連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第三話

 衛宮士郎は、店内の威容に目を丸くせざるを得なかった。いや、威容というより異様であろうか。
 情報屋が居ると人形娘に連れられて来たのは、新大久保駅近くのティー・サロン『ヒポポタマス』。一口飲めば体重が10キロ増えるバルーン・コーヒーが売りの名物喫茶だ。人形娘曰く「丸々とした方ばかりですわ」とのことだったが――これほどとは思わなかった。 
 店全体が巨大なのだ。椅子やテーブルも、調度類も、縦にも横にも広くがっしりと作り込んである。明らかに日本人向けのサイズではない。
 手近なテーブルに目を向ければ、コーヒーや紅茶はピッチャーに並々と注がれ、大皿にはからりと揚がったポテトが山盛り。衛宮邸の食いしん坊王様でも胸焼けを起こすかも知れない。
 最も、<新宿>は、カリフォルニアやニューヨーク並の多国籍都市だ。椅子机の規格や、飲食物のサイズが一般的でなくても驚くことはない。それだけ客層が多様だからだ。
 しかし――
「いらっしゃい。何名様でしょうか?」
 ――通常の喫茶店の優に二倍はあろうかという通路を、同じく通常の二倍は横幅のあるウェイトレスが塞いでいるのは、矢張り特殊であろう。制服よりまわしが似合うのではないかと、そんな不謹慎な思考が士郎の頭をよぎった。
 ウェイトレスに向かい、戸惑い気味に用件を告げる。
「あー……その、外谷さんという方が此処にいると聞いてきたんですけど」
「ああ、外谷さんなら――」
 ウェイトレスの指さした方にと目を向ける。
 店内の奥――士郎や人形娘なら数人はかけられそうな長椅子。
 その椅子を中心に、一角丸々占領している大きな影。
 女だ。
 だが只の女ではない。
 全てが丸かった。
 顔が丸い。
 手足が丸い
 それにも増して腹が丸い。
 端的に言えば――素晴らしい程のでぶであった。
 あまりに見事な体躯に思わず凝視してしまう。
「何さ」
 士郎の視線に気付いたのか、女がじろりと睨み付けてきた。無遠慮で横柄な口調だが、外見が外見なのでどことなくユーモラスだ。
「あの人……だよな?」
「あの方です」
 人形娘に確認をとり、歩み寄った。
 側に寄ってみると、とてつもない巨体だ。縦ではなく横、筋肉ではなく贅肉がぶよぶよと広がっているため、一種異様な圧迫感がある。
「外谷……良子さん、ですよね?」
「その通りだわさ。勧誘ならお断りだよ」
 太く良く通るだみ声。耳障りが良いとはお世辞にも言えない。
 鳴き声でも出しそうだな――などと思っていたら
「ぶう」
 本当に鳴いたので士郎はつんのめりそうになった。
「勧誘ならお断りだよ。デートは一年後でいいなら空いてるけどね」
「いえ、仕事をお願いしたいんです。欲しい情報があって――」
「ふん」
 値踏みするように士郎をじろじろと眺め回す。その最中も、食を貪る手は休まない。
 生クリームたっぷりのケーキ1ホールと、ピッチャー入りのコーヒーがみるみるうちに胃の中に消えてゆく。いっそ気持ちいいほどの健啖ぶりだ。
 ケーキ皿とコーヒーカップが空っぽになると、すいとウェイトレスが寄ってくる。
「お代わりはいかがいたしましょう」
「腹八分目が健康の秘訣だっていうしね。後はコーヒーだけでいいわさ」
「かしこまりました」
(八分目……?)
 信じられない言葉を聞いた気もするが、聞き流すことにした。
 今は些末事にこだわっている場合ではない。
「さて、と」
 運ばれてきたお代わりのコーヒー飲み干し、丸い女は士郎をじろりとねめつけて腹を叩いた。
 ぽん、と、太鼓腹が実にいい音で鳴る。
「<新宿>1の情報屋、外谷良子さまに何の用だい、ぶう」
 西新宿のせんべい屋ですら一目置くと言われる情報屋はふんぞり返ってそう鳴いたのだった。


▲▽▲▽▲▽



伝奇クロスオーバー二次創作
『アウレオールスの夜に』


chapter-03
追跡者 ~ The Chaser



▲▽▲▽▲▽


「ふーむ、“眠り男”ねえ――」
「はい。“眠り男”は殆どが収容所にいると聞きました。それで、新しい“眠り男”が大量に隠れている場所があるはずだと――」
 士郎からあらましを聞き終わると、外谷は腕を組んで唸った。
「そんな事があればあたしの耳に入ってこないはずがないよ。すぐに調べは付くけれども……」
 じろり。
 鈍重そうな外見とは裏腹の、意外に鋭い視線が士郎を射抜く。
「こっちも仕事だから余計なことは言わないけどね、一つだけ聞かせとくれ」
「……何でしょうか」
「あんた<区外>の人間だろ。何があったのか知らないけどさ、真っ当な厄介ごとなら警察に頼るのが筋ってもんだ。この街の警察は優秀さね。何でわざわざ自分で動くんだい?」
 一息ついてコーヒーを含む。一口でカップの半分が消えた。
「客にあれこれ尋ねないのがこの仕事の決まりなんだけどね。今度ばかりは聞いとくべきな気がするのさ。あたしの感は区のスーパーコンピューターより確実さね」
 肥満体が自慢げにふんぞり返った。
「それは――」
 考えるまでもない。
 あの間桐慎二が己を頼り、此処まで来てくれたのだ。それだけで、十分士郎には自分が動く理由となり得る。
 それに、士郎は『正義の味方』を任じている。己の手の届く範囲で、しかも親しい間柄の人間に有事があれば駆けつけるのは当然のことだ。疑問を抱く余地はない。警察に頼るなど、最初から考えなかった。
 しかし、其の思いをどう説明したものか。言い淀んでいると――
「現実的な理由がありまして」
 澄んだ声が、士郎の背より響いた。
 先ほどから押し黙っていた人形娘の声だ。例によって平静そのものである。
「おや、あんたも居たのかい」
「お久しぶりです、外谷様」
 人形娘がドレスの裾をつまんで一礼。
 まあ座りな、と。外谷が身振りで椅子を指す。全身の肉がぷるぷると震えた。
「此度の“眠り男”は少々特殊なのです。衛宮様も覚えておいでですね」
「ああ、ガレーンさんが見せてくれたあれだな。なんか、軍隊みたいな動きをしてたな」
 ガレーンの工房で見せられた映像を思い出し答えた。人形娘が頷く。
「“眠り男”があのように、他人の言うことを聞き、統制のとれた行動をするというのは考えにくいのです。少なくとも、私の知る限りでは前例がありませんわ」
「そこだよ、あたしが気になってるのは」
 ずいと、外谷が身を乗り出してきた。
「“眠り男”はね、本能的な行動しかしないし、出来ないんだ。あいつらの目的は寄生虫を生き残らせることだけだしね。けど、そこの坊やの話じゃ、言葉を発して、考えて、動いて、誰かの命令まで聞いていたそうじゃないか。それじゃあまるで――映画のゾンビか何かだよ」
「ゾンビとは言い得て妙ですわね」
 頤に指先当て、人形娘が呟く。
 その挙作が実に可憐だ。場所が場所であり、一緒にいる人間が人間であるだけに、華が一層際だって見える。
「――衛宮様、ゾンビについてはどれほどのことをご存じですか?」
「ゾンビ、かあ。映画に出てくるのと、そうだなあ……」
 記憶を探る。
 いつだかクラスメートの高田くんが熱心に語っていた覚えがある。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』だとか『ブレインデッド』だとか、そのような映画を挙げていたはずだ。士郎も夜のロードショーで見たことがある。
 とはいえ、士郎は別段ホラー映画の愛好家ではない。世間一般の流布している以上の知識は別段持っているはずもない。
 悪霊術師の類ならば死人を操る方法の一つや二つ心得ていようが、士郎にとっては悪霊術なぞホラー映画以上に縁遠い話である。
「うーん……ブードゥー教だっけ。魔術でゾンビを作るとかいう話を聞いたことがあるような無いような」
「ブードゥーのゾンビは魔術ではありません」
 士郎の言葉に、人形娘が異議を差し挟んだ。思いの外鋭い声に、背筋が正される。
「一口にゾンビと言いましても多種多様なのです。ブードゥー教におけるゾンビは魔術によるものでも、時折言われるようにフグ毒によるものですらありません。あれは、精神に障害をきてしてしまった方々を自分の親族として扱っているという文化的な背景に基づく認識によるものです。今ではゾンビという単語が一人歩きしてしまっていますわね」
「人間の姿をした、理性の無い化物の総称ってとこかね」
 外谷が口を挟んだ。人形娘が頷く。
「仰るとおりです。米国では人間をゾンビ化させるウィルスを開発した組織があったとも聞いております。あのダンウィッチでも、地獄への門が開きゾンビが大量に発生したという記録がありますわ。最も、本来の意味での『地獄』であったかどうかは疑問ですわね」
 ですが――と。
 人形娘は居住まいを正す。
「此度は其れとは訳が違うのです。“眠り男”に悪霊の類を憑依させることにより、一定の自由意志と知性を持たせています。アメリカのテネシー州で同様のケースがあったとも聞いておりますが、正確な記録は残されておりません。単に屍体が蘇って暴れ回っているというだけならば、警察でどうにでもなりましょうが、悪霊ともなりますと――」
「いくら<新宿>の警察でも、対応に時間がかかっちまうってことか。道理じゃああるね。『凍らせ屋』でも出てくれば話は違うんだろうけどねえ――」
「はい。一刻でも惜しい状況ゆえに、衛宮様がご自分で動いているわけです」
 成程ねえ、と外谷がコーヒーを飲み干した。取りあえずは納得したのだろうか。だぶついた面相からは感情は読み取れない。
「大体の所は解ったよ。ま、あんたが口を挟むってことはガレーンの婆さんが関わってるんだろうしね。あの婆さんに睨まれるのもぞっとしないし、詮索はよしておくよ。そんなとんでもない“眠り男”の居場所なら直ぐに解るしね。だけどその情報は――」
 芋虫のような指が、モバイルのノートパソコンを叩いた。モバイルとはいえB5サイズはあるというのに、この女の手元にあるとまるで小型の電卓のようだ。
「ちいと高いよ」
 くるりと、ディスプレイが士郎に向けられる。
 画面上に並んだ数値を見て――
「う」
 言葉に詰まった。
 高い。
 かなり高い。
 プロに仕事を頼むのだ。相応の値は覚悟していたが――少々厳しい価格である。
「外谷様、その値は少々――」
「素人相手に高すぎ、ってのかい。知ったことじゃないね。こちとら慈善事業じゃないさね。これでも勉強してやってるんだよ」
 難渋を示した人形娘を余所に、ねえ、と士郎に目で同意を求めてくる。
 しかし、はいとあっさり頷ける値ではない。
 しばし黙考。悩んだ末に、キーボードに手を伸ばし。
「……これくらいになりませんか」
「むう」
 士郎の示した値に外谷は難色を示した。
 なら――
「これで」
 かたかた。
 もう一度数字を入力。
 打ち込み終わるや否や、ぬ、と太い指先が伸びてきた。
「ぬっふっふっ」
 がたがた。
 芋虫めいた指が再入力。含み笑いと共に数字を突きつけてくる。これ以上は無理だよ、と、言外の圧力が伝わってきた。
 士郎は今月の家計簿を思い出す。
 光熱費、水道代、ガス代、何より食事代。家族の多さもあり、毎月の出費は意外なほど多い。
 凛とセイバーがロンドンに行っているのが不幸中の幸いだったか。
 提示されたのは――非常に厳しい出費ではあるが――不可能な額ではない。
 それに、桜の身の安否が関わっているのだ。悩んでいる余裕はなかった。
「……お願いします」
「じゃあここにサインして頂戴な。支払いは現金か銀行振り込みで頼むよ」
 言葉に従って『衛宮士郎』とサインした。早めに振り込まないとな――と、所帯じみたことを思う。
「毎度あり」
 サインを見届け、外谷は手揉みしてにんまりと笑った。河馬が目を細めればをすればこんな顔になるかもしれない。
「二、三候補はあるけれど――まあ、九割方ここだろうね」
 キーボードが押される。ディスプレイの表示が切り替わり、一つの風景が映し出される。其処の眺めに、人形娘の眉が動いた。
「外谷様、此処は――」
「白銀町――<新宿魔海>だわさ」
 ディスプレイには、真っ黒な水に覆われた円状の沼地が映っていた。


▲▽▲▽▲▽


 <新宿>でも打ち棄てられて久しい化学工場、その一室。
 半壊した実験室に、アルバート・ウェスカーは居た。
 あの気色悪い『眠り男』どもは別室に隔離してある。悪霊などという非科学的な力に頼ったモノは、一瞬たりとも傍に置いておきたくなかった。
 リクライニングの椅子にもたれかかる。実験室を見回して、息をついた。
 此処には異分子が存在しない。実験器具、コンピューター、薬品の匂い。在るのはmかつての自分を思い出させる馴染み深い物体ばかりだ。
 ――実に、居心地が良い。
 ひび割れた培養槽、変色した液体に満ちた薬瓶、電源の入らないコンピューター。残骸しか留まっていないといえども、この空気はウェスカーには心地良い。まともに機能する設備は殆ど無いとしてもだ。
 視線を前方に向ける。
 無機質な手術台めいたベッド、一人の少女が横たえられている。
 長い髪、すらりと伸びた四肢、ふくよかな身体。
 ――間桐桜。
 冬木市、間桐邸より奪取、輸送してきた少女である。
「ん……っ……」
 少女が声を漏らした。
 意識があるわけではない。移送の際に、強力な麻酔剤を投与してある。大方夢でも見ているのであろう。
 この娘をわざわざ攫ってきたのは、ある目的のための『処置』を施すためだ。だが、そのためにはもう少し時を経る必要がある。
 ウェスカーが少女についてのカルテを手に取った時――
「経過はどうです、Mr.ウェスカー?」
「――まだ早い。処置を施すには覚醒レベルが低すぎる。もう少々時間が必要だな」
 何処よりか、一つの声。
 ぶっきらぼうに答えを返しながらも、サングラスの奥で、ウェスカーの目が忌々しげに細まった。
 声の主の姿は見えぬ。
 いつの間にか実験室の西側扉が開いている。奇妙なことに、扉の向こう側は暗闇だ。実験室からの明かりは十分届いているはずなのに。雅で高慢な声は、その暗闇から響いてきている。
「科学技術というのも面倒なものですね。僕に任せて貰えれば、その娘の脳の中身を弄くる程度、直ぐだと言うに」
「――」
 口出し無用とばかりに、ウェスカーは軽口を黙殺した。
 口にこそ出さぬが、声の主が気に喰わぬと、その表情と気配が主張している。そんな冷たい沈黙を気にもせず、暗闇から声が紡がれた。
「ところで――気付いていますか」
「侵入者の件ならば心配無用。『新宿魔海』には監視カメラをセットしてある。何処の馬の骨から知らんが、動きは筒抜けだ」
 手元の小型ディスプレイに目をやる。
 沼に接した地面に立つ、少年と少女の姿が映し出されていた。
 確か片方は間桐桜の関係者だ。名前は――衛宮士郎とか言ったか。
「ふむ、中々優秀ですね、彼らも。一昼夜もしないうちに此処を嗅ぎ付けるとは。それとも――貴方の手際が甘かったかな」
「――誰に物を言っている」
 ぴき、と。音を立てて空気が凍る。
 冷え冷えとした殺気が実験室に充満した。
 気の弱いものなら失神しそうな殺意を意にも介さず、暗闇よりの声はくつくつと嗤う。笑い声まで、慇懃無礼だ。
「そう苛立つものではないですよ。まあ、彼らを放っておいても何かと面倒だ。お望みとあらば、僕が片付けておきますが?」
「余計な世話は止して貰おう。お前は元々出るつもりなどないのだろう。此処は私の領域だ。あの屍骸どもを使う必要もない」
 ウェスカーの言う屍骸とは、間桐邸を襲った『ゾンビ』。つまり、悪霊を憑依させた『眠り男』、通称『闇の軍勢』のことである。
「ならばどうされます? お節介ついでに忠告しておきますが、片割れはガレーン・ヌーレンブルクお手製の自動人形オートマータです。少年は間桐桜の隣人、衛宮士郎ですかね。衛宮士郎くんはともかく、あの人形を相手どるのは僕でも少々面倒だ」
「――ネメシスT-型を出す。魔術師だか自動人形だか知らんが、所詮は半端物だ。T型に及ぶはずもない」
「ほう? ならば、お手並み拝見といきましょうか」
 含み笑い。
 やがて、声と気配がすうと消えた。
 我知らず舌打ちをする。全く、忌々しい輩だ。例の蟲めいた老爺といい、“闇男爵”だとか名乗るあの声の主といい――魔術師という奴腹は、どうにも好きになれぬ。
 とはいえ今は、好き嫌いを云々している場合ではない。
 取りあえずは、愚かな侵入者二人を排除せねばなるまい。その為に己が取るべき手は一つ。
「お前の――出番だ」
 椅子を回転させ、実験室の奥へと目を向ける。
 其処には、唯一無傷なままの培養槽。
 ごぽりと、声に応答するように、培養液が泡立つ。
 ピンク色に泡立つ液体の中、2メートルはあろうかという巨体が眠っていた。


▲▽▲▽▲▽


 ぬめぬめと光る広がりが士郎と人形娘の目をうつ。
 そこは沼だった。
 少なくとも、士郎の常識に照らせばそうとしか思えなかった。
「――うわ、凄いなここ」
「区でも有数の名所です。時折団体の方などもいらしているようですわ」
 フェンス越しの眺めに思わずあげた声に、人形娘が静かに返答する。
 都会の真中に、綺麗な円周型の沼、それも毒々しい極彩に彩られた一角が鎮座しているのだ。普通は驚く。加えて、沼のそこかしこで鞭めいた触手がうねうねと蠢いているとあってはなおさらであろう。
 ――この場所も含め、<新宿>には観光名所が多数存在する。
 花園神社の殺人激安市、メフィスト病院、西新宿のせんべい店、海洋生物研究所……並べ立てていけば枚挙に暇がないほどだ。最も、気楽な観光気分で足を踏み入れれば良くて大怪我、悪ければ魂ごととって喰われるのも<新宿>ならではである。
 その中において、人気も危険度もトップランクに数えられるのがここ――白銀町の<新宿魔海>であった。
「……あれは島、かな? なんか建物みたいな感じだけど」
「島でもあり、建物でもありますわね。此処は元々――」
 人形娘の説明によれば、<新宿魔海>は、元々<魔震>によって陥没した化学薬品工場だそうだ。そこかしこに浮いている小島は、工場の屋上、給水塔、貯蔵庫などの名残。<魔海>と呼ばれているのは、工場から流出した廃液があまりに多量であり、一帯を沼のようにしているからだという。
 沼の形状はほぼ真円であり、円周はおよそ500メートル。ぐるりとフェンスが張り巡らされ、そこかしこに立ち入り禁止の表示がある。<新宿>の観光名所の常として、迂闊に入り込めば死しか待っていない場所だからだ。
「ふーん……それでその工場の中に、あの“眠り男”と――桜がいるんだな」
「おそらく。外谷様は少々癖のあるお方ですが、情報は確かです」
 ガレーンが言っていたように、“眠り男”の居場所は、桜を攫った物たちの本拠であろう。となれば、そこに桜が居るだろうというのは無理のある推定ではない。沼の中心部に浮かんでいる『島』まで辿り着き、工場の中に入り込めば良いのであろう。
 普通の湖や沼なら泳いで目的地に向かえば良い。人形娘も士郎も、数百メートル程度の遊泳は物ともしない程度の体力はある。
 普通の沼、ならばだが。
「――泳ぐのは、無茶だよな」
「お勧め致しかねます」
「ああ。あれを何とかしないと」
 沼の水面に目を向けると、うねうねと緑色の藻らしき何かが蠢いていた。
 勿論、只の藻であるはずがない。水に揺られるのでなく、己の意志で獲物を探す触手のように動く藻などあるはずもない。
 棘やら疣やらに覆われた鞭みたいな触手が沼地を蠢き、高圧電流の流れたフェンスに触れてはどす黒い水へと慌てて引っ込んでいる。そんな場所に不用意に飛び込めばどうなるかは、火を見るよりも明らかだった。
「……一応聞くけど、何も対策しないで水に入ったらどうなるかな」
「骨も残りませんわ」
「ぞっとしないなあ、それ」
「ご心配なく。準備は致しております」
 ぎい。
 人形娘が、立ち入り禁止と表示された扉を開いた。士郎も後に続く。
 沼に接した地面はぬちゃりと湿気ていた。沼の毒液が浸食しているのだろう。湿った地面なのに、泥が跳ねる様子も靴が沈む様子も無いのは流石であった。
 人形娘が立ち止まる。
 ドレスの胸元に手を入れた。
 ごそりと取り出されたのは、掌サイズの木彫り品だ。小舟を象っている。
「準備って、それ?」
「はい。これを浮かべますと――」
 少女は屈み込み、掌から木彫りの舟を水面に流した。
 ぽちゃ、と。水面にミニチュアの舟が浮かぶ。
 すると――
「おおっ!?」
 あろうことか、掌ほどのサイズしかなかった舟が、みるみるうちに巨大化してゆくではないか。<新宿>ではこの程度の芸当は日常茶飯事とはいえ、士郎にとっては物珍しい光景だった。
 一分とかからず、二、三人は乗れる木製の舟が沼に浮かぶ。人形娘が櫂を手に取り、士郎を促した。
「さ、お乗り下さいませ」
「あ、ああ」
 促され、舟の縁に足をかけた時。

 ――ごぽ。

 水が泡だった。
 例の蠢く藻が近寄ってきたか、ガスでも涌き出てきたのかと気にもしなかったが――
「あれ?」
 ふと見ると、人形娘が水面を見つめていた。僅かながらに眉根が寄っているのが気にかかる。
「どうかしたの?」
「いえ、今、何か――」
 泡だった水面の辺りに、厳しい目が向けられている。
 士郎も釣られて目を凝らすが、廃液の沼は黒々と濁っており、数センチ先はもう見えない始末だ。
 五感を研ぎ澄ましていても、何かあるようにも思えない。
 蛙や魚といった水棲生物の類でも飛び跳ねたのだろうと見当を付けた。
「気のせいじゃないかな。俺には何も見えなかったけど」
「ならばよろしいのですが――」
 士郎の言葉に不承不承、という感じで頷き、備え付けの櫂を手にとると人形娘は舟を出発させた。


 ぎい。
 ぎい。
 櫂の音がやけに高く響く。
 最も巨大な島に向けて、木の舟が静かに進んでいた。魔術的な防護を施してあるのか、藻の群れは近寄ってこようとしない。
 それでも、ねっとりした黒い沼と、其処に浮かぶ意志ある藻という組み合わせは中々に不気味だ。
 まるで三途の川を渡っているようだなどと、不吉な連想がふと沸いた。
 そんな考えを振り払うように、士郎は人形娘に声かける。
「そういえば、工場には何処から入ればいいんだ?」
「島の幾つかに、工場への通路や階段が残っているはずです。ただ、腐食していたりして正確な入り口が解らないことが多いのですが――」
「島って、元々は建物なんだよな? なら多分、入り口は俺が探せるよ」
 残骸といえど、元は建造物である。当然、内部構造は金属から成っていよう。となれば、士郎にとってはお手の物だ。
 修理や投影と同じ理屈だ。
 建造物の構造に直接触れ、解析し、イメージする。
 島の一つに降り立ち、直接触れて構造解析をすれば入り口は直ぐにでも見つかるだろう。
 目的地まで半ばを過ぎた頃――
「なんだ、あれ?」
 士郎の視線が水中に引きつけられた。
 水の中に何かが揺らめいている。
 丸みを帯びた形。
 鼻と口と、そして目にも見えるパーツ。
 あれは、まるで――

 ――人の、顔?

「どうかなさいましたか?」
 人形娘が訝しげに問うてきた。
「いや、水の中に人の顔みたいなのが――」
「顔、ですか」
「でもまあ、こんなところに潜る人がいるわけないし、見間違いだと思うけど」
 士郎はもう一度目を凝らすが、沼の中ではゆらゆらと藻が揺れているだけだ。人の顔など、当然あろうはずもない。
 何かの誤認であろうと一人納得し、軽く答えた。
 だが。
「――急ぎましょう、衛宮様。もしかすると――」
 気にかかる事でもあったのか、人形娘が表情を引き締め、櫂を送る手を早めた。
 ぎい、ぎい。
 細腕の少女に操られているとは思えない程の速度で、舟が進む。
 舳先が島の一つに後1メートルの辺りまで辿り着いた時――

 ぞくり。

 悪寒。
 戦慄。
 士郎の背筋に寒気が走った。
 脳がガンガンと警報を鳴らす。
 何かが――居る。
「――衛宮様!」
「――っ!?」
 時同じくして、鋭い警告の声。声にかぶさり、樫の木を突き破り、引き裂く音が響いた。
 反射的に船底を蹴り、島、即ち廃工場の屋上部へと跳ぶ。
「おっ……と……!」
 僅かにバランスを崩しながらも足場を確保。
 慌てて振り向くと、舟の底から生えたかのような鋭い爪が、また沈み込んでゆくところだった
 いや、生えたわけではない。士郎が今立っていたのは、人形娘が出した樫の舟の中心だ。
 となれば――爪は沼の水に潜んでいた何かが突き出してきたものか。
 人形娘の警告がなく動きが一瞬遅れていたら、その爪は士郎の下半身を貫いていただろう。それほどに鋭い一撃だった。
「衛宮様、お気をつけて! まだ気配が消えていません……!」
「解ってる、そっちも気をつけろ!」
 感覚を研ぎすます。
 空間の四方に意識を飛ばし、
 気配の察知だ。セイバーやアーチャーのようにはいかねど、その真似事が出来る程度には士郎も経験を積んでいる。
 上方――異常なし。
 水平方向――異常なし。
 残る一方に――巨大な敵意と、明らかな殺気。
「……下か!」
 どしゃあ、と。
 士郎の叫びに呼応したかのように、水柱が吹き上がった。
 真っ黒に濁った廃液が雨の如く降り注ぐ。
 高密度な質量の塊が水を突き破った。
 刺激性の廃液を意にも介さず、跳んだ。
 屋上を覆う鉄の床をぐしゃりとへこませながら――それは衛宮士郎の前に立つ。
「……なんだ、これ」
 思わず呟き、一歩後ずさる。
 異形の存在だった。
 悪夢の中にのみ住まう生物だった。
 実に奇っ怪な姿である。
 継ぎ接ぎだらけの襤褸コートが覆っているのは、黄褐色に変色して無数の継ぎ接ぎ痕が刻まれた巨体だ。頸筋から伸びているのはパイプだろうか。大きく開かれた口からは、真っ赤な歯茎が覗いている始末。
 何より忌まわしいのは、その瞳だ。左目は手術痕に閉ざされて顔面を引きつらせ、大きく開かれた右目には、明らかな敵意が宿っている。
 化物である。
 怪物である。
 それも紛れもなく――人の手に依るものだ。
 Tウィルスによる遺伝子改造と身体強化を施された有機生命体兵器――B.O.W。その中でも屈指の完成度を誇り、成人男性をベースとした個体、タイラント。
 そして、タイラントに、ネメシスと呼ばれる蟲を寄生させ知性を増強した個体が少数なが存在する。
 アンブレラにおいても最貴重品の一つが、此処に居た。
 ――ネメシスT型、通称“追跡者”。
 フランケンシュタインの怪物の咆吼が、魔海へと響き渡った。



⇒ to be continued in Chapter - 04 "Mephist"

投稿者: 日時: 2005年12月16日 23:09 Web拍手

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コメント: 連作クロスオーバー「アウレオールスの夜に」第三話

 はじめて感想を書かせていただきました。永島です。
魔界都市とクロスさせた作品はあまり見かけないので、とても楽しみにしています。
 人形娘にガレーン、新宿区民でも屈指の実力者兼善人ですね。士郎も運が良いというか何と言うか。
しかしまぁ、闇男爵が出てくるとは、まだ一回死ぬ前でしょうか?死んだ後によみがえった闇男爵はガレーンより強いと、ガレーン本人も言ってましたね。追跡者をどうにかしても闇男爵が控えているとは、士郎と人形娘が心配です。ある意味、時計塔の三原色より凄い(いろんな意味で)称号かもしれませんね〈闇男爵〉
 

投稿者 永島 | 2005年12月30日 23:13

感想有り難う御座います。
一応時間軸的には「魔界医師メフィスト 闇男爵」以後を考えています。次回か次々回あたり、そのあたりの説明があるかと。
<闇男爵>は凄いみたいですからね……いや、本編だと微妙にヘタレていような気もしますが。月にレーザー撃たれてたし。
とまれ、今後もよろしくお願いいたします。

投稿者 ヤス | 2005年12月31日 15:55

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