連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第四話

 湖上ではボートへの浸水が始まっていた。
 怪物の爪が貫いた穴から、新宿魔海独特の黒い水が侵入してくる。既に人形娘の踝は水に濡れていた。
「……ネメシスT型!?」
 黄金と水晶で出来た脳髄が引き出した知識に、人形娘が叫ぶ。
 ネメシスT型。
 米国での実戦投入経験もある、対人用としては完成型に近い生体兵器である。
 士郎一人で相手どるには荷が重い相手だ。即刻足を向けねばならないが、既にボートは水びたしとなり、沈没も時間の問題だ。
 一緒に沈んでしまってはたまらぬ。ボートを蹴って手近な島へと跳び渡る。
 まずい。
 この状況は――少々まずい。
 ネメシスT型、俗称“追跡者”は、生物科学が産んだ殺戮機械だ。強化された筋力と耐久力は、ライオンや虎のような食物連鎖上位の猛獣すら上回る。獣の身体に人間の頭をくっつけたと思えば良い。アメリカはラクーン・シティで数度の活動が確認されているが、その折のデータによれば45口径のマグナム弾ですら抑止力になり得ない。動きを止めたければそれこそ対戦車砲かロケットランチャーでも撃ち込むしかないのだ。
 とはいえ、人形娘がかなわぬ相手ではない。
 伊達にガレーン・ヌーレンブルクの肝煎りではない。手は焼くだろうが、時間さえかければ片付けられぬことはなかろう。
 まずいのは今の状況だ。
 第一に、悠長にしている暇はない。間桐桜という少女を助けるのは、一刻も早いほうが良い。
 第二に、衛宮士郎にとって、追跡者を1対1で相手取るのは上策ではない。単純な膂力勝負にでももちこまれてしまえば、どちらが有利かは明らかすぎるほど明らかだ。
 そんな思念を抱きつつ、人形娘は周囲を見渡した。
 沼のそこかしこには、工場の残骸が飛び石のようになっている。石と石の間からは、腐食性のガスが沸き立ち、泡がぼこぼこと発生しては弾けていた。
 だが、そんなことを気にしてはいられない。
 ドレスの裾を翻し、人形娘は士郎の元へと跳び走り始めた。


 一方の島。
 廃工場の屋上部であった其処では、少年と怪物が対峙していた。島の一角には、朽ちて傾いだ給水塔。しんしんと輝く月が、ひどく場違いに思える。
 少年――士郎は眼前の敵を見定める。
 見るからに強靱そうだ。
 右手をぴくりと動かした時――
 うおおおん。
 叫びが夜闇を切り裂いた。
 追跡者の姿が霞み、地面が揺れる。
 一瞬だった。
 突撃である。
 力に任せた突進である。
 身を翻す暇もなかった。
 士郎は激しい衝撃を感じたと思うと、五メートルあまりも吹き飛ばされ、地面に激突した。
 全身に打撲性の痛みが走る。
 コンクリート製の地面は堅い。腹部にまで衝撃が伝わってきた。胃液がこみ上げ、士郎は激しく咳き込んだ。体がじんじんと痺れている。
「ちい……っ!」
 激痛に構わず、地面に手をついて身体を跳ね起こす。寝そべったりしていては、虫螻蛄のように踏みつぶされるのが関の山だ
 頭を振って、朦朧としかけた意識に活を入れた。思考と感情とを戦いのそれへと切り替え、瞬時に相手を観察する。
 巨体だ。
 異形と化すまでに練られた、造られた身体だ。
 2メートルはあろうかという体躯と、膨れ上がった全身。
 士郎と対峙すると、まるで大人と子供――いや、それ以上だ。殆ど闘牛か何かでもしているようなものである。
 運動能力も桁が違う。
 吹き飛ばされたせいで、彼我距離はおよそ5メートル。先ほどの動きから判断して、その程度の距離は殆ど意味がない。ダッシュでもされれば一瞬で間が詰まるのは明白だ。
 下手に間合いをとったりすれば、かえって逆効果だろう。今、この場で対処する必要がある。
 かといって、徒手空拳でどうにかなる相手ではない。殴打を捌き、傷を与えることが出来る武器が必要だ。
 幸いにして、武器の生成し用意することにかけては、士郎には強化と投影魔術がある。いわば、武器の専門家だ。
 魔術の詠唱にはある程度時間を要するが、今の自分の投影速度ならば――。
 魔術回路に魔力を通す。
 精神を集中させ、意識を変容させる呪文を口ずさむ。
 だが
投影トレース――!?」
 追跡者は、士郎の予想を遙かに超えて俊敏だった。
 一足飛びで間合いを詰め、投影の詠唱が完了する前に、巨大な腕が喉元に食らいつく。
 万力めいた力の爪が喉に、頚部食い込んだ。
 頚椎がみしみしと音を立て、静脈と動脈が圧迫されて血流が滞る。頸を支える筋肉が締め付けられ、神経系が悲鳴をあげる。
 そのまま、士郎の身体が宙に浮かされてゆく。
 喉からひゅうと息だけが漏れた。声を出そうとしても、呻きにしかならない。
 ぎりぎりと締め上げられる。
 呼吸が出来ない。
 脳への血流は数秒滞っただけで意識障害を引き起こし得る。視界が歪み、意識が朦朧とする。
(……まずい……!)
 半ば無意識に追跡者を蹴った。
 ごいん、と。脚に衝撃がそのまま跳ね返ってくる。まるで岩を蹴ったかのようだ。
 子供が大人を叩いているようなもの。下手に蹴り続ければ、脚の方が痛んでしまう。
 士郎の顔が苦渋に歪む。
 怪物がニヤリと笑った気がした。
 視界の両側が暗くなってきた。このままでは意識がブラックアウトしてしまう。そうなれば、士郎は喉を潰されて一巻の終わりだろう。
 閉じそうになる瞼を、意志の力で強引に開いていると
(――っ……あれは……)
 何かの映像が拡大されて脳髄に飛び込んできた。
 肩だ。
 拘束衣めいた服で覆われた全身で、そこだけが剥き出しになっている。肩からはパイプが伸びて首に繋がっていた。
 一か八か――やるしかない。
 意識の欠片を集める。
 総計二十七の魔術回路に今一度魔力を通し、イメージを頭に描く。
投影トレース――)
 構造解析。
 基本骨子想定。
 投影準備完了。
開始オン――!)
 詠唱の完了と共に顕現するのはかの弓兵の――そして今は士郎の愛刀、夫婦剣・干将莫耶。
 手中に現れたそれを逆手に持ち替え、切っ先を地面へと向ける。
 刃先が指すは、怪物の両肩。
 一呼吸で思い切り突き立てた。
 高密度な筋肉を裂く感触が手に伝わる。双刀が筋肉を神経を骨格を貫き引き裂くと、ねっとりした紅の血が噴き出した。高粘度の液体が士郎の顔に跳ねかかる。鉄を含んだ悪臭がした。
 悲鳴こそ聞こえなかったが、流石に痛みを感じたのだろう。怪物は大きく手を振って士郎を放り投げる。
 ふわりと身体が浮く感触。
 己の身が風切って飛ぶのが解った。
 がこん。
 追跡者によって投擲された士郎の身体は、給水塔だったと思しき一角に激突してようやく止まった。
 激突の衝撃で、コンクリートがぼろぼろと崩れる。新宿魔海の発する腐食気体のせいだろうか、外壁は随分と脆くなっているようだ。
「が……っ……!」
「衛宮様!」
 たまらず倒れ込むと、したたかに打ち付けられた背中が痛んだ。身体を動かそうとすると、背中が鈍く痛む。骨の何処かにヒビが入ったかも知れない。
 人形娘の叫びが遠く聞こえる。
 激痛に顔をしかめながら、よろよろと立ち上がる。
 ――危ないところだった。
 ヒビ程度ですんでいれば幸いだ。外壁が脆くなっていなければ、骨が砕けるか、最悪、背骨が折れていただろう。そうともなれば身動きはとれず、目の前の怪物に好きにされるのは火を見るよりも明らかだ。
「衛宮様! その者はネメシスT型――“追跡者”と呼ばれる生体兵器です! 膂力では勝負になりません!」
 飛び石ならぬ飛び島を渡りきり、島の先端に着地した人形娘の叫び。同時に、サテンの胸元から何かを投げはなたれた。
 悲鳴あげて追跡者がのけぞった。
 薔薇だ。
 蒼い薔薇などこの世にあるだろうか? いや、無い。
 だがその薔薇は、追跡者の左目にと突き刺さっていた。いかに強靱極まりない怪物といえど、剥き出しの瞳を刺されて平気なわけがない。目を押さえながら、声にならぬ声あげて腕を振り回しているだけだ。
「ご無事ですか」
「何とか……ね」
 無理しているように見えなければいいが、と思いながら不敵に笑った。全身痛むが、泣き言を言える状況ではない。
 手も動く。
 脚も地面を踏みしめている。
 意識も――少しばかりふらつくが、正常だ。ならば、何も問題はない。
 双刀を構える。人形娘が寄り添う。
 追跡者は既に、眼球から薔薇を引き抜いていた。破損した目玉からは、じゅくじゅくと透明な液体が滲み出ている。
 驚くべき事に、もう眼球の再生が始まっていた。非常識とも言える再生能力だ。深手でこそあったろうが、これでは致命傷には程遠かろう。
「それじゃ――」
「はい、参りましょう」
 ――第二ラウンド、開始。


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伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』
chapter-04
フランケンシュタインの悪夢 ~ descended from Mary Shelley


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「始まったな」
 モニターで外部の光景を観察しながら、ウェスカーは一人ごちる。
 画面の中では、ネメシスT型が猛威を振るっていた。相手は小僧一人に小娘一人――いや、一体。<新宿>という場所が場所だけに少しは手間取ろうが、後れを取るとは思えない。
 事実、モニターの中では、ネメシスT型が衛宮士郎を痛めつけ続けている。T型は元来、都市制圧と対人戦闘を想定して造り出されているのだ。当然の結果であろう。
 注視する必要はない。椅子を回転させ、実験室中央の台へと向き直った。少女――間桐桜が手術服めいた白衣を着せられ、そこに横たわっている。
 蟲の老爺との会話を思い起こす。確かあの化物が言うには――


「ふむ――何故桜が必要か、じゃったな」
「あの娘は聖杯の器よ。紛い物じゃが、の」
「意外と芯が強くての。おまけにあれでも魔術師の端くれじゃ」
「誰に似たのか、溜め込む性情らしくての。随分と黒い感情こころが渦巻いておる。しかるべき手を打てば、今の人格なぞあっさり飲み込まれようて。これも長年の教育の成果じゃな」


 要するに、鬱屈した人格を抱え込んでいるということであろう。人格を目覚めさせる為の処置などは、ウェスカーにとってお手の物である。それを知っているからこそ、声をかけてきたのであろうが。
 それにしても――
「聖杯……か」
 最後の晩餐で唯一神の子が使用したという器。以前目を通した資料によれば、魔術師の世界ではあらゆる願いをかなえる機構として認識されているらしい。
 だが、無神論者であり科学の徒であるウェスカーは、聖杯だのその器だのといった与太話に興味はない。
 闇男爵や蟲の老爺の如き魔術師連中に協力しているのは、目的あってのこと。
 己の手により、究極生物を産み出すことただ一つである。
 ――まあ良い。
 アルバート・ウェスカーが今成すべきことは明白だ。
 間桐桜の心象風景に分け入り、嫉妬や怨念といった黒い感情を目覚めさせることである。その過程で、現行の人格を基盤とした第二の人格が産み出されることになろう。
 この手の操作はお手の物だ。アンブレラに在籍していた時は日常茶飯事だった。
 サイコ・ダイブ、心理操作。
 色々な呼び方はあるが、要するに対象の心理に『潜り込み』、特定の方向付けを行うわけだ。覚醒状態でもそれなりに有効だが、眠っている時の効果は絶大である。
 そうとだけ聞くと出鱈目な与太話にしか思えないかもしれない。
 だが、原理原則は確立されており、十分信に足る技術である。ここ、魔界都市<新宿>においても実用化が進んでいると聞く。
 そもそもウェスカーは魔術や超技術を全く信用していない。いわゆる魔術師といった特殊技術者のみが理解出来、応用可能であるという時点で信に足らぬ。
 それに反して、この技術はあくまで科学を基盤としている。即ち、万人にとって理論が理解可能であり、技術が実用可能であることを意味する。ウェスカーの考える限り、人間を操るのにこれ以上の武器はない。確実な結果というものは、確実な手法にのみより導かれるものなのだ。
 ふと、気配が動いた。
 が、目を向けることなく、ウェスカーは沈思する。
 間桐桜の心性に潜り込み、人格を呼び起すための方法論。必要な機材。具体的な手法――
「Mr.ウェスカー」
「……まだいたか、貴様。高見の見物を決め込むつもりではなかったか?」
 闇男爵の取り澄ました声。
 指先が椅子の肘掛けを叩く。嫌悪と軽蔑の念が滲み出るのを如何することも出来ない。最も、隠すつもりもない。
「一つ忠告しておいてあげましょう。今、この場で間桐桜嬢に新たな人格を励起されるのも結構ですがね、流石に少々時間がかかりすぎる。我々としては、近いうちに人格転移を起こしてくれればいいわけです。何も、今この場で、というわけではない」
「我々? ふん、貴様とあの老人の目的だろう。私を仲間にいれないで貰おうか」
 鼻を鳴らす。
 仲間扱いされてはたまったものではない。
「命令だとしたら聞く必要はない。この娘をどう処置するかは私に任されているはずだ
「ええ、勿論です。ですから僕が出来るのは精精が『忠告』ですよ。二歩三歩先を読むのはこちらの専売特許ですが、ね」
 舌を鳴らす。
 どこまでも忌々しい輩だ。そして、その「忠告」は大体において正確なのがまた腹立たしい。
 愚か者ならこの腹立ちにあかせて忠言を無視するだろう。馬鹿者なら奴の言葉を最初から相手にすまい。
 だが、アルバート・ウェスカーは愚かでも馬鹿でも無い。
 奴が――闇男爵が時間が足りぬというなら、足りぬのだろう。
 仕方あるまい。
 頭の中で情報を反芻する。
 間桐桜とその兄。間桐桜の生い立ちと性格。間桐桜の思い人。
 人格を引き出すには確かに時間が足りない。やっつけ仕事で良いならば不可能でもないが、ここは魔界都市<新宿>だ。人格の一つや二つあっさり眠らせるような催眠術師もごろごろしていよう。
 結果的に間桐桜がウェスカー達の手に落ちればよい。
 今向かってきている連中に取り戻されたとしても、再びこの手に戻ってくるようにすれば良いのだ。
 既知の情報を反芻し、確認し、現在の目的のために最適な方法論を立案し認識し実行する。一連の流れを、淀みなく行えるのがウェスカーの優秀さの秘訣だった。やがてその思考回路は、一つの最適解を導き出す。
「――時限式でいくか」
 少女の心に仕掛けるのは――


▲▽▲▽▲▽


 追跡者の拳が士郎の顔面をかすめた。
 かすっただけだというのに頬が切れ、髪が弾け飛ぶ。まるでボクシングヘビー級チャンピオンのパンチだ。
 上体を反らす。
 頭のあった場所を、横殴りの一撃が通り過ぎていった。
 先端にはこれ見よがしに巨大な五爪。まともに喰らえば頭が吹き飛ぶ。
 正面からぶつかりあうなどもってのほかだった。セイバーに仕込まれ、聖杯戦争で鍛えた体術と感覚を駆使し、ぎりぎりのところで攻撃を避けるので手一杯だ。
 反撃していないわけではない。
 一瞬の隙をついて人形娘が仕掛ける。
 さらにその隙に、干将莫耶の切っ先が追跡者の肉体を切り裂く。
 だがその程度ではこの怪物は止まらない。
「……!!」
 声ならぬ叫びと共に、追跡者の豪腕が大気を揺るがした。
 今の士郎の姿勢ではかわしきれぬ、と見えた時。何かが宙で月の光を反射して輝いた。
 金色の髪の毛――人形娘の髪針だ。
 敵方から見れば、打ち出される髪針は僅かな点に過ぎず、叩き落とすのもかわすのも困難である。
 狙いは喉元。一筋でも突き刺されば其れは肉に食い込み、耐え難い激痛を与えるであろう。
 喉への刺突を避け追跡者が後ろに跳んだ。
 地面を蹴って人形娘が前へと走った。
 着地と共に大地が揺れる。小さな指先が奔る。
 ぴし、と空気の裂ける音がした。
 拘束衣めいた着衣から、血管が浮き出た身体が覘いた。
 人形娘が右手を振る。その指先には、拘束衣の切れ端が振り飛んだ。
 隻眼が燃えるように人形娘と士郎を睨み付けた。
 言葉を発することこそ出来ないものの、追跡者の知性は高い。特に、理解力と状況判断能力は図抜けている。あとコンマ1秒でも遅れていたら、胸元の肉をえぐり取られていたことを理解したのだ。
「衛宮様、合わせてください!」
「解った、行くぞ!」
 この機を逃す手は無い。
 号令一過、士郎が走った。
 全く同時に人形娘が跳んだ。
 双刀と手刀が、天と地から追跡者を挟撃する。
 追跡者の瞳は空へと向けられ、人形娘を捕捉している。手刀をかわすなり叩き落とすなりしたとて、体勢を立て直すより士郎の一撃が速いのは間違いない。
(貰った……!)
 切っ先が追跡者を切り裂いたかと思った、その瞬間。
「――!!」
 吼えた。
 天地を揺るがすような咆吼だった。
 成人女性の胴回り程もある腕が宙に振られた。丸太のような脚が弧を描いた。
 手刀が頚部を裂くのを気にもせず、人形娘の襟首をとり、投げ捨てる。
 回し蹴りが士郎の胴体へと叩き込まれる。
 人形娘ごと吹き飛ばされ、地面に転がった。二、三回バウンドして体が止まる。よろよろと身を起こすと、丁度人形娘も体勢を立て直すところだ。
「くっ……化物だな……。怪我は?」
「私は大丈夫です。しかし、このままでは……」
 腕がひどく痺れる。咄嗟に干将莫耶を地に落とし、胴体を腕で守ったまでは良かったが、腕の骨にはひびくらい入ってしまったかも知れない。
 人形娘にも焦りがみえる。
 手傷を与えていないわけではない。
 干将莫耶による斬撃、人形娘の髪針による刺突。
 追跡者の身体には着実に傷が増えている。
 だというのに、その手は全く緩まない。それどころか、これでは士郎たちが追い込まれているようなものだ。
 聖杯戦争の経験で言えば、追跡者の戦闘スタイルはバーサーカーのそれに近い。術策を弄さず、小細工をせず、圧倒的な戦闘力で敵を叩き潰す。単純ゆえに効果的な戦術である。
 勿論、バーサーカーと追跡者では比べものにならない
 バーサーカーは英霊であった。単純な物理攻撃を無効化し、複数の命を持ち、なおかつ巨大な建物を単体で破壊可能なほどの膂力を有していた。バーサーカーと追跡者とを比較すれば、大人と赤子以上の開きがある。
 仮にセイバーと追跡者が戦ったとしても同じだ。追跡者がいかに強力といえど、英霊と生体兵器とでは最初から勝負にもならぬ。
 だが――士郎は人間だ。
 訓練を積んだ魔術遣いではあるが、一流と呼ぶには程遠い。身体能力にしても、それなりに優秀という程度でしかない。
 そして、そのレベルの人間にとっては、追跡者の身体能力と耐久力は十二分に脅威になり得るのだ。
「これじゃあ……埒があかない」
 呟く。
 正面からぶつかるのはリスクが大きすぎる。士郎一人では勝ち目すら薄いし、人形娘と連携をとったとしても、あの怪物を葬るのにどれほど時間がかかることか。
 桜の身に何が起きているかも判然としないのだ。一分一秒が惜しい。
 策が必要だ。
 葬るとまではいかねど、追跡者を無力化する何かが――
「衛宮様」
 人形娘が囁いた。その瞳は油断無く追跡者を見据えているが、流石に焦燥の色が濃い。
「このままでは手の打ちようがありません。ここは私が引き留めますから、衛宮様は中に――」
「そうは――いかないだろ」
 まさか首肯するわけにいかない。人形娘が不覚をとるとも思えない。だが、少女はいわば善意の協力者だ。そんな相手を一人おいて自分だけ先に進むなど、士郎の矜恃が許すはずもない。
 だが実際問題どうしたものか。
 周囲を観察する。
 島の、周辺の建造物。その残骸に目をやる。
 そちこちが剥がれ落ちた建物の全景。
 折れ曲がり錆の浮いた鉄柵。
 錆び付いて開きそうにもない扉。
 そして、先ほど自分が背中を打ち付けた、脆くなっている給水塔―― 

 ――待てよ。

 閃くものがあった。
 半ば博奕だが、実行不可能ではない。このままじりじりと追いつめられるよりは、多少分が悪くても賭けに出た方がまだマシだろう。
「――手はある」
「伺いましょう」
「少しの間、あいつを引きつけてくれれば――」
 士郎は人形娘の耳元で囁いた。 
 話が進むにつれ、少女の訝しげだった表情が、得心したそれへと変ってゆく。
「……承知いたしました。賭けではありますが――それしかなさそうですわね」

▲▽▲▽▲▽


 間桐桜の意識は揺らいでいた。
 周りに目を向ければ、見渡す限り何もない空間。明るくもなければ暗くもない。うすぼんやりした黄昏色の明かりが、どこまでも続いているだけだ。
 此処は何処なのか、今は何時なのか、どうにも判然としない。食事を終え、部屋に戻り、ベッドに転がっていたはずだが――
「……あれ?」
 何か音が聞こえた気がした。
 小首を傾げて見渡せば、いつの間にか、視界の先に何かが立っている。
 一つの影。
 人間の影だ。
 伸びた四肢。長い髪。女性の影だろうか。大きさは自分と変わりがないほど。腕らしき器官をだらりと垂らし、目元まで隠した長髪が何故だか陰鬱に見えた。何故か、テレビで見た、ビデオから出てくる女の亡霊を思い出した。
 影になっている表情の中で、はっきりと見えるのは口元だけだ。吊り上がり歪み、耳元まで裂けているようにすら思える。
 笑っているのだろうか。だがその笑みは何処か禍々しくて、桜の心を不安にさせる。
 桜は自分の額が汗でじっとりと濡れているのを感じた。
 女の影が口を開いた。
 だが、声は発せられない。代わりに、女性的な声音が頭の中に直接響いてきた。
 聞き慣れているのも道理である。
 自分の――間桐桜の声だ。他人からは鈴の音が転がるようなと褒められ、自分では澱んだ湿っぽさがどうしても好きになれない聲だ。
(貴女は誘拐されたの。今は運ばれて、寝かされているところ)
 嗚呼、そうなのか。
 頭がぼんやりしているせいか、誘拐されたと聞いても驚きがない。そんなことがあったのか、と思ったくらいだ。
 そういえば、寝ている間に地面ががたがた揺れていた気がする。あれは自分が運ばれていたのか。
(でも大丈夫。先輩が助けに来てくれるでしょう。先輩がちょっとは怪我をしたりするかもしれないけど、些細な事よね)
 そんなことはない。
 どんな理由であれ、先輩が傷つくなど望ましいはずがないではないか。
 あの人が笑顔でいるのを見ているのは嬉しい。危険なことに巻き込まれていないのも喜ばしい。少し前みたいに、いつも無理をしていたような様子は見ていて耐えられるものではない。
(そうね。先輩が元気なのはとてもとてもいいこと。でも、貴女は不満じゃないの?)
 ――何を。
 不満などあるはずがないではないか。
 衛宮邸に足繁く通って掃除をする。選択を手伝う。先輩と一緒に料理の支度をする。一時期みたいに、あの家がやけにぴりぴりしていることはない。
 兄さんだって前みたいに理不尽じゃない。蟲のことはあるけれど――お爺様は半年前から家を空けている。
 そう。
 世は全て事も無し。
 先輩が怪我もなく無事に暮らしている。自分にも笑いかけてくれる。それで十分過ぎるくらい十分だ。
(本当にそう?)
 勿論だ。
 あの家に行くたび、賑やかで穏やかな光景には心救われる。
 先輩。
 藤村先生。
 セイバーさん。
 皆が皆くつろいで心豊かに日々を過している。見ているだけで救われる日常の風景ではないか。
(おまけがいるけれどね)
 おまけ――?
 誰か忘れていただろうか――しばし自問し、得心する。
 そういえばもう一人いた。
 赤い服装。
 黒い双髪。
 いつも自信満々の面持ちをした衛宮邸にすっかり馴染んだ遠坂先輩が――
 ずきん。
 頭が痛んだ。
 遠坂凛のイメージを頭に浮かべた途端、錐で刺すような痛みが走ったのだ。
 勿論彼女のことは敬愛している。
 魔術師としても先輩としても、敬意を払うに値する相手だ。公にはしていないが、血縁でもあることだし、大事な人である。
 ただ、不満がないわけでもない。
 例えば――
(例えば?)
 先輩を振り回すのはやめてほしい。
 朝から晩まで衛宮邸に居着いて、学校の外ではほとんどの時間を一緒に過す。これではまるで――
(内縁の妻――みたいよね)
 くすくすと、悪意を込めた笑いが影から漏れる。
 そう。
 考えてみれば、現在の衛宮士郎は遠坂凛が独占しているようなものだ。家でも、学校でも、外でも、気がつけばあの二人は一緒にいる。
「ごめん、ちょっと遠坂と約束が――」
「でも遠坂が――」
「遠坂が――」
「遠――」
 遠坂。
 遠坂遠坂
 遠坂遠坂遠坂遠坂!!
 彼女をことを話す時の先輩――衛宮士郎が、幸福そうに思えるのは錯覚ではあるまい。二人がどのような関係にあるかは一目瞭然。学校では上手く隠蔽しているようだが、時間の問題だろう。
 間桐の家で仕込まれた忌々しい業といい。
 思うがままにならぬこの身体といい。
 遠坂先輩――いや、遠坂凛、幼い頃に別れたきりの姉は、利を占有したままなのか。何も彼も持っていってしまうのか。
 昂ぶった感情のせいか、吐いた息がやけに熱い。少し落ち着こうと目を落としたら、何故だか自分の服が妙に黒く見えた。
 気のせいだろうか。
 だが――
 はっと眼をあげれば、黒い女が近寄ってきていた。
 垂れ下がった髪の隙間から、つり上がって耳元まで裂けた笑いが覘いている。
(貴方はいつも不満なの――だって、ほら)
 すい。
 何かを手渡される。
 手鏡だ。
 良く磨かれている。これなら、見たいものも見たくないものも、はっきりと映り込むことだろう。
 見てはいけない。
 覘いてはいけない。
 影の女は、何かを期待するかのように口元をつり上げて嗤っている。鏡を見詰めてしまったら、思う壺だ。
 だがそれでも――止めることは出来ない。
 何かに魅入られた如く。
 間桐桜は手鏡を覗き込んで――
「ひ……っ……!」
 目を見開いて立ち竦む。
 鏡の中には、やけに歪んだ笑い顔が映っていた。


▲▽▲▽▲▽


「貴方の相手は私です」
 作戦会議は終わりだ。鋭く言い放ち、追跡者の目の前に人形娘が飛び出る。
 小柄な少女と、巨大な怪物。二つの姿を尻目に、士郎は先ほど己が激突した給水塔へと駆け寄った。改めてみると相当に劣化している。
 白塗りの塗装は禿げ、経年劣化により全体が金属疲労を起こしていた。おまけに、<新宿魔海>から発せられる腐食性気体のせいで、あちこちが朽ちている。少し大きな衝撃が加われば、今にも崩壊してしまいそうだ。
 それ故に、今は役に立つ。
 外壁に手を伸ばす。
 目を閉じ、意識を集中する。
 魔術回路に魔力を通じ、意識を変容させる呪言を唱えた。
「――同調トレース開始オン
 同調開始。
 給水塔を構成している骨格。その全てがワイヤーフレーム状の映像となり脳裏に浮かんだ。さらに、その隅々にまで探索の手を伸ばす。
「――基本骨子、解明」
 材料の解明までは必要ない。
 この折れ曲がりかけた給水塔。骨子の何処が弱いのか。それさえ解ればいい。
 目的の箇所、劣化し少しの衝撃が加わっただけで崩壊を起こしそうなのは、給水塔の士郎に面した側。
 給水塔を強く叩き、人形娘に頷く。
 作戦開始の合図だ。
 人形娘が頷き返し、一旦攻撃の手を休めてステップを踏む。
 勿論、その機を見逃す追跡者ではない。
 ぶわりと拳が振られた。
 ドレス姿がふわりと浮かび背後に回った。
 そのまま鋭く蹴り抜く。
 石でも蹴飛ばしたような鈍い音。
 後部から強烈な蹴撃をうけ、追跡者の体が前方へとよたって傾斜する。人形娘はそのままの勢いを利用し、追跡者を踏み出しにして跳躍。給水塔を背にした士郎の、さらに背後へと着地した。
 追跡者から見れば、士郎と人形娘が一直線になっている構図だ。
 躊躇の欠片もなく、追跡者が走り出した。
 狙いは単純、士郎を巨体と拳と爪で破壊し、そのままの勢いで人形娘を屠るつもりであろう。
 まるで暴走機関車だ。うなりをあげて突っ込んでくる。
 ――追跡者の攻撃パターンは単純だ。
 見敵必殺。即時破壊。
 目の前に敵を捕らえれば、周辺状況を一切考慮せず単純に叩き潰しにかかる。
 瞬く間に怪物の体が目の前にあった。右腕が弓のように引き絞られ、筋肉が膨れ上がる。
 士郎は微動だにしない。迫り来る拳を凝乎と見据えている。
 筋肉に込められた力が解放され、鋼をも砕く拳が奔る。
 士郎は矢張り動かない。動けないのか。
 破裂音。
 為す術もなく衛宮士郎の顔面は四散した――
 と見えた、が。
「――!?」
 不満げな唸り。
 追跡者の強靱な拳は、給水塔を直撃していた。
 士郎はすんでのところで、バランスを崩すのを覚悟で、追跡者から見て左横方向に身を投げ出していた。普通ならば、このような回避行動は決してとらない。対主あいての追撃に対処出来ないからだ。
 だが今は協力者がいた。人形娘が士郎の体を瞬時に引きずり起こし――
 そのまま二人は、追跡者に背を向け、脱兎の如く駆け出した。一メートルでも遠く、給水塔の近辺から離れなければならない。
 士郎はそのまま左方向へ。
 人形娘は真逆に右方向へ。
 双方に別れた二人の挙動に、追跡者がどちらを追うべきか一瞬立ち止まる。結果的に、その行動にはタイムラグが生じることになった。
 この一瞬のタイムラグが重要だ。
 なぜなら――予定通りに給水塔の外壁に亀裂が走ったからだ。
 士郎が人形娘に戦いを任せてまで構造解析を行ったのはこのためだった。
 いかなる建造物でも、力が集中する箇所がある。
 本来ならばそのような箇所は厳重に防護されているのが常だ。だが、この給水塔は破棄から長年が経過しており、なおかつ、長年にわたる腐食で脆くなっていた。
 過剰な負荷がかかれば、一瞬にして崩れ落ちるほどに。
 給水塔が揺れた。
 コンクリートの外壁に亀裂が走り、朽ち錆びた鉄骨が悲鳴を上げる。。
 そして――
「――!!」
 追跡者めがけ、給水塔が崩れ落ち雪崩かかる。コルトパイソンの弾丸でも動きを止めず、士郎の斬撃と人形娘の攻撃をものともしなかった怪物といえど、総計数十トンに達するであろう鉄塊の奔流をまともに受ければ命はあるまい。
 追跡者の隻眼がちかりと光った。
 鋭い視線が右に左に走る。面としての動きでは回避が間に合わないと判断したのか、地面を蹴り、安全な足場を求めて跳ぶ。
 そして、追跡者の跳躍こそが、士郎と人形娘の狙いだった。
 士郎が足を止め、宙に在る追跡者へと振り返る。
 周囲に散らばった残骸から、鉄骨の一本を選び取る。
 長さは、およそ1メートル。先が鋭く尖っており、まるで鉄の槍だ。
 士郎は手にしたそれへ、瞬時に意識を集中する。
「――同調、開始」
 基本骨子の解明と構成材質の補強を即座に完了させる。やっつけ仕事になってしまうが背に腹は変えられない。
「これを!」
「承知致しました」
 士郎が槍を放り投げる。人形娘がそれを受け取り、くるりと反転させる。
 繊手が振られた。
 鉄の槍が風を切って走った。
 本来ならば容易にかわされてしまうだけだったろう。追跡者の動体視力と反射神経は、人間のそれに数倍する。野生動物の反射能力に人間の思考能力を合わせたような怪物なのだ。いかに人形娘の投擲が見事でも、そうそう当たるはずがない。
 だが、追跡者は跳んでいた。
 いかに尋常ならぬ運動能力を持つとはいえ、人間を基礎とした身体を持つ以上、その動きは一定の制約を受ける。まして、身体は宙にあるのだ。まさか空気を蹴り跳んで、方向転換するわけにもいかぬ。
 棒立ちならぬ棒跳びだった。
 追跡者の眼に戦慄が走る。

 ずん。

 肉がえぐられる音が鈍く響く。
 槍が追跡者の胸元を貫いた。鮮血が滲み出る。体が大きく反り、バランスが崩れた。
 姿勢を立て直すことなど出来るはずもない。
 大質量が落下する音。
 為す術もなく<新宿魔海>へと落下してゆく。
 飛沫をあげ、巨体が水面を割いて沈んだ。
 数秒もせず。
 黒い水に濡れた追跡者の手が浮かんだ。水は激しく揺れており、水面下で巨体が動いているのだと察せられる。そのまま士郎たちの元まで泳いできそうな勢いだった。
 だが。
 ぎち、と。
 手に絡まるものがあった。
 足に纏わるものがいた。
 新宿魔海の名物――蠢く藻である。
 追跡者の瞳に、今度こそ恐怖の色が浮かんだ。
 引きちぎれないのだ。見た目は何の変哲もない藻は、万力の如き力で追跡者を緊縛している。そして、周囲の海域から続々と同種の藻が集まり、また追跡者を絡みとる。まるで血の匂いを嗅ぎ付けたピラニアのようだ。
 士郎と人形娘が見守る中、無数の藻は追跡者の全身を覆い尽くし。破壊と暴力の権化は、もがきながら魔海の底へと消えていった。


▲▽▲▽▲▽


 間桐桜に付着させた機材を取り外し、ウェスカーは息をついた。
 思った以上に楽な作業だった。もう一つの人格を発見し、接触、一定度まで覚醒させることは出来たようだ。間桐桜本人は気付いていないようだが、感情の澱みも大分蓄積されている。これなら然程手を加えなくても、勝手に人格が動き出してくれるかも知れない。上々の出来だ。
「お見事でした。これで――一勝一敗というところでしょうか」
 モニターにと目を向ければ、丁度追跡者が水に沈んでゆく光景が映っていた。
「時間が足りぬ――というのは、こういうことか」
「その通りです。衛宮士郎くん一人ならともかく、あの人形には手を打っておくべきでしたね」
 闇男爵の声が嗤う。心から楽しそうな調子がかんに障る。答えずにいると、一方的に声が続いた。
「それで、間桐桜嬢の処置はどうです」
「条件付けは完了した。奴らがこの娘を取り戻すというならそうさせてやればいい。手は打ってある」
「ほう、では首尾は上々と?」
「相当に鬱屈した感情を溜め込んでいたようだな。あの調子では放っておいてもいつかは爆発しただろう。私は軽く負の意識を刺激したにすぎん。少しの切欠があれば、人格も心理もどのように変異してもおかしくない」
「流石はアンブレラの元主任研究員。一任した甲斐がありましたよ」
 他意の無さそうな賞賛の言葉。それを真に受けるほどウェスカーは純ではなかった。上着を纏い、サングラスを中指で押し上げて席を立つ。
「もうここ用はない。撤収するぞ」
「そうしましょう」
 ウェスカーの姿は闇に溶け込み、闇男爵の気配と声も消え去る。
 後には、老朽化した実験施設と、昏々と眠る一人の少女だけが残されていた。

▲▽▲▽▲▽


「――ここだ」
 解析能力を駆使して工場内部に続く入口を捜していた士郎が声をあげた。
 給水塔の崩壊や追跡者との戦闘で瓦礫だらけになった島。瓦礫による破壊を免れた区画に、内部へと通じる扉が埋もれていたのは、不幸中の幸いだった。扉や入り口が存在していなかったり壊れたりしていたなら、最悪、島の一部を破壊でもして入り込まねばならなかっただろう。
「扉も――うん、開くな。俺が先にいくから――」
 人形娘に声をかけようとして、士郎はおやと首を捻った。
 少女は空を見ていた。
 暗い夜空には月がぼんやりと輝いているだけだ。特別注目すべきものなど無いと思えるのだが――
「どうかした?」
「いえ――急ぎましょう」
 人形娘の表情は平静そのものだ。
 扉をくぐりながら空を見ると、黒い塊が羽ばたいたような気がした。


「そういえば――」
 廊下を走りながら、士郎はふと疑問を抱いた。
 <新宿魔海>に落とされた追跡者のことだ。
 藻に絡み付かれ、もがきながら水底へと取込まれていった。そこまでは良い。
 だが、あの藻に生物を捕らえる性質があるとすると――
「確かさっきの奴、水の中から出てきたよな。その時はなんで襲われてなかったんだろ」「皮膚が強化されていたのでしょうね。新宿魔海に棲息している植物は凶暴ですが、然程力は強くないのです。人間の身体ならばともかく、ネメシスT型を傷つけられるとは思えません。ただ、今度はそう上手くいかなったのでしょう」
「なんでまた。あの藻以外にも何かいるのか?」
「そういう訳では御座いません。ただ、衛宮様の仰る『藻』には特徴がありまして。ある匂いを嗅ぐと、倍して強力に、凶暴になるのです。いかにT型といえど、逃げられはしなかったでしょう」
「その匂いって、もしかして」
 嫌な顔をした士郎に対し、人形娘が頷く。
「血の匂い、ですわ」
「ぞっとしないな」
 本当にぞっとしない話だ。
 あちこち傷だらけ士郎本人が落ちていたらどうなっていたことやら――
 幸運と、隣の小さな協力者に感謝しつつ、士郎は一目散に廊下を走り続けた。


▲▽▲▽▲▽


 誰も、居ない。
 実験室と思しきその部屋を彩るのは、塵芥ジャンクと化したコンピューターと、士郎には用途不明な器具の類だ。スチールの机も、高価そうな装置も修復不可能なほどに痛んでいる。壁面には巨大な槽が見えるが、表面を覆っていたであろうガラスが割れており、液体が床に散乱していた。
 桜はおそらくここにいるのだろうが――
「衛宮様、こちらに」
 人形娘の声。
 部屋の天井までを塞いでいる装置を迂回すると、器具類のせいで死角になっていた、部屋の中央部が広がる。
 そして置かれた、手術台のようなベッド。そこに寝かされている、白い肌に長い蒼髪の少女。
「桜!」
 慌てて駆け寄った。
 一足早く近寄っていた人形娘が頷く。脈をとっていたようだ。少なくとも命に別状はないようで、ほっと息をつく。
 手を伸ばしかけたところで
「あれ……せん、ぱい……?」
 弱々しい声と共に、うっすらと眼が開いた。
「おはよう、桜。どこか痛いところとかないか?」
 穏やかに声かける。
 色々と尋ねたいことはあるが――今は安全な場所まで運ばねばならない。
「もしかして……わざわざ来てくれたんですか……? すいません、面倒かけちゃって……」
「気にするなって。それより桜、休んでなよ。後は俺がどうにかするから」
「大丈夫ですよ。これくらいへっちゃらで……あれ?」
 身を起こそうとして、上半身をもたげ――かくん、と倒れ込む。
 当然だ。まだ意識もはっきりしていないし、肉体的な疲労もあろう。発している言葉とて、半分はうわごとのようなもの。士郎の声に反射的に答えているだけだ。
「いいから。頼むよ」
「……じゃあ、甘えちゃいますね」
 少し強めの懇願がきいたか、僅かに微笑むと、桜は目を閉じた。
 直ぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。迅速に、人形娘が頸筋に手を当てて脈を取る。
「気を失っただけですわ。私の判ずる限り、外傷はないようです」
「そうか……良かった」
「ですが衛宮様。ここは必ずしも安全とは言えませんし、誰が来るか解りません。取りあえず、外に――」
「ああ、そうだね」
 よいしょ、と。実験台から桜を降ろし、背負う。
 むっちりした身体が、士郎の背中にのしかかった。
 目を覚ましていない所為で、重心が定まらない。ぐにゃぐにゃと、軟体動物のように背中で蠢く。
 意識を失った人間を運ぶのは結構な重労働だ。まして桜は、かなりの質感のある肉体の持ち主である。セイバーや凛といった小柄な少女たちを運ぶ時のようなわけにはいかない。結構な質量が、士郎の肩にのしかかる。
 ――つまりは、重いのである。
「……お手伝い致しましょうか」
「いや、俺が運ぶよ。これくらいはしないとね」
「承知いたしました」
 桜を背負いなおし、士郎と人形娘は出口へと足を向けた。


 工場から外に出ると、夜の帳が降りていた。
 月明かりに照らされた沼には、例の藻が執拗に蠢いている。
 追跡者の姿は無かった。沼の底に沈んでしまったのか、何処かへ逃亡したのか。さしあたっての脅威が無くなったのは幸いと言えよう。
「……ふう、どうにかなったか」
 士郎が息をつき、人形娘がこくりと頷く。
 当面の危機は去った。だが――問題が消失したわけでもない。
 たっての問題はどうやって<魔海>から出るかだ。
 人形娘手製の樫のボートは追跡者によって破壊されてしまった。備え付けの船などあるはずもない。
 何とか対策をとって泳いで渡るにしても、桜は意識を失ったままである。士郎と人形娘で桜を抱えて泳ぐなど、この沼地では無謀でしかない。
「どうしたもんかな」
「工場に入る前、メフィスト病院に救急隊を要請しておきました。迎えに来ていただけるとは思うのですが――」
「救急隊? ああ、さっきのはもしかして」
 そういえば工場の中に入る前、人形娘が空に向かって何やらやっていた。あれがメフィスト病院への連絡だったのか。
「私の片割れを病院に飛ばしておきました。時間的にもそろそろだと思います」
「うーん、でもさ、ここって立ち入り禁止なんだよな。それに――」
「――来ました」
 士郎の言葉を制し、人形娘が沼へと視線を向けた。声も仕草も、デルフォイの神託を告げる巫女のような厳かさだった。
 同じくして。
 風の向きが変った。
 水の流れが曲がった。
 空気の帯びる気配すら一転した。
 士郎の五感が伝えるのは、新たな異変。
 人形娘に従い、沼に目を向けて――
「……え?」
 我知らず、茫然とした。

 ざざ。
 ざ。
 ざざ。

 士郎が沼を見たとき、魔海が二つに裂け割れたのである。
 かつてユダヤの予言者が大海を渡った時のように。
 水と水の壁に挟まれた路を歩むのは白い影法師。
 純白のケープが風に揺れていた。
 魔術遣いの少年と、自動人形の少女が見守る中、その姿は悠然と歩み続ける。
 やがて白い姿が二人が佇む島へと辿り着くと、沼の裂け目は崩れて消えた。
 ケープが翻る。月明かりが、その姿を照らし出していた。この舞台にあうようにあつらわれたスポットライトの如く。
「衛宮士郎くん、だね」
 天上の美声が士郎の耳朶を揺さぶる。
 その声に、その姿に。
 土蔵での、剣の英霊との出会いを思い出す。
 そう、あの時もこう思ったのだ。

 ――美しい、と。

「ドクター・メフィスト、お招きにより参上した」
 ドクター・メフィスト。
 魔界医師。
 白皙の美貌の医師は、ケープを翻して士郎へと一礼したのだった。





⇒ to be continued in Chapter - 05 "Doppelganger"

投稿者: 日時: 2006年02月05日 22:29 Web拍手

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コメント: 連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第四話

こんにちわ。永島です。
更新楽しみにしていました。わぁい桜が黒くなっていく……
いやぁしかし、ネメシスT型もバーサーカーだと比べる相手が悪いですねぇ。
 そして出ましたね、白い医師。型月世界では「魔法使い」なんじゃない?てお人ですよね、菊池秀行さんも敵を作るのに困るひと。表舞台には出さないそうですが、こう主役級が出てきた時の反応が楽しみの一つだったりします。
 ひとつ気になるのですが、凛が時計塔の所属だと、弟子の士郎が闇男爵に敵対するとまずいような?
 まぁ素人に近い士郎のことを知っているわけはないか、と言う気がしますけど。
 寒い季節です、お体のほうお気を付けください。

投稿者 永島 | 2006年02月09日 15:03

コメント有り難うございます。

メフィスト先生はほとんどゴジラかセガールか、という人(?)ですからねえ……型月的にはどういう扱いになるのやら。魔法使い、というのは設定の根幹に食い込みすぎますので無いと思います。

>凛が時計塔の所属だと、弟子の士郎が闇男爵に敵対するとまずいような?

この件ですが、現在の闇男爵は協会に属していないという理解でお願いいたします。
原作の「魔界医師メフィスト 闇男爵」でも、ロンドンの魔術師たちからは忌避されているような描写がありましたし。
近いうちに注釈として書いておきます。

肌寒い季節ゆえ、風邪などお気をつけ下さい。

投稿者 ヤス | 2006年02月09日 17:36

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