらまでつり込まれて笑顔になってしまいそうだ。もっとも、人好きするそれの下には底なしの闇が潜んでいると凛は十分承知している。
 闇男爵を睨み付けるアッシュを手で制した。今は、出方を見なければならない。
「勿論、何の見返りもなしに譲って欲しいなどとは言いませんよ。相応の代価はお支払いさせていただきます」
「代価って、お金や宝石でどうにかなるとも思えないけど。高位(ハイ・クラス)の魔導書で物々交換でもする?」
「お望みならば。『エルトダウン・シャーズ』、『黄の王』、『屍食教典儀』、他にも各種取り揃えております。さすがに『アル・アジフ』とはいきませんが、『惨之七秘聖典』クラスまでならご都合しますよ」
「ふうん、大したものね」
 気のない答えを返しながらも、凛は半ば呆れ、半ば感心していた。闇男爵が名を挙げたのはしたのは、現存する中でも飛び抜けて危険な魔導書ばかりだ。協会で封印されているか、大英博物館やミスカトニック大学、それにヴァチカンのZコレクションあたりで厳重に管理されているのが相応しい。ワルプスギルの御老体にでも頼めばともかく、凛ですら手に入れるのは難しい。そのような代物を言葉通りにさらりと差し出してきそうなところに、この男の怖さがある。
「それにしても妙ね。そこまでの魔導書を揃えられるなら、わざわざ“死者の書”を探す理由が無いわ。『アル・アジフ』にしても、アラビア語版以外ならどうにでもなるんじゃないかしら?」
「出来るならとっくにそうしていますよ」
 僅かに苦笑する闇男爵。もっとも、手間をかけて“死者の書”を求める理由を推測するのは然程難事ではない。
 魔導書には異動が多い。アラビア語版の『アル・アジフ』とギリシャ語版の『死霊秘法(ネクロノミコン)』ですら、記された内容や呪文にはかなりの相違があるとされる。中国語版である『妙法蟲聲經義疏』に至ってはほとんど別物との話だ。“死者の書”ほどの稀少書(レア・ブック)となれば、其処でしか手に入らぬ情報は少なくないだろう。
 き、と。苦笑を浮かべた顔を正面から見据える。
「……そっか、“死者の書”は手段というわけ。目的は――別にあるのね?」
 疑問ではなく、確認だった。闇男爵は鷹揚に手を広げる。
「無論――そのために、僕は舞い戻ったのですから」
「目的とやらを聞いてみたいもんだな」
「それは困ります」
 横から口を出したアッシュに顔をしかめる。そこに凛が口を挟んだ。
「譲るなら、相応の代価は払ってくれるんでしょ。譲らないにしても、少しくらいサービスしても罰は当たらないわ」
 少し考え、ややあって
「いいでしょう。あなたたちに知られても別に困ることはない」
 闇男爵が頷いた。
 困ることはない、という言葉が何故かひっかかったが、頭の隅に押しやっておく。気にかかることは後で考えればいい。
「固有結界はご存じでしょうね」
「何だそりゃ?」
 アッシュがまた問うた。そういえばこの男に魔術の知識は無いのだな、と、今更のように思いだす。
「詳しいことは後で説明するわ……使用者の心象世界を実体化し、現実の世界にも影響を及ぼす術ね。"魔法に最も近い魔術"、一般的には禁呪とされてるわ。私たち魔術師にとっては一つの到達点かしら」
「適切な答えですね」
 教師のように闇男爵が頷く。
「では固有結界の本質的な機能とは何だと思います?」
「何だか良く解らないが……要するにもう一つの世界を作り出す、ってことじゃないのか」
「ほう? ミスター・アッシュは意外に理解が早い。その通り。固有結界とはいわば、『現実の世界に影響を及ぼすもう一つの世界』です。少なくとも、僕はそこに固有結界の意味を見出している。実際に便利なものですよ。一時的にせよ、世界の制約から逃れることが出来るのですから」
 闇男爵が唇を舌で濡らす。蛍光灯を反射したそれが、ぬめりと怪しく光った。
「ただ――残念ながら、固有結界は人が扱える術ではない。万が一扱えても、長時間維持することは不可能だ。それは、僕にしても例外ではありません。ゆえに、今一つの世界を恒久的に構築する手段としては不適当といえる」
 なるほど――
 凛は内心で頷く。
 話の筋道が見えてきた。行く先を見据え、言葉を紡ぐ。
「……ええ、固有結界で大きな土地――例えば街とかね――を包むことはほとんど不可能よ。ただ、固有結界にこだわらなければ、ある都市の中にもう一つの世界を構築するのは、不可能ではなく」
 極めて困難ね、と凛は言った。
 不可能と困難は違う。自明の理である。
 だが、人は往々にしてその理を忘れてしまうものだ。虚をつく発想とはとどのつまり、不可能を困難に転化する思考に他ならぬ。
「流石に話が早い。仰るとおり、その『困難』を実現した例は絶無ではない。ラクーンシティ、セイラムズ・ロット。そして、死徒ヴァルカン・コンラッドによるロスアンジェルスの封鎖。固有結界に頼らずとも、都市の中に異世界を構築することは可能なのです」
「つまり、あなたの目的は――」
 闇男爵はマントを翻した。
 黒衣の男は朗々と宣告する。
「そう、衰退した<魔都>倫敦を再生する――否、魔と妖異と混乱と混沌に満ちた真の<魔都>として造り替えることに他なりません。<新宿>すら及びも付かないほどの、ね。そのために“死者の書”が必要なのですよ」
「……あのゾンビは、その下準備ってわけ」
 凛はとびきり渋い顔で応じた。この調子では、歩く屍骸は倫敦中に発生しているのかもしれない。
 闇男爵の話は筋が通っている。忌々しい企てではあるが、破綻をきたしてはいない。
 だがそれでも――疑問は残る。
 倫敦を<魔都>へと変容させる行為そのものは、手段であって最終目的ではあるまい。
「大筋は理解出来たわ。それで――<魔都>で何をするつもりなの」
 さらに切り込むと、闇男爵は口元を歪めた。
「流石にそこまではお教え出来ませんよ。ただ、準備が整っていない、とだけは言っておきましょう」
 準備。
 何の準備なのか想像しただけで気が滅入る。まあ、世界に平和をもたらすための支度ではないことだけは間違いないだろう。
 確信出来たのはただ一つ。
 闇男爵に“死者の書”を渡してはならない。
 何としても。
「何がどうなってるのか知らないけどよ――」
 ずいとアッシュが進み出る。手にはチェーンソー、背にはレミントン。
「取りあえず、こいつを放っておいたらまずいということだけは理解出来たぜ」
「確かにね。闇男爵(ダーク・バロン)さん、悪いけどお望みの本は渡せないわ」
 そう言いながらも、凛の頭脳は今後の方針を定めるべくぶんぶんと音を立てて回転している。
 率直に言って、正面からやり合いたくはない。万が一に備えて“死者の書”にちょっとした仕掛けを施しておいてはあるが、万全の備えには程遠い。
 第一、セイバーがいるならば兎も角、自分とアッシュでは万に一の勝ちも拾えない相手だ。おまけに状況が転変しすぎている。出来ることなら、協会にでも退いて情報を整理したかった。
 せめてもの救いは、闇男爵がこちらを侮っているであろうことだ。油断につけ込んで、何らかの突破口を作るしかない。
「困りましたね。力任せは紳士には相応しくない」
 ぼやきを余所に、凛とアッシュが一歩を踏み出そうとした時――
 おや、と。黒衣の青年が目を細めた。
「少々話し込みすぎたようです。もう、届け物が来てしまった」
「届け物――ですって?」
 こんな時に、こんな場所に、何が届くというのか。
「ええ。せっかくですし、あなたがたにもお見せしましょう。今目にしようと、後で見ようと同じことです」
 また気にかかる言い回しだ。
 何も彼も見透かした、凛たちがこの後どう動くか全て知っているような表現。この男は、一体――
 その時。
 凛の鼻先を、白い靄がふわりと漂った。
「……霧?」
「いや、違うぜ。こいつは……」
 何処からか霧が流れ込んできていた。
 否。
 ただの霧ではない。凛とアッシュの眼は、それが奇怪な形状をしていることをとらえている。
 霧は気体である。故に、それは本来浮遊し拡散し一つどころに留まらない。だが、凛が視界に捉えている霧は、一定の形状を象っている。
 白い靄は、六つの瞳が見守る中、凛から数歩の距離に集合し密集し、より明瞭な姿を形作る。
 それは。
 脚であり。
 腰であり。
 胴であり。
 頭だった。
 見る間に、霧は黒装束とマントに身を包んだ一人の美青年に姿を変えてゆく。眉目秀麗、貴族的なその面立ちは見覚えがある――というよりも、今、ここに在る青年と全く同一だ。
 違いといえば、ただ一つ。
 その腕に抱かれた、凛とさして歳も変わらぬであろう少女の存在だけだった。


19


「――嘘」
 腕に抱きかかえられた少女の姿に、凛が息を呑んだ。
 長く伸ばされた青い髪。服の上からでもはっきりと解る柔らかな膨らみ。垂れ下がり気味の瞳は閉じられ、身体はぐったりとなったままだ。
「桜っ!?」
 叫んだ。
 見間違えるはずもない。
 目と鼻ほどの距離に、冬木で平穏に暮らしているはずの少女、間桐桜がいる。
 思わず伸ばした手は、すか、と空をきった。
 手応えはなく、空気だけが虚しく流れる。
 風圧で、もう一人の闇男爵と桜の姿がぼやけて崩れた。
「落ち着かれたらどうです。その“僕”は、姿形を遠隔投影しているだけですよ。まあ、ホログラフのようなものですね」
 抱きかかえられた桜に視線を移す。
 ゆらゆらと揺らめいていた其の姿は、常態に復しようとしていた。
 ――幻像か。
 実態が今、此処に在るわけではないのだ。
 ならば「届け物」とはいっても、桜は倫敦から隔たった地に居るのだろう。今のところは、まだ。
 だが。
 実存であろうと幻像であろうと、そんなことはどうでも良い。
 問題なのは、何故、桜が闇男爵に――正確には、闇男爵の幻像に連れられているのか、だ。
 凛の心を見透かしたかのように、美しい青年は答える。
「見ての通り、拐かさせて貰いました」
「……ふうん」
 自分の声が冷たくなるのが解る。
 瞳が細まり、鋭い輝きを帯びる。
 思考はこの上なく澄明だ。
 冷静にならねばならない。こんな場合は、特に。
 アッシュが舌を打った。言わずとも状況を察したのだろう、顔付きが引き締まっている。こういう時、勘の良い仲間は頼りになる。
「ご安心を。傷一つつけていませんよ――多少手間取ったせいで、衛宮士郎くん他には、少々痛い目を見ていただきましたが」
「衛宮くんも――ですって?」
 どくん。
 思いも寄らぬ名に、凛の鼓動が跳ね上がる。
 士郎は凛に頼まれ、魔界都市<新宿>に行っていたはずだ。其処で何が起こったのか、士郎は害され、桜がさらわれている。
 桜も――<新宿>に居たのか。
 あの魔界都市に、何のために桜が。士郎の現況はどうなっているのか。
 凛の髪が吹き乱れ、服の裾が舞った。吹き込む風の所為か、思考がまとまらぬ。

 ――情けない。

 相方の名が出ただけで、落ち着いたはずの精神(こころ)がざわつく。自分はこんなに弱かったかと、凛は少し憮然とした。
 ぐいと腹の底に力を入れる。
 思考を切り替える。
 明滅する、心臓と刃のイメージ。
 考えるべきことを考えろ。
 為すべきことに意を集中しろ。
 あれこれと憶測するのは――後でいい。
「で――」
 すう、と。冷めた目を闇男爵に向ける。
「桜をさらった。士郎を傷付けた。それを私に教えて、どうするつもり」
「さて、どうしたものでしょう――」
 闇男爵が手を一降りすると、幻影は霞のように消えた。
 幻のように――と言いたいところだが、幻影に対してその表現は適切ではあるまいと、無益な思考が頭をよぎる。
「ああ、そうだ」
 闇男爵が手を打つ。
「間桐桜嬢を返して欲しかったら、“死者の書”を渡せ――というのはいかがでしょう」
「――それ、真面目に言ってる?」
「僕はいつでも大真面目ですよ」
 とぼけたことを。
 明らかに三下の台詞ではないか。闇男爵を名乗る魔術師の言葉ではない。
 もしかするとからかわれているのか。
 ――違うか。
 闇男爵は大真面目だし、からかってもいない。
 ただ、弄んでいるだけだ。
 猫は鼠をいきなり狩ったりはしない。狩りの喜びを味わおうと、追いつめていたぶると相場が決まっている。闇男爵もまた、この状況を楽しんでいるのだ。己の繰り出す手に応じて凛とアッシュが惑うのが、愉快で仕方ないのだろう。
 要するに。
 反吐の出る――邪悪な輩なのである。
「冗談でしょ。大事な後輩と友達を傷つけられて黙っていられるほどお人好しじゃないわ」
「同感だ。取りあえずな」
 アッシュが不機嫌な声で言葉を続ける。
 正義の味方でも英雄でもない、けれども頼りになる男が闇男爵に憤っているのは、傍目から見ても良く解った。
「お前が胸糞悪い悪人だってのだけは、良く解った」
「交渉決裂ですか」
 右手を伸ばす。
「桜のこと、士郎のこと、聞かせて貰うわよ」
 凛が言うと、闇男爵は不思議そうに見返してきた。
「聞かせて貰う? どうやってです?」
「どうやってって、あなた――」
 絶句する凛に、男は嗚呼、と頷く。
「成程。僕を力任せでどうにかするつもりだったのですね。ですが――」
 闇男爵は口元を歪めた。笑いだった。
「あなたがたは、大きな勘違いをしています」
 笑みが一層大きくなる。
 その笑いは。
 優雅で人好きすらした微笑みではない。
 憐憫に満ちた失笑でもない。
 嘲笑――である。
「僕がわざわざ、あなたたちの相手をするとでも思いますか?」
 刹那。
 大地が跳ね回り。
 Sマートが、大きく揺れた。


20


 足元に揺れを捉えた刹那、凛とアッシュは示し合わせたように飛んでいた。
 凛は右に、アッシュは左に。
 慣性の法則に従い倒れ込む二人。その中央で、床が下から突き上げられ粉々に割れた。
 膝を突いて身を起こした凛の目に、異形の存在が飛び込んでくる。
 一筋の黒い塊だった。
 墨塗りのように黒く巨大な一本の触手が、床を突き破っている。ぐねぐねとしたそれは、作りたてのゼリーのように揺れていた。
「Shit!!」
 転がり起きあがるアッシュの手元から火線が迸った。
 狙いは正確無比。
 レミントンの散弾が触手の先端を弾き飛ばす。
 触手が床下へと引っ込んだ。
 目にもとまらぬ速さだった。
 つん、と。ビニールを燃やしたかのような嫌な匂いが、凛とアッシュの鼻を刺激する。
「なんだ、今のは――」
 アッシュが不機嫌に言う。黒衣の男は何処吹く風といった様子で壁にもたれていた。そうしているだけで実に優雅だ。そこがまた忌々しい。
 床に開いた穴に目を転ずる。さ、と、黒い塊が走った。
「何か聞こえるわ」
 凛は目を細め、耳を澄ます。
 塊が動くにつれて、物音が聞こえていたからだ。

 ……り

 音か。
 轟か
 否。
 声だ。
 鳴き声に近い。
 口笛に似ていた。
 歌声のようでもあった。

 ……けり・り

 聞き覚えのない音だ。
 心地良いものではない。ノイズに近い。
 嫌な予感に襲われ、凛は耳を鋭く澄ます。
 何か言いたげなアッシュを制した時、今度こそ、楽音がはっきりと聞こえた。

 てけり・り!
 てけり・り!

「嘘っ……」
 凛は愕然と呻いた。
 外れた音階。
 不調和な拍子。
 声の主を認識した――してしまった。
 血の気が引く。肌が粟立ち、全身の毛が逆立つ。
 信じてもいない神に、呪いの言葉を投げつけたくなる。
「今のは何なんだよ、リン」
「……ショゴスよ」
 悠長なアッシュの声に、早口で答える。
「何だそりゃ?」
 今度は答えずに眉間に皺を寄せた。
 ――ショゴス。
 人類誕生以前に「古のもの」と呼ばれる種族によって生み出された粘液状の生命体である。極めて高い可塑性と粘性を持ち、必要に応じて自由に器官を作り出すことが出来る。サイズや形状は様々だが、列車の車両大のスライムという姿が一般的だ。
 可塑性、戦闘能力、そしてに何より生存能力に優れ、ミスカトニック大学の研究によれば、米軍一個大隊を持ってショゴス一体を倒せるかどうかだという。高位の魔術師によって使役されることもままあるが、あくまで例外的だ。ワルプルギスの御老体や、ガレーン・ヌーレンブルク、それに宝石翁クラスならばいざ知らず、並の魔術師が――いや、人間の域を出ない魔術師が手を出せる相手ではなかった。
 南極の山岳や南米のジャングルで僅かな目撃例されたことがあるものの、幸いにしてそのほとんどは人の手が届かぬ地下に封印されているはずだ。倫敦のような大都会に存在するはずがない。
 ないのだ。
 だが……
「異界化ね……」
 腐っても<魔都>倫敦ということか。
 闇男爵の言葉を想起し、唇を噛んでその顔を睨み付ける。華やかな笑みを返してくるのが何とも憎たらしい。
 最早疑う余地がなかった。
 ショゴスまで動員されているのだ。倫敦の異界化は着々と進み、刻一刻とゾンビが増えていると考えるべきだろう。
 まさに――「逃げ場なし」である。
 逃げ場なしといえども、今この時に選ぶべき手は一つしかなかった。
「前言撤回。逃げるわよ」
「待てよリン――」
 即断した。反論しようとするアッシュを一瞥する。
「聞いて。ショゴス相手じゃ手の打ちようがないわ。あれは最悪の兵器よ。慈悲も無い、感情も無い、ただ全てを壊し喰らうだけの、正真正銘の化物。ある意味、そこの男よりタチが悪いわ」
「でもな、さっきの子――知り合いなんだろ。心配じゃないのかよ」
 ぎり、と歯を噛む。
 心配かそうでないかで言えば
「――心配に決まってるでしょ」
 当然だ。
 鋭く言い放つと、ぷいと横を向く。言い争っている時間はない。
「悪い、馬鹿なこと聞いたな」
「いいわよ。それより――」
「……どうやって、逃げるか、だな」
「そこが問題なのよね」
 地上に闇男爵、地下にショゴス。
 前門の虎、後門の狼。
 虎は闇男爵で、狼はショゴスだ。首尾良く逃げ果せてもそこは死者に溢れた<魔都>である可能性が高い。
 八方塞がりと言えた。だからといって諦めるわけにもいかぬ。
「とにかく、ショゴスが出てくる前に――」
 言葉を最後まで口にすることは出来なかった。
 今一度、Sマートが大きく跳ねたからだ。
 大型トラック数台がまとめて激突してきたかのようだった。
 転倒はしなかったものの、バランスを崩され足を捻ってしまう。丁度痛めていた箇所だ。神経が焼かれるように痛む。
 床に、壁に、大震災でも起きたかのようにひびが走ってゆく。
「……っ……来たわね」
「来ちまったな」
「来ましたか」
 揃って似たような言葉を口にする。
 床が鳴動し、一面がひび割れ。
 忌まわしき粘液は、地上に姿を現した。


21


 それは、悪夢そのものの顕現だった。
 第一印象は真っ黒なアメーバそのものだ。歪んだ楕円に近い形状を保ってはいるものの、不定形に近い。一目で粘液質とわかる身体からは、石油のような液体がぐずぐずと垂れては直ぐに吸収されていた。
 粘液の表面は泡立ち、付属肢や触手が形成と崩壊を繰り返している。仮足があちらこちらで一刻の間もおかずに無数に形成されていた。一つは長く伸び、一つは無数に枝分かれ、そしてまた一つは剣山のように尖る。パターンを見出すのは困難だ。
 アメーバとの違いは、そのサイズだろう。1mmにも満たない単細胞生物からは程遠い。ショゴスの身体はべったりと広がり、Sマートの床を、棚を包み込んで占拠している。電車の一車両程はあろう。もしかするともっと大きいかも知れない。
 何より、大きく開かれた口と眼球状の器官!
 口腔内では粘度の高いタール状の液体が絶え間なく垂れ落ちており、舌らしき器官がうぞろうぞろと蠢いている。
 上に下に右に左にと絶え間なく動く瞳に明らかな知性を認め、凛は背中がぞっとするのを感じた。てけりり、てけりりと、絶え間なく流れる忌まわしい鳴き声を耳にするだけで、脳髄が揺さぶられる気がする
「……っ」
「こいつは……」
 戦慄に近い呟きが漏れた。
 これは――ショゴスは異質であり、律外の生き物だ。
 肉体的にはこの上なく強大だが、それはさして問題ではない。
 問題なのは、存在そのものだった。
 人は、あまりに異質な存在に接したとき、共通の反応を示す。
 特殊な訓練を経ていない場合、恐怖の源泉たる其れを否定するのが普通だ。見なかったことにする、という反応がその典型例だろう。
 では、無視することも出来ぬ恐怖に直面したとき、人はどうするか?
 立ち竦むのだ。
 足がすくむ、というのは比喩的な表現ではない。事実、アッシュですら目を見張って棒立ちになっていた。
 一方、凛は魔術師である。それも優秀な魔術師である。
 幼少の頃より異質な存在に対する訓練を積んでいる。そもそも、住んでいる世間が常人のそれとは違う。だから、膝が震えるなどということはない。思考停止することもない。異界の生物程度で怯えていては魔術師は務まらぬ。
 務まらぬのだが――
「これはちょっと……厄介ね」
 神経を走るおののきだけはいかんともしがたかった。
 人間としての根源的な反応を制御することまでは出来ないのだ。
 ちら、と闇男爵を視界の隅にとらえる。
 顔色一つ変えず、身じろぎもしない。恐怖はおろか、戦きの一つも感じていないようだ。
 一般論だが、ショゴスのような強大な怪物を使役した場合、使役者も影響を免れ得ない。未熟な魔術師が破滅する理由の大半は、分不相応な召喚によるものだ。使役者、召喚者が人である限り、完全な狂人でも無い限り恐怖を避けることは出来ぬ。異界の神を呼び出そうとして破滅した魔術師やオカルトかぶれは枚挙に暇がない。
 だが、闇男爵は欠伸でもしそうな呑気な様子である。
 つまり、あれは

 ――人では、ないのか

 そうなのだろう。
 外れてしまったのか、元々人ではないのか、人を超えたのかは解らない。人の枠を踏み越えてしまっている、という点だけが問題だった。
 闇男爵の楽しげな声が聞こえてくる。
「僕のペットはいかがです? 南極からの直送です。聞き分けも良いし、可愛い子ですよ。ただ、困った点が一つありまして――」
 言葉を切った。
 芝居がかった仕草でこめかみを押え。
「大食漢なのです。餌は見逃さないようでして」
 声音と裏腹に、言っている内容は物騒な限りだ。
 言葉を裏付けるかのように、ショゴスの背中――らしき部位から一本の触手がずぶりと伸びた。先端が槍のようになったそれは、高々と上空へ伸びて鎌首をもたげる。
 ぴちょ……ん。
 黒い液体が一滴垂れ。
 雫が地に墜ちて砕けた時。
 漸く――凛とアッシュの呪縛が解けた。目と目をかわし、小声で素早く話しかける。
「二手に分かれるわ」
「おいおい、本気かよ?」
「本気も本気よ。どっちを追うか迷ってくれれば好都合ね」
「とんでもないことになってきたな。倫敦(こっち)に来てからろくなことがないぜ」
 アッシュが天を仰いだ。
「ぼやかないの。貴方のアパートで合流。いいわね」
「アーサー……じゃない、セイバーもいるだろうしな」
「じゃ……行くわよ!」
「後でな!」
 声をかけあい、左右に別れ飛び退った。
 次の瞬間、黒い槍が床に突き刺ささる。
 砕け散ったコンクリートの欠片が、煙をあげて腐食した。
 凛は軽やかに着地し、姿勢を立て直す。
 ショットガンを左手に、チェーンソーを右手に、アッシュが裏口へと走り始めるのを確認した。ここからは、一身にのみ精神を集中させねば。
 ずるりと槍が引き抜かれ、ショゴスの全身がぐにゃりと蠢いた。目算通り、凛とアッシュのどちらを追うかで動きが鈍化している。
 その隙に、凛の鋭敏な視覚は逃走経路を走査していた。
 ショゴスを正面突破するのは論外だ。スライム状の身体に飲み込まれ、消化されてしまうのが落ちだろう。
 かといって、裏口にまわるには距離がありすぎる。そもそもアッシュと同じ方面に向かったのでは、分割行動を選んだ意味がない。
 有効であろう経路は一点。
 問題はある。闇男爵の近くを通り過ぎるというリスクを背負わねばならない。だが――やってみる価値はある。

 ――Set

 右手に魔力を。
 両脚に力を溜める。
 アドレナリンの過剰分泌に身を委ねる。
 ぐ、と。
 足裏で強く大地を踏みしめて

 ――Dash!!

 だん!
 地を蹴った。
 ロケットで突き抜けろとばかりに、しなやかな身体が飛び出す。
 陳列棚が、破片が散乱した床や壁が、見る見る間に後方に消えてゆく。
 一直線に、元凶たる男に向かい走る。
 闇男爵が眉を上げ、口を開いた。
 良い度胸です――と言っているようだった。
 闇男爵が右手を突き出した。掌に漆黒の輝きが点り、魔力が集積する。
 一秒とかからず、不定形の輝きは定形の槍と化す。
 “闇槍”――かつて魔界医師を仕留め、<新宿>においては衛宮士郎と間桐慎二を散々に傷付けた、闇男爵得意の武器である。
 威力は折り紙付きだ。加減していないとすれば、少女一人など安々と貫いてしまうだろう。
 だが。
 凛もまた、一端の魔術師である。むざむざやられるつもりはない。
 左腕に刻まれた印が胎動する。織り成された魔術回路に火を入れる。
 ――刻印、起動。
 ――魔力式、構築。
 ――術式、解放。

Es last frei(解放). Eilesalve(一斉射撃!)!」
 叫んだ。
 物理的質量、物理的破壊力を兼ね備えた、20を越すガンドが顕現する。
 何もない、右手の空間に向かって。
「――ほう!?」
 凛の身体が、左方へと飛んだ。
 直線方向のベクトルに、作用反作用の法則に従って左方向のベクトルが加わったためだ。無理矢理もいいところの方向転換だった。
 闇槍が右肩すれすれをかすめた。赤い衣服が弾け飛び、なお紅い鮮血が宙に散る。
 地に足がつく。
 転げそうになるぎりぎりでたたらを踏み、ぐらついた姿勢を立て直す。
 脳内麻薬が分泌されているのか、肩に痛みは感じない。
 それでも、無理な動きのせいで、身体が重い。筋肉と骨格が悲鳴を上げているが、構ってはいられない。お風呂とベッドで肉体を休めるのはもう少し先だ。
 想定外であったろう動きに、闇男爵は虚をつかれていた。数秒に満たない、間隙。凛にとっては、それで十分である。
 今だ。
 この隙に、このまま跳躍してシャッターに穿たれたままの穴に飛び込む。さすればそこは、倫敦だ。
 狙い定めて、跳ばんと踝に力を入れた、その時――

 かくん。

「あ――れ?」
 ぐきり、と鈍い音がし、膝が落ちた。
 同時に襲い来る、神経が焼かれる感覚。
 鈍器で強打されたかのような感触に、頭がふらつく。
 足頸が痛む。手を当てると、火の中に手を突っ込んだような熱さだった。
 治癒魔術で騙し騙し保たせてきた足首が限界を迎えたのだ。強化の魔術を全身の骨格と筋肉に施せばまだどうにかなろうが――そんな時間的余裕があるはずもない。
 がくり。
 身体は重力に従って片膝付きの姿勢になる。
 まずい。
 次善の手を練らねば。
 激痛に苛まれながらも、あくまで明晰な頭脳が回転を始める。
 鍛えられた脳髄と身体が次の行動を導き出す前に。
 ずい。
 ずずい。
 巨大な影が凛を覆った。
 ショゴスが居た。
 ゲル状の身体から、粘液が一滴垂れて降りかかる。じゅう、と服が焼ける音。皮膚を侵食する痛みに凛は顔を顰めた。
「……参ったわね、本当」
 ぼやく少女を前に。
 がぱり、と。
 ショゴスは巨大な顎を開いた。




⇒ to be continued in Chapter - 12 "Nightmare"

投稿者: 日時: 2006年10月01日 16:42 Web拍手

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