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ぼた、ぼたと。床に液体が垂れる音がしていた。
薄暗い明かりの中でも、赤々としたその光沢が目に鮮やかだ。
闇男爵の“闇槍”は
「……っ痛いな……全く……!」
「慎二、なんでお前……!」
慎二の肩と士郎の足の先を鋭く貫いていた。
「ほう」
闇男爵が感心したように声を漏らした。
「鼠一匹と思って放っておいたが、なかなか見上げた心がけだ。僕の術を恐れず友人をかばうとは。麗しき友情、というやつかな」
病室の外で士郎と桜の話を立ち聞きしていた慎二は、闇男爵の攻撃と共に咄嗟に飛び込み、士郎を突き飛ばしたのである。もしそれがなかったら、今頃“闇槍”は士郎の身体に突き刺さっていただろう。値千金の功績といえた。
もっとも、何故慎二がそこまでしたのかは士郎には理解の外だ。もしかすると慎二にも理由は判らないかもしれない。
嘲笑的な声に、慎二が目をむく。
「うるさいな! 何なんだよ、お前は! もう衛宮といい桜といい、僕に迷惑ばっかりかける。これだから一緒に居るのは嫌なんだ!」
「君は――ああ、間桐桜さんの兄だったか。なるほど、これは俗物だ。声といい顔といい、お里が知れる」
耳障りな声だ、と言いたげに闇男爵が吐き捨てた。明らかな侮蔑の色。異人種を見下す傲岸不遜なヴィクトリア朝人のようだ。
「……なんだって?」
傷ついた肩口から血が滴るのも気にせず慎二が叫んだ。だがその怒号は、冷ややかに受け流されただけだ。
その様子に、慎二のこめかみに血管が浮いて口元が引きつる。頭に血が昇ったのか、性懲り無く口を開いた。
士郎が慌てて制しようとするも、遅い。
「落ち着け、慎二。そいつは――」
「衛宮は黙ってろよ。いいかお前、とっととここから出てけ。ちょっかい出すんじゃないよ」
「僕に命令するな。君如きにそのような口をきかれる謂れはない」
真夏の夜にも関わらず、名状しがたい冷気が二人を打った。氷結した闇のような冷たさだった。
「この――」
「口を閉じたまえ」
闇男爵が蠅でもはらうように手を振る。
と、慎二が吹き飛んだ。横から強烈にぶん殴られたかのようだった。。
盛大な音たててごろごろと転がり、壁に激突してようやく止まる。頬がへこみ、口から血がこぼれた。
「慎二!」
「お仲間を気にしている暇があるとは見上げたものだ。この、僕を前にして」
足を撃たれたせいで、膝を突きながら叫んだ士郎の前に、闇男爵が歩み寄ってくる。ぐにゃりと空気が歪むような鬼気。
だが、それでも全く揺らがない瞳が、ぐいと黒衣の青年を睨み付けた。
「呪紋大三郎――いや、
「答える必要があるかね? 挨拶の必要がない、とは先ほど言ったばかりだ。ならば、君の問いに答える義務も、僕にはまたない。会話の必要性がないのだからな」
慇懃無礼だった口調が、尊大なそれへと変っている。メフィストならば兎も角、士郎や慎二相手なら礼儀を払う必要もないとでも考えたのだろうか。最も、圧倒的な尊大さこそが闇男爵の本性であることを考えれば当然の変化かもしれぬ。
「それに、何をしにきたかは入室した際に言っただろう。改めて、間桐桜さんを迎えに来た――ただ、それだけだよ」
呪紋大三郎。
闇男爵。
典雅な青年が浮かべたのは、その異名に相応しい嗤いだった。
▲▽▲▽▲▽
伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-06
そして終末の鐘が鳴る ~ The Beginning of The End
▲▽▲▽▲▽
「ふむ、間桐くんが左肩、衛宮くんは左足か」
ぱっくり開いた傷口を冷たく見ながら、闇男爵は考えていた。桜に目を向け、士郎たちに振り返り、口の片端を吊り上げた。
「では今からお二人の左腕をいただくとしよう。ぼくが右の人差し指を曲げたら“闇槍”が飛んでゆく。精精頑張ってかわしてくれたまえ」
実に楽しそうな声だった。浮き足立っている、と言っても良い。
「くそっ、慎二、逃げ――」
足を傷つけられたせいで、士郎は立ち上がれない。慎二に逃げろと叫ぶのが精精だ。だが、その声には張りがなく、慎二もまた壁によりかかりぐったりしている。
闇男爵が指先を曲げると、黒い線が走り、直ぐに二つに分かたれた。五体満足な時ですらかわせるかかわせないかだったそれを、満身創痍の二人がどうこう出来るはずもない。
「――っ!」
宣言通り、左腕の中心が寸分違わず射抜かれた。
呻きが漏れる。
肉に穴が開き、筋肉と神経がえぐられて激痛を伝えてくる。ねっとりとした熱い血の感触が気持ち悪い。
士郎の鈍い呻きを耳にして、闇男爵が満足げに頷いた。ひどく嗜虐的な様子だった。
「次は右足を」
右膝の丁度下を、“闇槍”が通過していった。
熱した錐で、脚部をえぐられたような感触。じゅうじゅうと、肉を焼く音が響いてきそうだ。激痛に声も出ない。
ふくらはぎに穴が開き、一瞬の間を置いて血が流れ出す。
立て膝だったのが、両膝をつく形になった。バランスが崩れ、士郎は床にのめる。屈辱的な姿勢だ。
「右肩」
今度は肩が焼かれた。
かわせない。
文字通り手も足も出ない。
いつ、どこに“闇槍”が飛んでくるか予告されているにも関わらず、為す術なく身体に槍が刺さる。
「……か……は――!」
士郎の呼吸が荒くなってきた。痛みと出血多量のせいか、視界が定まらない。意識も朦朧としてきた。このままでは――死が待っている。
冷酷な視線。闇男爵の宣告が響いた。
「では慈悲として、頭を――」
「も、もうやめてください!」
悲痛な叫び声。声の主を見るまでもなかった。
血を流して地べたに転がりながらも、士郎の目は死んでいない。たとえ殺されたとしても自分を曲げそうにないその瞳は、桜が泣きながら叫ぶのを明瞭に捉えていた。
「それでしたら――おや?」
闇男爵の訝しげな声がした。
何かあったか。
逆転の契機となる出来事なのか。
霞む視界を叱咤激励し病室を見渡すと、扉の隙間から、白い煙が吹き込んできている。
火事か――と慌てかけたが、それはありえないとすぐ思い直す。この病院内に、煙を一方向に動かすほどの風の流れがあるはずがないし、火事ならもうとうに騒ぎになっているはずだ。
何事かと思考を走らせている間にも、煙は侵入してきていた。床に這うそれを吸い込んだ途端――ガツンと頭を殴られたような衝撃があった。
(ガスか……!?)
続いて脳が痺れ視界が揺らぐ。
血を流しすぎたせいもあるだろう。
急速に意識が遠くなる。
目の端では、慎二が自分と同じように倒れ付している。その表情は、悔しさと恐怖が綯い交ぜになったそれだ。
自分も同じような
▲▽▲▽▲▽
病室に白煙が満ちるのを確認して、男たちは病室に駆け込んだ。
頭部をすっぽり覆うヘルメット。防弾であろうベスト。携帯した銃器。どう見ても、場に相応しい格好ではない。
メフィスト病院が誇る精鋭、特別医療班だ。魔界都市<新宿>におけるあらゆる病状を扱うここでは、超人的な力で暴れ回るサイボーグや、念動力を操る能力者のような連中が運び込まれるのも珍しくない。その種の患者を落ち着かせるためには、只の看護士や医師だけでは力不足である。そんな時に駆り出されるのが、この特別医療班だった。催眠ガスや麻酔弾のような装備を用い、患者を無力化することを第一目的とする。殲滅でなく鎮圧に用いられるとはいえ戦力は高く、日本国内では
隊長らしき男が熟練した身のこなしで銃をポイントした。
煙を通してゴーグルに映るのは、倒れ付している二つの影。即効性催眠ガスの作用に問題はないようだ。
目標である黒スーツの男は何処だろうか。
くい、と部下の方を向いて指示を出そうとして。
ぱん。
鈍い音立てて頭部がトマトのように破裂し、赤い液体を撒き散らした。
「――!?」
ぬう、と。
ざわりと浮き足立つ班員に巨大な影が覆い被さった。
影から伸びてきた巨大な手が頭蓋を掴む。
ぐしゃ。
また1つ、特殊チタン製のヘルメットが握りつぶされ、脳漿が面会用の椅子に降り懸る。
中枢部を失った身体は、まるでゾンビのようによろよろと歩き、ぐしゃりと潰れるようにして倒れた。倒れた際の衝撃で引金に力がこもり、銃が火を噴く。
その銃火が、影の正体――怪物の姿を浮かび上がらせた。
何処から来たのか。
何処に隠れていたのか。
獣の隻眼。
首に直結された管。
拘束衣を纏った巨体。
士郎に意識があるか、人形娘がこの場にいるかすれば、その怪物の名称を言い当てたはずだ。
ネメシスT型――“追跡者”。
<新宿魔海>に沈んだ筈の怪物。拘束衣から覗く肉体に刻みつけられた傷跡だけが、士郎たちとの激闘を伺わせる。
「――妖物……いや、生物兵器か!?」
動揺しながらも一斉に引金を引いたのは、流石メフィスト病院の精鋭と言えよう。
銃弾が雨あられと降り注ぐ。病院内であることを考慮して麻酔弾ではあるが、<新宿>警察からの技術提供により開発された弾丸は、双頭犬や毒蜘蛛、大ムカデといった妖物をも打ち倒す力をもつ。
だが、その程度では追跡者は止まらない。
銃弾の衝撃を意にも介さず突き進み、また1人の腹部を殴りつける。成人男子の太腿はありそうな腕は、鈍い嫌な音と共に、ぬめる内臓を纏わりつかせながら腹腔を貫いていた。下手なサイボーグなど足元にも及ばぬパワーだ。
「ネメシスを潜ませておいて正解だったな。ミスタ・ウェスカーご自慢だけのことはある。僕から見れば所詮
桜のベッドの脇で、闇男爵が満足げに言った。即効性の催眠ガスなどまるでなかったかのように、平然として立っている。
事実、追跡者の力は圧倒的だった。
肉の裂ける音、骨の砕ける音が連続し、あちこちで怒号が響く。銃弾が撃ち込まれるのをものともせずに、拳と爪が特別医療班の肉体を蹂躙していた。血色のペイントが、桜の病室を彩ってゆく。
数分もせずに、医療班は皆が皆、襤褸切れとなっていた。真っ白だった病室の壁は血に染まり、悪臭紛々たるものがある。
「さて、間桐桜さん――いや、ミス・間桐。貴方に選んでいただきたいことがあります」
シーツを胸元に引き寄せ、かちかちと身を震わせる桜。
凄惨な光景と血臭で頭がくらくらする。指先1つ動かす気力が沸いてこない。
「どうか、僕と一緒に来ていただけませんか。強制するのは本意ではない。本来は貴方からこちらに来ていただけるのは望ましいのですが――何分僕は少々せっかちでして」
父にも良く怒られたものです――と笑う。
勿論、桜には笑いを返す余裕など無い。
「来ていただけないとなれば、この部屋を今少し汚してしまうことになります――どうしましょうかね?」
冷たい視線が、うち倒れている士郎と慎二を見やる。その意味が理解できないと言い張る勇気は、桜にはもう残されていない。
「……先輩には、何もしないでください」
「ご安心を。手加減はしておきましたし、今はガスで眠らされているだけです。では行くぞ、ネメシス。メフィストが来ては多少面倒だ。ミス・間桐を運んできたまえ」
追跡者は不器用に頷くと、桜の背に手を差し入れた。軽々と抱え上げ、祭壇に捧げ持つようにして少女を腕の中におさめる。士郎が<新宿魔海>から出る時に桜を抱えていたのと同じ方法だ。もっとも、立場は全く逆である。
(兄さん……先輩……)
士郎にとって日常の象徴であった少女はがっくりと項垂れ。
全てに絶望したかのような顔で病室をいつまでも見送っていた。
▲▽▲▽▲▽
目を覚ました士郎の意識に飛び込んできたのは、真っ白い天井だった。病院特有である、刺激を抑えた白色灯の輝きが目に優しい。
左斜め上には、プラスチックの容器に透明の液体が入っている。その液体は、細い管と注射針を伝って血管へと流れ込んでいる。
つまりここは病室で。
自分は意識を失って寝かせられていたのだろう。
ゆっくり身を起こす。
扉の方へと目をやると、白く美しい影がひっそりと佇んでいるのが見えた。
「気がついたかね。傷口には処置を施しておいた。痛むところは無いはずだ」
「――ドクター」
ようやく見慣れたこの病院の院長、ドクター・メフィストの姿だった。看護士や医療装置の姿は見当たらない。
「あれから、どうなりました?」
メフィストの顔に一瞬影がよぎった。その時の表情が悔恨にも見えて、士郎は内心驚く。いかなる感情であれ、表に出すようなタイプには思えなかったのだが。
「してやられたよ。彼女は連れ去られ、職員にも犠牲者が出た。壊れた設備はどうとでもなるが、人的資源はそうもいかん。当院が求めるような人材ならなおさらだ」
メフィストの声が低く地を這った。太古の暗闇より沸いて出てきたような重い声。
「間桐さんは私の患者だ。それを病院から無理に連れ出すのみならず、私の病院の職員たちを犠牲にするとはな――見事な手並みだよ。随分と腕を上げたものだ。闇男爵の称号は、今度こそ伊達ではないらしいな」
淡淡とした言葉の奥底に、冷え冷えとするものがあった。ケープの下に研ぎ澄まされた刃でも隠しているかのようだ。士郎の背筋に冷や汗が伝う。
「可能な限り速やかに救出の措置をとろう。君は明日にでも家に戻って――」
「そうはいきません。俺も桜を助けに行きます」
きっぱりと言い切った。
答えは予期していたのだろう、メフィストの表情は変らない。
「医師としては止めねばならんな。あの病室で、彼は君を赤子のようにあしらった。その気になれば、息の根を止めることも出来たはずだ。拾った命をむざむざ捨てに行けと言えんよ」
確かに――と、士郎は闇男爵の力を思い出す。
あの“闇槍”という術からして、膨大な魔力が集積されたものだった。技術、威力も超一級の魔術師レベルだ。一介の魔術遣いである自分とでは、天地の差があろう。
「ドクター。それでも俺は行かないといけな――」
「なんだ衛宮、お前、あんな目にあってまだそんなこと言ってるのかよ!」
突然。
士郎の言葉にかぶせるように、鋭い怒りの声が飛んできた。
いつからそこに居たのか。戸口に立って、ぜいぜいと慎二が息をついていた。
青色のパジャマを着て、あちこちに包帯を巻いている。士郎と同じく治療を受けていたのだろう。
こめかみには血管が浮いて、顔はひきつった笑みが浮かんでいた。怒りと困惑のただ中にいるのだろうと、士郎は見当をつけた。
「そんなことって慎二、桜がまたさらわれたんだ。放っておけるはずがない」
「だから何なんだよ。もう放っておけよ。衛宮が行ったってどうにもなりゃしない。またぼろぼろにされるに決まってるさ!」
声が甲高く揺らいでいる。泣声と虚勢が綯い交ぜになった、なんとも不安定な声。士郎の耳から入ったソレは、脳髄を不愉快にガンガンと揺らす。
「それに、桜がいなくなったから何だってんだよ。あいつは僕に散々迷惑をかけたんだ。ああ、さらわれてせいせいしたさ」
「慎二、お前――!」
余りの物言いに声を荒げた士郎を慎二がせせら笑う。
「怒ったのかい? いいさ、怒りたければそうしろよ。でも怒ってどうするんだ。僕を殴るのか? 魔術でも使って暴れ回るのか? それで桜が帰ってくるならそうすればいいさ!」
「――っ」
士郎は押し黙って唇を噛んだ。流れ出る血が、口に苦い。
慎二は慎二なりに心配しているのだ。ただ、あまりの急なものの動きに冷静さを欠いているだけなのだろう。いつものこととはいえ、士郎には少々不憫だった。
その沈黙をどう解したのか。慎二は引きつった半笑いを浮かべると、士郎を指さして言った。
「じゃあな衛宮、お前も早く家に帰れよ。こんなとこで馬鹿なお人好しをしてたら、本当に死ぬぜ」
「おい、慎――」
士郎の答えを待たず、乱暴に扉が閉められた。ばたん、という大きな音だけが虚しく残響する。
しん……と。しらけた空気が流れた。
病室で大騒ぎした上、乱入者の台詞があのようなものであれば当然だろう。士郎はどうにも心地が悪くて、身体をもぞりと動かす。
重苦しい沈黙を破ったのは、メフィストの深い声だった。
「婦長。間桐慎二くんの退院を許可する。受付で荷物の返却などを行ってくれたまえ」
「心得ました、先生」
備え付けのマイクを使い、ナースステーションに必要な指示を出す。
「冷たいと思われるかもしれんがね、私が関心があるのは、患者の治療と彼らの容態だけだ。血族間での揉め事に興味はないよ」
確かに、メフィストが口を挟む事柄でもない。
しかし一体どうしたものか。
桜はどこに連れ去られたのか、攫われた先が解ったとしてもどうやって救出するのか、いざ戦いとなったらあの闇男爵にどうやって立ち向かうのか――
「衛宮くん」
物思いを冷たい声音が破った。
「病み上がり早々申し訳ないが院長室まで足労寝返るかね。話しておきたいことがある
慎二のことなど忘れ去ったかのような声で、メフィストはそう告げた。
▲▽▲▽▲▽
くそ。
くそ、くそ、くそっ!
慎二の苛立ちは頂点に達していた。<新宿>の南北に走る明治通りを脇目もふらずに歩いてゆく。気が立っているのが傍からみても判るのか、カメラと観光ガイドを手にした観光客らしき若者が、気味悪そうに見ながら通り過ぎていった。
それが気にならないほど、慎二は苛立っている。激怒しているとすら言えた。
(全く、なんだって衛宮はああなんだ……!)
馬鹿だ馬鹿だと思ってきたが、今日ほど呆れたことはない。正義の味方気取りなのかもしれないが、頑固にも程がある。昔からああなのだ。自分を犠牲にし続けてどうするのだと、大声で問いつめたい気持ちだった。
前を良く見ていなかったせいで、誰かの肩にぶつかった。反射的に怒鳴りつけてしまう。
「おい、気をつけろよ!」
「申し訳ありませ――あら?」
落ち着いた、美しい声が素直に謝ろうとして――立ち止まった。
「あれ、お前……」
「あら、確か……間桐様」
天鵞絨の紫ドレス。金髪碧眼に抜けるような白い肌。数年もすれば、比類無き美女になるだろうと思わせる可憐な容貌。
見覚えがある。士郎と一緒にいた少女だ。
荷物を抱えてそそくさとした慎二の様子に、小首を傾げて問う。病院での騒ぎはまだ知らないようだ。
「もう退院されたのですか? 病院で何かあったと聞きましたが――」
「はは、知りたいかい。なら教えてやるさ。衛宮はね、闇男爵とかいう奴に好き放題やられたのさ。桜は連れて行かれて僕は何も出来ずにお払い箱だよ! なかなか傑作だと思わないか?」
反射的に一気に答えてしまった。
別段言うべきことでもなかったが、何と無く鬱憤を晴らしたかったのだ。我ながら情けない心持ちだと、心の隅でちくりとするものがあったが、すぐ打ち消した。
いきなりの言葉にぽかん、とする少女。
「……闇男爵が……!? いえ、そんな……!」
人形的な可愛さがあった表情が、子供とは思えない程真剣なそれへと変る。
かと思えば、何やら呟いてずずいといきなり距離を詰めてきた。
「――詳しくお願いします」
「は?
「――細部まで話してくださいまし。寸分漏らさず、細大までを」
どんどんと進み出してくる少女に、慎二は気圧され一歩下がる。
少女とは思えない迫力だ。いつもなら軽くあしらって帰るところだが、有無を言わせぬ力がある。それに、慎二は慎二で心が弱っていたのも事実だった。
自分の意志とは関係なく、口から言葉が飛び出て行く。
ガレーンの家に飛び込んでからメフィスト病院に運ばれ。
士郎や桜が帰ってきて。
闇男爵に良いようにあしらわれるまでを――
「まあ僕は関係ないさ。桜のことだってもう知らない。衛宮も相変らず自分ばっかり犠牲にしてさ、今度こそ痛い目にあえばいいんだ。僕はもう知らないよ」
言うだけ言って、慎二は少女と距離をとった。これ以上詮索されてはたまらない。心の傷を抉られるだけだ。
幸いなことに、少女は頤に指をあてて考え込んでいる。何か琴線に触れるものがあったのだろう。それが何であろうと慎二の知ったことではない。
背中を向けて逃げ帰ろうとした時――
「間桐様」
人形娘の声が届いた。冷たく穏やかな声だった。
慎二の動きが、ぴたと止まった。静かで可憐な声にはそれだけの力があった。
「――ここは魔界都市<新宿>です。希望を胸に入る者はいない。未来を夢見て出て行く者もいない。<新宿>とはそんな街です。あなた様も、衛宮様も例外ではありません」
「――ふーん、それで?」
何が言いたいのだろうか? 今更<新宿>についての講義を聞かされても迷惑なだけだ。自分はこれから冬木市に帰って、あの陰鬱な屋敷と学校を往復するだけの暮らしに戻るのだから。
「これからの衛宮様の行く先には困難が待ち受けておりましょう。あの方ですら、絶望を抱き、希望の最後の欠片すら失うような。そんな時に支えとなることが出来るのは、<新宿>の住人ではありません。僅かなりと衛宮様に繋がりのある方々です」
「衛宮の仲間や友達、ってわけか?」
人形娘がゆっくり頷く。
「は、はん! だからってどうしろってのさ! そりゃどうしてもって言うなら衛宮に付き合ってやってもいいよ。でもさ、あいつがまた出てきたらどうするんだよ。あんな化物に僕や衛宮がかなうはずがないだろ! それに、僕は魔術師でもなんでもないんだ。あいつのことを思いだすだけでガタガタ震えているくらいしか出来ない情けないチキン野郎だよ!」
「それでも、ほんの少しの支えとなることは出来ますわ」
「――っ!」
少女の声は確信に満ちていた。瞳は強く揺らぎが無かった。
士郎も似たような目をしていた。そして、それらは慎二には眩しすぎる。
昔の自分なら一も二もなくその輝きを否定していただろう。憎んですらいたろう。
だが、今は――
「失礼いたします。衛宮様のお見舞いに行かねばなりませんので」
慎二の思いなど余所に、ぺこりと頭下げて、人形娘は去ってゆく。その後ろ姿は今し方の会話など無かったかのように平然としていた。
「……くそっ!」
何故だか解らないがむしゃくしゃして、歩道の石畳を蹴りつける。
足よりも、心が痛かった。
▲▽▲▽▲▽
「倫敦、ですか」
「間違いない。闇男爵の行き先は、かの一千年の魔都だよ」
士郎はメフィストと差し向かいで腰を下ろしていた。
院長室。
此処に足を踏み入れるのは二度目だ。看護士に言われて来てから、まだ一日と経っていない。それから今までに、追跡者と戦い、桜を助け、また連れ去られ、慎二が去った。あまりにも目まぐるしい流れのせいか、身体がどうにも怠い。
そんな体調を見て取ったのか、メフィストが茶色く煎じられた液体をカップに注いで差し出してきた。
「レモンバームとマンドラゴラの根を調合して煎じたものだ。疲れにはこれが一番だ」
「あ、有り難うございます」
カップを口元に運ぶと、つんとした香りが鼻を突いた。色といい匂いといい、薬膳茶のようだ。
ぐいと飲み干す。
苦みと甘みが適度に混ざりあった味だ。蜂蜜入りの煎茶、といった印象。美味ではないが、決して悪い味ではない。
気のせいかも知れないが、身体が少し軽くなったようだ。鬱積した疲労が、茶に溶けていくような感覚。
メフィストの瞳はあくまで穏やかで、まるで愛弟子を見る師のようだ。
もう一杯茶を貰い飲み干すと、士郎はカップを置いた。
「なんで――闇男爵が、桜が倫敦にいると言えるんですか」
士郎の問いに直ぐには答えず。
しなやかな指が、机上の地球儀を弾いた。
くるくると回るそれを目の端にとらえながら、メフィストは言う。
「世界には<魔界>と呼ばれて然るべき場が幾つかあるのだよ。最も、その多くは既に滅んでいる。中東の無名都市、南極の狂気山脈、大西洋の廃都ルルイエなどは眠りについて久しい。現在人が足を踏み入れ、定住している魔界は四つ――」
メフィストの瞳は夢みるようで、何処か遠くを見ているようだ。
士郎がごくりと息を呑んだ。
「この地、<新宿>。アフリカの魔界村こと、コダイ村。アメリカ・マサチューセッツ州の狂乱都市、アーカムシティ。一般にこの三つが魔界都市と呼ばれているな」
数え上げるにつれ、メフィストの指先が一本ずつ立ってゆく。すい、と伸びたそれはまるで最上の陶磁器のような美しさだ。
その美しさと、挙げられる都市の忌まわしさのギャップに士郎はくらくらとする思いだった。
「そして最後が――」
「“一千年の魔都”倫敦、ですか」
メフィストは頷いた。
「魔界都市と呼ばれてこそいないものの、闇の濃さにおいて劣るものではない。地理的にも歴史的にも、欧羅巴最高の魔都と呼ぶべき街だよ。そして、衛宮くんたちには馴染み深い、ある組織の本拠地でもある」
「魔術協会ですね」
世界の魔術師と魔法使いを統括管理する組織、魔術協会。倫敦のそれ、通称時計塔は協会全体の本部である。丁度凛がそこに滞在しているはずだ。
「彼は――闇男爵は日本の生まれだが、育ちは倫敦だ。魔都の瘴気を産湯とし、悪霊の叫びを子守歌として育った、闇の魔術のエリートにしてエキスパート。<新宿>から退いた以上、行き先は倫敦しかあるまいよ」
根拠はあいまいだが、説得力はあった。
魔術師の己の根城への執着は計り知れない程強い。士郎は聖杯戦争でそのことを強く学んでいる。闇男爵とて、例外ではあるまい。
「聞きたいことがあります」
「何かね」
「協会はどうして闇男爵を放っているんですか? あんな危険で強力な魔術師を好きにさせておくなんて、ちょっと考えにくい」
「あの組織は意外なほどに事なかれ主義だ。封印指定でもすれば良いのかもしれんが、執行者も人手不足と聞く。闇男爵が手を出してくるか、彼らにとって余程危険な真似をしでかさない限り、静観を決め込むつもりだろうな」
事実を告げる医師の口調でメフィストが言う。魔術協会の動向は興味の外なのか、全く関心がなさそうだった。
「もう一つ――ドクターは何故、俺にそんなことを教えてくれるんです?」
「余計なお世話だったかね?」
「いや、そんな。俺としては当然助かります。でも、なんでここまで色々と――」
魔界都市<新宿>は人間一人の命など値三文、否、それ以下という街である。袖触れ合うも多少の縁、などという言葉とは最も縁遠い地だ。メフィストが士郎に個人的な好意を抱いていたとしても、少々肩入れしすぎではないか。
メフィストは席を立ち、ケープを翻した。
光が白衣に当たり、乱反射してきらきらと輝く。
「君のためではないよ。間桐桜さんを助けるためだ。そのため君が必要だからだ。誰であれ、当院に一旦入った者は、退院するまでは私の患者だ。そして、彼女は未だ退院の手続きを行っていない。誰であれ、何であれ、私の患者に危害を加えたものは報いを受けねばならん。そう、ドクター・メフィストの名において――」
静謐な声だった。そしてそれゆえに、盤石の重みがあった。
「私こそ尋ねたいね。何故君は、そこまで彼女にこだわる?」
「それは――」
一瞬、言葉に詰まる。誰かを助ける、という行為は士郎にとって呼吸することと殆ど同義だ。改めて問われると答えに困る。
その沈黙を如何様に解したのか。メフィストは言葉に力をこめる。
「どうにも解せんよ。間桐さんは君にとっては近しい人なのだろう。大事な存在なのは解る。だがね、君は自分以上に彼女を大事にしているようだ。いや、桜さんだけではない。私の見るところ、君は自分の命よりも――」
「ドクター」
メフィストの言葉を遮る。そこには、魔界医師すら一瞬黙らせるほどの強靱な意志が在った。
「桜は大事な後輩――いえ、俺の家族なんです。何のために、なんて関係ない。誰のために助けに行くんじゃない。どこかで誰かが叫んでいる。大切な誰かが泣いている。だったら、少しでも力になろうとするのは当然のことじゃないですか」
「成程」
メフィストがぽつりと呟いた。
「君は――正義の味方、というわけか」
問うと言うより、独言のような声だった。
士郎はきっぱりと頷く。
その言葉、その在り方こそが士郎の存在意義だ。己が心が告げる正義に準じること。その先に何が待っていようと、あくまで道を貫くと心に決めている。
メフィストは黙って士郎を見詰めていた。
しばしの沈黙。
やがて。
白い封筒を机の上に差し出された。
「これは?」
「倫敦に向かう飛行機のチケットを確保しておいた。行くも行かぬも君の自由だ。勿論、当院としては間桐桜さん救出に最善を尽くす。私が倫敦に渡ることもやぶさかではない。だがそれとは別に――君は行くのだろう」
本当に行くのか、とメフィストの視線が問いかけている。
この封筒を受け取れば後戻りはきかない。
危険は山積みだろう。
命は勿論、もしかして魂までを犠牲にせざるを得ないかもしれない。
だが――考えるまでもない。こんな場面で、衛宮士郎が迷うはずがない。
すい、と。士郎の手が、机の上に置かれた封筒へと伸びた。
▲▽▲▽▲▽
翌々日。
関西国際空港。
士郎はサービスカウンター上に掲げられている飛行機の時刻表を見上げた。目的地までの飛行機はかなりの本数が出ている。これなら、問題なかろう。
メフィストの申し出を断る理由は無かった。
何度手の届かぬ所に連れて行かれようと、必ず桜を連れ戻す。どのような危険な場所に行くことになっても恐れるものではない。士郎にとって恐ろしいのは、己の正義を貫けないことただ一点だ。意志を貫徹するためには、死さえも辞さない覚悟だった。
倫敦行きについて姉代わりの幼馴染み兼教員を説得するのは大変だったが、何とかやり遂げた。もっともそのせいで、昨晩はあまり眠っていない。
それに心配事もあった。
倫敦に向かうということで凛と連絡を取ろうとしたのだが、未だに接触出来ていないのだ。電話にも出ないし、メールを送っても返事がない。
滞在しているホテルに伝言は頼んでおいたが、魔術学院から何やら課題を出されたとも言っていた件もある。何かあったのではなかろうか。
最も――凛は才知に優れた一流の魔術師だ。それに、セイバーも一緒にいる。滅多なことは無いと思うが、少々気にかかるのは事実だった。
悩んでいても仕方があるまい。いざとなれば、魔術学院に向かえば良い話である。
「倫敦まで、大人一枚」
メフィストに渡して貰った、飛行機のチケットとの引換券を差し出す。と、その横に。乱暴に割り込む手があった。
むっとして士郎がそちらを向くと――
「もう一枚追加。ああ、席は離してよ。衛宮と倫敦まで隣同士なんてごめんだからね」
「慎二!? なんでここにいるんだ?」
間桐慎二が居た。
意外な登場に、士郎は呆気にとられた。唖然としていると、不機嫌そうな慎二の声。
「なんでとはご挨拶だね。僕も倫敦に行くからに決まってるだろ。何をしに行くにしたって、衛宮一人でなんて頼りないじゃないか。一緒に行ってやるから感謝しろよ」
「いやだって慎二、お前――」
これ以上の厄介は御免だ、とばかりに舞台から去ったのではなかったのか。
直接口に出すのははばかられたが、言葉を濁してそう言いかけた。その気配を察してか、慎二の顔色がさっと変る。
「……う、うるさいな! そんなことはどうでもいいだろ。大事なのは、僕も倫敦に行くってことだよ。今更やめろって言われても聞かないからな。僕が衛宮の言うことを聞く理由なんてないしね」
慌てたように言葉を継ぐ。口を挟む余裕もない。
言い切ると少し落ち着いたのか。ふう、と息をつくと慎二は指を振った。
「どうせ一人であれもこれもやるつもりだったんだろ。駄目だよ、衛宮は要領悪いからな。泊まり先を探すだけでもうてんてこまいだろ」
「いや、遠坂が向こうに行ってるから。あっちで会うつもりだったんだけど……」
「はあ、遠坂に何が出来るのさ? そりゃ少しは頼りになるかも知れないけどね、あれこれと任せてるとそのうち大変なことになるぜ。肝心なところでうっかりしてるからな、遠坂は」
「……良く見てるな、慎二」
反論の余地がない。
才色兼備才気煥発快刀乱麻の少女魔術師、遠坂凛は、同時に筋金入りのうっかり屋である。ここ一番、という時に限って致命的な見落としをすることすらあるのだから、これはもう手に負えない。呪いの類なのではないかと思う時もあった。
どうしたものかと士郎が頭をひねっていると
『まもなく、JAL0421便、12時00分、倫敦行きの搭乗を開始します ご利用のお客様は38番ゲートへお越し下さい』
澄んだ女性の声でアナウンスが鳴り響いた。躊躇している余裕はない。
慎二は士郎を見た。不安を抱えていながらも、意志のこもった眼をしていた。
士郎は静かに頷いた。
「行こうか」
「行こうぜ」
士郎と慎二は、手荷物を手に空港のゲートに向かう。
その後ろ姿は、西部劇に出てくる長年の相棒たちのようだった。
二つの姿がゲートをくぐるのを、遠くから見守る影があった。
「行ってしまいましたわね」
「ああ」
白いケープの美貌の医師と、紫のワンピースを纏った7、8歳の少女。ドクター・メフィストと人形娘だ。
「お手柄だったな」
「何のことですの?」
人形娘が小首を傾げた。メフィストが微笑う。
「間桐くんのことだ。確かに語るに足らぬ小者だが――衛宮くんを一人で倫敦に行かせるよりかは数段良かろう。君が共に行けるようなら、それに超したことはないのだがね」
「私の出る幕ではありませんわ。それに、衛宮様とはまた、そう遠くないうちにお会いすることになりましょう」
「根拠はあるのかね」
「お婆さまの予言です」
「それなら間違いあるまい」
人でごった返す空港ロビーにあっても、奇妙な二人組に近寄ろうとするものはいない。<区外>の住民は<新宿>の人間を即座に見分け、敬遠するものだ。触らぬ神に祟りなし、ということなのだろう。
「――何か心配事があるようだね」
人形娘の浮かない表情に、メフィストが問うた。
「衛宮様はあまりに真っ直ぐすぎます。それは尊いことですが――倫敦で待ち受けているものは衛宮様の想像を絶していましょう。心が折れないか、それだけが心配です」
「その心配はない」
「何故そう言い切れますの?」
断言する医師を、少女が見上げる。
「彼は鋼だ。彼は剣だ。決して曲がらぬ。決して砕けぬ。例え全てを失ったとしても、己の意志だけは最後まで貫こう。それが善なのか悪なのか私は知らない。興味もない。断言出来るのは、この世界に衛宮士郎という“正義の味方”が確実に存在するということだ。それで十分ではないかね」
メフィストはふっと微笑んだ。
美しく穏やかな笑みだった。もし士郎がこの場にいたら、メフィストにその笑みを浮かべさせたことを決して忘れなかっただろう。
それは、そんな笑みだった。
▲▽▲▽▲▽
士郎と慎二が倫敦へと飛び立った日のこと。魔界都市<新宿>の
腰がまがり針のように痩せこけた身体。皺の寄った顔。縁側で日光浴をしているのがお似合いといった風情だ。だが、この老婆、並の人間はおろか、<新宿>の古参住民ですら立ち入るのを尻込みするこの公園において平然と畑仕事を続けている。
作業が一段落したか、老婆は手編みの籠に薬草を放り込むと背筋を伸ばした。やれやれ、と息をついて手近なベンチに腰を下ろす。
「やれやれ、マンドラゴラの収穫は手間がかかる。年寄りにはこたえるね」
誰あろう、ガレーン・ヌーレンブルクである。
ガレーンは前日から準備を整えてあった。だから、籠の中には必要な道具は全て揃っていたし、噴水の前に老爺の姿を認めた時も驚きはしなかった。
着流しの老爺は杖をつき、背を曲げていた。肌の色が紫に近く変色しているが、その程度この街では珍しくもない。どこにでもいる老人だった――中央公園で妖物にも襲われず、平然としていることを除けば、だが。
「待たせたね。何年ぶりだい?」
ガレーンが声をかけた。茶飲み話でもするような気安さだった。
「数十年ぶりになるかの。前に会うたは、<魔震>の前だったか。お主の国もすっかり変ったじゃろうて」
「今じゃこの街があたしの国だよ。久しぶりだね、マキリ。それとも、間桐臓硯と呼んだ方がいいかい」
「臓硯、で頼めるかの。マキリの名を持ち出されるのは少々面倒じゃ」
老爺――間桐臓硯は笑った。もっとも、その藪睨みの瞳は笑っていない。
間桐臓硯。
冬木市に居を構える魔術師一族、間桐家の実質的な長である。間桐慎二、間桐桜の数代前の祖にあたり、その齢は数百年とも伝わる。
蟲を扱う魔術のエキスパートであり、日本に居を構える魔術師としては強力な部類に入ろう――少なくとも、魔界都市<新宿>において侮られないほどの力は有していた。
「で、何の用だい。今度の聖杯戦争はもう終わったって聞いたよ。あたしの出る幕なんぞ、もう無いんじゃあないかね」
「ほ、よく調べておる。茶番としか言いようのない終わりであったわ。遠坂の娘にせよ教会の執行者にせよ、全く間が抜けておった。孫にも愛想がつきたわ」
「井戸端の愚痴漫談に付き合う趣味はないよ。早く用件をお言いな。それとも、昔の因縁の片を付けにでも来たのかい?」
ガレーンが臓硯を睨み付けた。背中を曲げ眼を大きく開いて、老爺が答える。
「まさか。いかにワシとて、一人でお主と死合う趣味はないわ。負けるとわかっている戦をするのは愚か者だけよ」
冗談は顔だけにおしよ――と、ガレーンが鼻を鳴らす。
「じゃあ何かい。新しい延命法でも探しにきたかい。あたしが言うことじゃないだろうがね、まだ長生きしたいのかね。身体は借り物、魂まで腐りかけてる。そんなになでまって生き延びることに何の意味があるんだね」
「長生きすればするほど命が惜しくなっての。とはいえ、身体は兎も角、魂の腐敗はどうにもならぬ。死徒どもが羨ましくなることすらあるわ。全く、因果なものじゃな」
口調は軽いが、声に本当の苦渋が満ちていることをガレーンは察した。本音なのだろう。この蟲爺は、まだまだ生き続けるつもりらしい。長命、不老不死を願う魔術師は数多いが、ここまでの執念の持ち主はそういない。大したものではあった。
「今朝まであんたの魔力は感じなかったけどね。どこかに隠れてたのかい」
「まさか。色々と忙しくての、あちこちと飛び回っておった。ここに来たのは、<新宿>での首尾を見届けるためよ」
「で、どうだったんだい? その様じゃあ、八割方は上手くいったってとこかね」
「仕込みは上々、というところじゃな。これなら見に来た甲斐があったわ」
抜けた歯を見せて渋く笑った。どう見ても、縁側がよく似合う好々爺だ。もっともガレーンも外見だけなら猫を抱いているのが相応しい老婆だろう。だからこそ、この魔人たちは危険なのだが。
「そいつはよかったね。ついでにゆっくりしてったらどうだい。歓迎の宴を開いてやらないでもない。この街にも、あんたに借りがあるのは少なくないからね」
「いやいや、遠慮しておこう。今宵には倫敦にとんぼ返りせねばならぬのよ。この老骨にはこたえるわ」
言うだけのことは言ったのか、臓硯はくるり背を向けた。
無防備な背中だった。ガレーンはおろか、<区外>の三流魔術師ですら秒殺出来そうな程に隙だらけだった。
だからこそ――ガレーンは何もしなかった。この煮ても焼いても食えない魔術師が、何の備えもしていないはずがない。
果たして、臓硯は数歩進むと足を止めて笑った。紫の肌がしわくちゃに歪み、子供が見たら引きつけを起こしそうな笑い顔だった。
「――流石じゃの、ヌーレンブルク。遠坂の小娘や不承の孫ならくだらぬ手出しをしてきそうなものじゃが」
「あたしを誰だと思ってるんだい。ま、今日は五体満足で帰してやるさ。二度と会わないことを祈ってるよ」
のそのそと、背中を曲げた影が小さくなってゆく。それが消えるまで見送って、ガレーンは溜息をついた。
まったく、この歳でああいう輩を相手にするのは一苦労だ。自分も老いたものだとつくづく思う。
黒いワンピースのそちこちが濡れていることにはじめて気付いた。いつの間にか、雨が降っていたらしい。おまけに、風も轟々と鳴り始めている。
「――いやな雨だ。こいつは嵐になりそうだよ」
稀代の大魔術師は空を見上げ、心底嫌そうに呟く。
やがてその言葉は現実のものとなろう。
冬木市の聖杯戦争から半年後のこの夏。
魔界都市<新宿>、狂乱都市アーカム、何処とも知れぬ外なる世界――名にし負う魔界が誇る妖人魔人たちが“一千年の魔都”へと集結しつつあった――
⇒ to be continued in Act - 2 "London Bridge is broken down" and Chapter - 07 "The Ripper"
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