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新都の公園への道行き。雨上がりの足元、アスファルトはしつこく湿っていた。
路肩には吹き散らされた塵芥が堆積し、小さな水の溜まりがそこかしこでぬめぬめと光を反射している。あまり気持ちの良い光景ではない。
それらにも増して目に飛び込んでくるのは、雀色時、黄昏の空。黒々とした雲から時折覗く光は、陽く深山町を照らし出す。常ならば、町並は鮮やかに映えるであろう。だが、町を覆うこの奇妙な静寂の中では、言い知れぬ不気味さを引き立てるだけだ。
――禍々しい。
遠坂凛はそう思う。
黄昏とは、誰ぞ彼、あるいは彼ぞ誰の転化であると云う。昼と夜の狭間、此岸とも彼岸ともつかぬ時分。
そして今、深山町、ひいては冬木市を席巻しているのは既に人の域を超えた魔人たちの姿。アーカムシティの魔術探偵、魔導書、魔界都市の人捜し屋。東洋の吸血種、英雄王、逆十字といった百鬼夜行の群れ。
遠坂凛は魔術師である。
意志により現実を変容させる術を知る者である。
魔術とて一つの体系であるには違いない。ガンド撃ち。結界構築。使い魔の召喚。荒唐無稽に思えるそれらの現象とて、厳然とした法則に則っているのは自明の理。其処にあるのはあくまで隠された智であり、奇蹟や神秘といった類のものではない。
されど、魔術を修める身でなければ為せぬことがあるもまた事実。今の冬木の混迷を治めるも、その一つであろう。
深淵を覗く者はまた深淵に囚われると云う。百戦錬磨の魔人たちを相手とするには、深淵に身を浸してでも戦う覚悟が必要である。丁度、聖杯戦争がそうであったように。
ならば。今の街の様相には。
――己らもまた、相応しいのやも知れぬ。
そこまで思考を走らせた時。
「遠坂」
「あ、何?」
耳慣れた精悍な声に、凛の意識は現実に引き戻された。
曖昧に答え、目をやる。衛宮士郎とセイバーの訝しげな視線。思わずまじまじと見つめ返してしまう。
「何、じゃないって。どうしたんだよ、ボーッとして。遠坂らしくもない」
「え、私、そんな風にみえた?」
こくり、と。士郎にセイバーが頷く。
「ごめんごめん。ちょっとね、考え事してたから」
足を止めてはいなかったものの、街の空気に呑まれ思考に注意をとられすぎたか。気がつけば、公園には随分と近くなっている。
歩調を緩める。ここからどうするか大体の打ち合わせはしてあるものの、一応の確認はなければなるまい。
「――公園に何の備えもないとは考えにくいわ。場所が場所だし、何より綺礼のことだし。まあ、教会の地下みたいなことはないにしても、何かしら――いえ、誰かしら待ってるでしょうね」
「同感です。敵方の手の内が解らないのは残念ですが、仕方のないところでしょう」
セイバーが頷いた。いつもの愛らしい少女ではなく、一個の戦士らしい引き締まった面。こういう時の彼女は実に心強い。
「あいつら、土地の魔力自体が狙いみたいだからな。素直に通してくれるわけもないし」
「立ちふさがるなら叩き潰すまでよ。そう簡単にはいかないでしょうけど、セイバーもいるしね」
言葉交わす士郎と凛の影。セイバーは付かず離れず、不意の襲撃に備えて四方に警戒を怠らず、凛と士郎の傍らに在る。今のような状況では、この上なく頼もしいボディーガードだ。
「問題はあっちの手の内よ。一人ならいいんだけど――」
遠坂邸前での一戦を想起する。士郎がかなり善戦したとはいえ、セイバーの救援が無ければ凛も士郎も今頃この場にはいなかったであろう。二対一でもあの様だったのだ。あれに匹敵する輩が複数名存在する可能性を考えると、楽観など出来るわけがない。
角を曲がと、公園まではすぐだ。公園の門が目に入る。相変わらず人気は、ない。
「――まだ、何ともないな」
「ええ。今のとこは――ね」
人通りこそ無いものの、一帯は普通に視界に入るし、ここからでは結界も探れない。道路から見透かした限りでは、何の変哲も無い。
「行きましょう、リン、シロウ。足を止めている時間はないはずです」
引き締まったセイバーの面と口調。凛に士郎は軽く頷くと、公園へと足を向けた。
ミラーワールドのアリス第十四話「結界の支配者」
「あっちゃあ――」
新都の公園、中心部。
大火の出火点に近く、早々と焦土となった跡地に造られた空間。
一端が視界に入るな否や、凛がそんな呟きを漏らした。
外見に変容があるわけではない。焼き尽くされ草木の一つも生えない地と化したとはいえ、人の存在を許さない空間ではもう無いはずだ。
だが――今の此処は、違う。
空気の色が違う。
伝わってくる音が違う。
何より、放射される魔力の量が違いすぎる。
凛、士郎、そしてセイバーの目には、中心部を取り巻く空間がぐにゃりと歪んでいるようにすら見える。もしかすると、実際に空間が歪んでいるのかもしれない。
公園にまでの道中、人気が無いのを訝しく思ってはいたが、成程これでは無理もない。魔的なものに対する感覚が皆無な者でも、そそくさと退散して家かどこ
か安全な場所にひっこんでしまうであろう。勘働きが鋭いとしたら、熱を出して寝込んでしまうかもしれない。ましてや、前回の聖杯戦争に付随した騒ぎのせい
で、町の住人は危険に敏感になっていた。
加えて、強力な人払いの術が張られている様相もある。この場に向かう、という強靭な意志を持つ者――そう、今の士郎や凛のような――でもない限り、足を向けるという発想すら浮かぶまい。
「学校を思い出すな。あれとはちょっと違うみたいだけど」
「下手するとあれ以上よ。こんなに強力な結界を構築する魔術師なんて――」
士郎の云うのは、聖杯戦争初期、学園全体が人間の生命力を吸う結界に覆われた一件のことである。他者封印・鮮血神殿。彼の戦いに通ずる者ならば、其の名で記憶していよう。
ただ、今公園を覆っている結界は、鮮血神殿とは似て非なるものだ。鮮血神殿は生徒を招き生命力を吸い取る、いわば食虫植物のようなものであった。対し
て、此度、公園全体を覆うのは妖異な空気を吹き上げる西洋館のそれに近い。来る者を拒み、何とかして一度入れば生きては帰さない。そんな禍々しさがそこに
は――ある。
「中に入ったら打ち合わせ通りにね。頼むわよ、セイバー」
「はい、露払いは任せてください。正直不安は残りますが――」
セイバーの表情が僅かに曇った。公園に突入してからの計画を思えば無理もない。
中心に、魔力を吸い上げる術式か器物が仕込んであることは間違いない。そこを、敵の手になるものが護っているのも確定的だろう。
あらかじめ挑んでくるであろう敵をセイバーが引き受け、士郎と凛が一気呵成に術式なり器物なりを破壊する。敵の陣容が二段三段構えであった場合、凛、士
郎組も戦わねばなるまい。だが、一人一人に分散させられるよりは遥かにマシだ。セイバーはともかく、凛や士郎の戦闘能力はそこまで高くない。それを見越し
ての、突破策だった。
計画などとは名ばかりだ。強行突破に近い。というよりも、そのものであろう。
だが、手の込んだ手段をとっている余裕は無い。士郎もセイバーも、根本的に策士ではない。どちらかといえば、猪武者である。凛は凛で、大一番でツメをし
くじるという悪癖がある。複雑精妙、それゆえに不安定な戦法で挑んだ場合、ちょっとした過ちでその全てが台無しとなる危険性があるのだ。
おまけに、何といっても一刻を争うのが現状。手駒も足りない。となれば、四の五の謀を巡らすよりは、真っ正面から突破した方が、結果的に良い目が出ることになろう。聖杯を巡る戦いで、凛はそのように学習している。
「それじゃ、行きましょ」
透き通る声が響くと共に、三者は公園の中心、何者かが待ち受けるであろう場へと歩を進めた。
***
――空気が、重い。
比喩ではない。公園の中心、焦土に近づくにつれ、大気の粘性が増してくるのがわかる。
セイバーを先頭にたて、一行は黙って歩み続けていた。公園に相応しい子供の笑い声や、その親がくつろぐ姿はない。天地の下に、自分たち三人のみが取り残されたような感覚。
衛宮士郎にとっては、足を向けたい場所ではない。公園内に踏み入れば脳裏に浮かぶ、冬木を覆い尽くした十数年前の業火。聖杯の破壊を発端とするあの惨事は、士郎の心に鋭い爪痕を残している。我知らず視線が鋭くなり、纏う空気が厳しくなるのも無理もない。
視線を感じ横に目をやる。
ちらり、ちらりと。凛が気遣わしげに視線を送っていた。士郎は少しだけ気配を和らげる。
「心配するなって。俺は平気だ」
虚を付かれたように凛の動きが一瞬止まる。
微苦笑。
あわてて手を振り、場を取り繕った。
「あ、違う違う。士郎のことだもの。そういう心配はしてないわよ。信用してるし、ね。それより――」
す、と。表情が引き締まった。強い視線を中心地へと向ける。未だ見ぬ敵を、射抜くように。
「気付いてるでしょ?空気と魔力の密度が濃くなってるわ。何か、いる」
言われるまでもない。士郎の直感もがんがんと警報を鳴らしている。
空気を感じ取る天性の感覚と、魔術師としての修練。何より聖杯戦争での実戦経験による勘働きがこの先に何者かが待っていることを告げていた。凛もセイ
バーもそれは同様であろう。特にセイバーは、先ほどから触らば斬れん、とばかりに全身の感覚を研ぎすまさせている。戦いが近くに待つ証左といえた。
さらに歩む。狭い木立を抜けた、その刹那。
ぱあ、と。視界が開けた。
目に飛び込んでくる、広大な空間。
「――着いたな」
何とはなしの呟きに、凛とセイバーが無言で頷く。
第五回聖杯戦争の最終決戦の地であり、冬木を焼き尽くした業火の爪痕が未だ色濃く残る地。
微妙な違和感に空を見上げれば、怖い程に赤く染まった夕焼け。
何時雲が晴れたのか。もしやすると、晴れさせたのか。長く長く伸びる、影法師。士郎は忌々しげに、ソレを睨みつけた。
「――あんたか」
「?好。随分と待たせて貰いましたヨ」
中国圏の訛を意図的に残した、よく通る声。
ビア樽めいた体型を包む、最上質のスーツ。伊達な帽子。地面すれすれまで伸びた、妙に長いマフラー。一目見た限りでは、恰幅と愛想の良い紳士という趣を、黒眼鏡の下の冷たい瞳が台無しにしている。
今にも落ちてきそうな空の下で、吸血種・馬呑吐が酷薄に嗤っていた。
***
セイバーは身の内に戦慄を覚えていた。
自分は、幾千万の戦を経験してきた身だ。生前は国をめぐる数々の戦争。時代も時代であった。魔術師、幻獣、吸血種といった、超越的な存在を敵としたことも一度や二度でない。聖杯と契約して後からを考慮すれば、人ならぬ輩と戦うことにおいて十二分に熟練しているといえる。
その経験が告げている。
――あの男は、危険だ。
嫌らしい笑みを目にしただけで、全身が嫌悪に震える。飄げた口調、鈍重そうな外見に惑わされていては、命はおろか魂すら奪い尽くされるだろう。今まで戦ってきた相手とは、一味も二味も違う。
風王結界の手触りを確かめる。目を細め、男の気配を探った。さりげなく凛と士郎を背に隠し、ゆっくりと問う。
「貴様、魔術師――いや、不死者の類か」
「当たらずといえども遠からず、というところネ。幽棲道士、馬呑吐。以後見知りくださると助かるヨ」
道士、と名乗ることは中華の類であろう。セイバーは東洋系の怪異や術式に然程明るいわけではない。通り一遍の知識は持っているものの、それだけだ。彼女
の出自が出自であるうえ、聖杯戦争においても主役は常に西洋魔術師であった。ゆえに、この手の相手との実戦経験はあまり豊富ではない。剣をとって遅れをと
ることはなかろうが、油断出来るものではなかった。
だが、値踏みし、善後策を考えているだけでは埒はあかない。幸いというべきか、今己のすべきことは、単純明快だ。
す、と。セイバーが構える。
右足を微かに後ろにひき、風王結界を右脇に構えた。刃先を右斜め下に向け、ただでさえ認知不可能な得物の間合いを、一層解りづらくする。俗に言う、脇構え。
ただそれだけで、馬の様子が変わった。余裕綽々といった風情は変わらぬが、ポケットに突っ込まれていた両手のうち、右手だけが外に出てきている。服のそちこちが膨らんでいるのは札か何かか。セイバーと同様、無言で臨戦態勢に入ったのが見て取れた。
「――リン、シロウ」
馬から目を離さず、それだけを呟く。二人が頷きかえした気配がした。
「わかった――行くぞ、遠坂!」
「ええ!」
地を蹴る音。凛と士郎が走り出した。逡巡は無い。瞬く間に、馬を通り越して、公園の奥へと駆けてゆく。
(ここは任せたわ、セイバー。無理しないでよ!)
(わかっています、リン。シロウを――頼みます)
一瞬、視線が交錯する。信の絆で結ばれた間には、余計な言葉はいらない。
ふう、と。大袈裟な溜息が響いた。
「やれやれ――せっかちな子供達だネ」
ぎゅるっ。
マフラーが伸びた。
只の繊維で編まれただけのそれは、まるで意志をもったように士郎と凛を正確に追わんと蠢く。二人の走り去った方角に、マフラーが伸びていこうとするや否や。
きん、と。
空気を切る音。はらはらと、千切れた繊維が地面に落ちる。
風王結界の一閃が、馬のマフラーを鋭く切り払っていた。
「おやおや、あの子たちといい、お嬢さんといい、慌てものは損をするヨ。こっちの話くらい聞いても、遅くないネ」
「下がれ、馬とやら。剣の名に賭けて、此処からは断じて一歩も進ませぬ」
剽げて肩をすくめてみせる馬呑吐。
馬の口が裂けた。比喩でなく、文字通りに裂け開いた。
人間ではありえないほどの大きさに開かれた口。鋭すぎるほどに鋭い犬歯が光る。
其処から漏れるのは痙攣的な嗤い。
「それでは――お嬢さんが私の話し相手をしてくれるというのかネ?」
黒眼鏡を外す。温かみなど欠片も無い――じっとりと見つめてくる、粘着質的に冷たい瞳。
ぞくり。
セイバーの背に悪寒が走った。
言葉を返さず、柄を強く握りしめる。粘着的な視線を鋭く睨み返す、意志と誠に彩られた瞳。大きく、一息。
「――参る」
嗤いを張り付かせた吸血種に向かい、剣の名を持つ騎士王が走り出す――
***
「あれでしょうね」
凛が指差す先を、士郎が見やる。
視線の先、丁度公園の中心点に位置する場に、何かが設置されていた。
四角錐を丁度四分割した形の、石柱めいたモニュメントが東西南北に配置されている。モニュメントは正確に石から切り出したかのように滑らかな断面をみ
せ、黒曜石めいた渋い輝きを放っていた。高さはそれぞれが一メートルほど。それぞれを中心にむけて数十センチずらせば、四角錐が正確に再現されるだろう。
その頂点。まるで石柱が捧げ持つが如く輝く、一つの水晶。
――こんなものは、普段の公園には無い。あるわけもない。
つい先ほど、柳洞寺にて、同じ種の水晶を巡る激闘が繰り広げられていたことを二人は知らぬ。捧げされた水晶は、あれと全く同じ品。即ち、地の魔力を吸い
取り蓄える、古のものの水晶である。士郎には存在すら知る由もない強力な呪物であるが、凛は流石に水晶の正体を見抜いていた。
「あの水晶――もしかして」
凛が踏み出す。と、何やら訝しげに水晶を見つめていた士郎が、その動きを遮った。
「待ってくれ、遠坂。あそこの周り――何か、変だ」
何よ、とばかり。不満げに見返す凛。
士郎は黙って足元の小石を取り上げる。
放り投げた。
小石は孤を描いて水晶玉へと飛び。
コツン、と。
軽やかな音たて、弾き飛ばされた。
「二重の結界……!?」
凛の叫びに頷き返す士郎。公園全体を覆っている人払いの結界。その中でさらに、物理的障壁として機能する結界が構築されている。生半な術者に出来る技ではない。それこそ、その道のエキスパートでなければ不可能であろう。それ以上に――
「冗談じゃないわよ。結界の中に結界を張るなんて、掟破りもいいとこじゃない」
「そんなにまずいのか?まあ、確かにあんまり聞いたことないけど」
「当然よ。結界っていうのはそもそも、約束事を定義して、一定の場を区切ることよ。確かに二重三重の結界が存在しないわけじゃないわ。大きな神社なんかではよくあるし、私だって、工房の中心には、家とは別の結界を施してる」
ふう、と息をつく。深呼吸一つ。
「でもね。いい、結界の中に結界を張るとしたら、特定の約束事をより強固に護るためでしかないの。例えば、聖杯のまわりに二重三重、四重に結界があってもおかしくはないわ。“聖杯”という単一の法則を強く護ることが目的だからね。言い換えれば、幾つ結界があっても、その目的は一緒だし、そうでなければいけないの」
「だけど、ここのは――違うわ。公園を覆う人払いの結界。それに、あの水晶玉を護ってる物理レベルで干渉してくる結界。人為的な結界の中に、もう一回人工的な、それもとびきり強力なのを造ってるのよ。ルール違反だし、そもそも、普通の魔術師じゃこんなことは出来な――」
云い差して凛は言葉を切った。結界という概念をまくしたてていた口先が停止する。
眉を上げる。士郎が自分を見ていない。心ここにあらず、といった様子。
常ならば、真摯に耳を傾け、質問し、意見を述べるはずだ。理由もなしに聞き流すようなことがあるはずもない。なのに、今は明らかに別の何かに注意を奪われている。
この状況、この場で、士郎の注意をひくものなど、一つしかあるまい。
士郎の視線に、凛は己のそれを沿わせた。
その二つが一致しようとした時、士郎がゆっくりと、口を開く。
「なるほど。で、この結界を張ったのは――アンタだな」
「然り。そこな娘が云う如く、元来、結界の中に、異なる類の結界を張るは外法。されど、其れ故に外部からの干渉を排斥するには有効な手立てでもある。結界本来の意義からは外れようが、それもまた致し方あるまい」
重厚沈痛な、錆びた声。
凛は慌てて声の元に目をやる。
何時からそこに立っていたか。一つの影が微動だにせず佇む。
哲学者めいた苦渋の面、堂々と立つ袈裟めいたコートの巨漢。
吹きすさぶ風が、コートの裾を流した。
燃えるような夕焼けを背負う魔人の姿。凛はなぜか、背筋に寒気が走るのを感じた。
「で、アンタ――何者だ」
士郎の声は闘志が籠りながらも静謐そのもの。鋭すぎる瞳向け、男は沈痛、朗々と響く声で答えた。
「――魔術師、荒耶宗蓮」
***
男の様相はまるで彫像のようだった。士郎が連想したのはなぜか、どこの音楽室にもあるベートーベンの胸像。見た目こそ似ても似つかないが、苦悩を刻んだ表情がそっくりだったからだ。
凛は溜息一つ。ふぁさ、と。ツインテールを手で後ろに流す。
「これはご丁寧にどうも。私たちは――」
「名乗る必要は無い。衛宮切嗣の息子、衛宮士郎。遠坂一族の長、遠坂凛であるな」
「……オヤジのことを知ってるのか」
「直接の面識はもたぬが。些少なりとも聖杯を巡る諍いについて知れば、彼の名に出会うこととなるのは必然。私が知っていたとて何の不思議もあるまい。付せば、道の端において遇したのもつい先であろう」
――そうだ。
士郎は男に会っている。教会からの帰り道。空から降って来たのは正しくこの姿ではないか。
凛に視線を送ると、解っている、とばかりの頷き。とうに気付いていたのだろう。
「で、何なのよ、それ」
凛は水晶玉を指差し、問う。指が示す先に佇むそれは、気のせいかびくびくと、生ものめいて蠢いているようだ。荒耶は沈鬱な表情のまま腕を組んだ。
荒耶の腕に目をやる。断たれていたはずの右腕は何時の間にか常態に復している。治癒したのか、無理矢理繋げたのか。士郎には知る術は無い。また、今知る必要も無い。これほどの圧迫感を放つ相手ならばそういうこともあろうか、と納得してしまった程である。
「遠坂の名を持つ者とも思えぬ問いであるな。仮にも西洋の魔術を体系的に学んだものであれば、名と効用くらいは心得ていよう」
「知ってるわよ。古のものの水晶。一定空間の魔力を吸い上げ蓄える、極めて強力なマジック・アイテム。まあ、実物を見るのははじめてだけどね。私が聞いてるのは、そういうことじゃないわ」
「此の呪物を用いて何を為すか、であるか」
「まあね。アンタたちが何を企んでるか、大体の推測はついてる。でも――確証が無いのよ。その口からはっきり聞いておかないと安心出来なくてね」
士郎もわかってるわよね――凛は視線を向けずに云った。
「……いや、ごめん。冬木の土地と魔力が狙われてるってことしか理解してない。言峰たちの狙いは他にあるんだろうけど――まだ、ピンときてないんだ」
かくん。凛の肩が心無しが下がった気がした。あんたねえ、とでも云いたげにこちらに目をやってくる。
確かに自分は全貌を見透かしてはいない。それでも、はっきりとしていることはある。
「でも――さ」
荒耶を、そして水晶玉を睨みつける。
「今行われてるのが、良くないことだってのはわかってる。言峰が教会で土地の魔力の取り合いだって説明してたろ。それ自体許されることじゃない。俺たちの街はゲームの賞品じゃないんだ。それに、あんなモノが使われてるなら」
魔力を吸い上げ、蓄えるという水晶玉。蠢き不気味な輝きを放つそれからは、露骨なまでの障気と、にこごった悪意を感じる。公園全体を覆う気配といい、歓迎すべきモノであろうはずが、ない。
「――ブチ壊すまでだ」
両足を、肩の幅まで開く。呼気。吸気。魔力回路に精神を集中する。凛は腕を組んで、誇らしげに士郎を見やり、荒耶に視線を戻した。
「聞いての通りよ。云うまでもないけど、私も同意見。言峰も“戦え”なんて言ってたしね。どうせそっちも、交渉をするつもりなんてないでしょ? やることやった後で説明してもらってもいいしね」
凛の言葉に、荒耶は眉を寄せた――ような気がした。
ほんの僅か沈黙し、また重々しく口を開く。
「不要な戦は好まぬ。されど、龍脈の力を得る邪魔となるならば、話は別。私にとっても、この一連の儀式と冬木の魔力は必要なものであるゆえな」
言葉の刹那。荒耶の周囲の空気が、変容した。
ただでさえ沈痛重厚であったそれが、質量をもって士郎と凛へと迫ってくる。感じられるのはただ一つ、己の道を阻む障害を排除するという、意志。
大仰な動きも、大袈裟な宣言も無い。だが、それは明白な宣戦布告。
右腕を掲げ、左手を垂らした。荒耶の構えはそれだけである。
一拍。二拍。士郎は両手をぶらりと垂らし、念をこらす。
「――投影開始」
詠唱が、開始の合図だった。
体に馴染んだ、投影の詠唱。凛が肉体強化の魔力を付与すると同時に、士郎は姿勢を低くして荒耶へと走る。
両手に握られるは夫婦剣・干将莫邪。凛が次なる詠唱に入ったのが、耳に届いた。
走る。走る。走る。
荒耶は微動だにしない。
肉薄し、刀を振るった。セイバーによる訓練と、アーチャーとの戦いで身につけた実戦剣術。
「はぁ……っ!」
干将莫邪が、綺麗な円弧を描く。
荒耶はまだ動かない。かわそうとするでも、反撃に出るでもない。ただ、立っているだけだ。
易々と巨体を切り裂くとみえた刃は
「――っ!?」
緑のコートにも届かず、宙で静止していた。
「相応に鍛えているようであるな。だが――甘い」
本能的に上半身を反らした。鼻先を巨大な拳が通過してゆく。コンマ秒遅れたら、頭に直撃していたろう。
間合いをとり、目をこらす。一体何が、剣を遮ったのだ。
「士郎、気をつけて! そいつ、結界を張ってるわ!」
声が飛んでくる。
――結界を
改めて魔術師を見つめた。
――結界を、張って
ぼう、と。荒耶の足元に、三つの円が浮かんでいる。
見慣れた術式。見知ったシステム。これは――
「然り。我が周囲には、常に三の結界が付随している。投影魔術程度では、貫くことはかなわぬ」
錆びた声。この時点において、衛宮士郎と遠坂凛は、己らの敵が正真正銘の魔人であることを実感した。
***
士郎に凛。この二人が共闘する場合の基本戦術は、女魔術師キャスターと、そのマスターと戦った時より殆ど変化していない。
多少なりとも身体能力に勝る士郎が前衛を担当し、高い魔術的素養を持つ凛がバックアップを受け持つ。見ようによっては、術者と従者の関係だ。士郎が出来
る限り敵を足止めし、凛が魔術による身体強化などの援護。隙をみて、あるいは足止めさせておいては、破壊力の高い術を叩き込む。この戦闘方法は、士郎・凛
のコンビに限ったことではない。魔術師、特に西洋魔術の徒にとっては基本的ともいえる方法論である。
基本的ゆえに有効。そして同時に、単純ゆえに破り易い方法でもある。
破られる場合にも幾つかのパターンが存在するが、今回は最多の事例――
「……こりゃ、ヤバイかも」
――敵単体が、前衛を圧倒するだけの戦闘能力を有している場合、であった。
焦りを含んだ凛の呟きが、士郎の耳に届いた。
確かに、少々やばい。
――まるで、大人と子供だ。
士郎の剣先は、荒耶に全く届いていない。いや、届かない。
荒耶が干将莫邪の剣閃をさばいているわけではない。それどころか、剣戟をかわす意図など、欠片ほどもみせていない。
先ほどから同じことの繰り返し。士郎が切り込む、荒耶の手前で剣が止められる。間一髪で拳をかわす。
文字通りに、切っ先が届いていないのだ。空間を切り、荒耶の体に一撃を送り込むことが出来ないのだ。
「ぐっ……この……!」
「無駄な行為だ。我が周囲に張り巡らせた結界、容易くは破れぬ。断ち切るなぞ、直死の眼でも持たねば不可能に近い」
目を凝らせば、荒耶の足元に展開された三つの魔法陣。丁度その外枠において、士郎の剣は静止している。いや、静止させられている。
要するに荒耶は、ただ単純に、強力な結界を己が身に付随させて防具としているだけだ。単純にして明快だが、普通の魔術師では、そのような真似は不可能に近い。士郎はおろか、凛にとっても至難だろう。
荒耶の体術も普通ではない。かつて両儀式がその身をもって知ったように、荒耶は戦国の動乱を生き抜いて来た人間である。一瞬の判断力、身に染み付いた攻
防の最適間隔、単純な筋力や身体能力。どれをとっても、現代の学生が――たとえ魔術師だとしても――太刀打ち出来るレベルではない。セイバーやアサシンの
ように動乱の時代に生き、かつ英霊としての座に昇格した程の者でもなければ、抗しようもあるまい。
豪腕がうなった。
間一髪、士郎は上体を反らす。たった今まで顔があったところを、腕が通過していった。
倒れ込みつつ、一直線に伸びきった腕の付け根を狙い、士郎が刀を振るう。
荒耶は、かわすまでもない。必要も無い。
がきりと。鋼鉄を噛んだような音がした。今までと同じ、刀が結界に食い込み阻まれる音。
全ての感情を排したかのような瞳が、ぎろりと動いた。伸びていた腕が、常態に復す。間断なく、それはまた士郎を襲いくろう。
だが――
(こいつで、どうだ……!)
干将莫邪は夫婦剣である。
結界に阻まれた刀身をそのままに、左手の刀を半回転させた。
振るうのではなく、突くのだ。
切っ先が、荒耶の脚に届いたかのように見えた。
が。
「――無駄だ」
ぶん。
荒耶は今一度、無造作に腕を振った。
士郎の胴体を狙った、それだけの何気ない動作。だが、速度、筋力、圧力共に、人間のそれでは――無い。
かわす暇なぞなかった。
筋肉の壁を通り越して骨がきしむ音がした。
抵抗すら出来ず、宙を舞う姿。士郎は大柄でこそないが、筋肉質のしっかりした身体の持ち主だ。それを易々、まるで空き缶を吹き飛ばすかのように弾き飛ばす荒耶の腕力こそおそるべし。
軽く数メートルは空を舞い、士郎は地面に叩き付けられた。その時――
「――Das Schliesen. Vogelkafig, Echo」
「な――に?」
鋭く強い詠唱の響き。
振り向いた荒耶の視界に飛び込んできたのは、凛の右掌に収束された魔力の輝きだった。その距離、およそ7メートル。
可能な限り圧縮された高速の詠唱。展開された術式によって放出されるであろう術の威力は、流石に無視し難い。
腕を振り構える。荒耶の脚力と技量をもってすれば、7メートルなど一足の間合いに等しい。
地を踏みしめた、その刹那。
「ぐぬ……っ!」
ぶしゅ、と。粘液質の音をたてて右脚が血を噴いた。
士郎の斬撃は、防御結界を突破し、肉を傷つけていたのだ。跳躍すべく過剰に力をいれたことにより、本来なら問題にもならないはずの傷口が開いたのだろう。
勿論、この程度の怪我など傷のうちに入らぬ。だが――魔術戦闘においては、ほんの一瞬の遅延が致命打となるのも事実なのだ。
痛みと、それに伴う挙動の遅延を意に介さず、大地を蹴った。見る見る間に近づく、遠坂凛の姿。
凛は慌てず騒がず、詠唱を続けている。
無謀そうにみえて賢明な判断。純粋な肉体的能力で荒耶に劣る凛にすれば、出来る限り強大な威力の術を叩き込めるうちに叩き込むのが最善策であろう。
拳を振りかぶる。大気を突き抜けて疾走する巨躯。
3メートル。
1メートル。
30センチ。
風圧が凛の黒髪を揺らした。
鉄板すら容易に打ち抜く拳が目の前に迫った、その瞬間。
「遅いわ! Fixierung, EileSalve――!」
「ぐぬ……っ!」
魔力の解放。
雨霰と降り注ぐ、魔力の塊。
無数に分割され、空間を埋め尽くすそれらが、情け容赦なく荒耶を襲った。それも、丹田の位置、正確に、一点に集中して。
疾り、ねじり、防護結界を貫き、袈裟めいたコートに穴を穿つ。
盛大な爆音と煙をあげ、巨体が吹き飛ぶ。奇しくも、士郎が投げ捨てられた方向の近傍。
一個一個が、ハンドガンから射出される弾丸に匹敵する威力。その物理的破壊力に加えて、下手な障壁などものともしない魔力の嵐だ。その全てが一カ所に集約されている。いかに荒耶宗蓮といえど――
「やったか!?」
「油断しないで、士郎!」
身を起こし、吹き飛ばされた荒耶へと一歩踏み出した士郎。そこに、凛の叱咤が飛んだ。
叱咤は当然である。古今において「やったか」に類する言葉を発し、勝負が決した例があったであろうか。
無論、此度も例外では――ない。
「――っ!?」
士郎の足首を、万力の如き締め付けが襲った。
その気になれば鉄の塊を林檎のように砕けるであろうほどの握力。
何が起こったのか、士郎が把握する前に。
「――ぬん!」
荒耶は士郎を片手で持ち上げ、放り捨てた。
やや斜め下に向けて投げられたせいで、十数メートルのところで、体は地面すれすれとなった。水平や、斜め上に向けられていたらどこまで飛んだものか。
ずがん。
士郎の体が地に落ちる。大地が揺れたような錯覚。せいぜい170センチといった士郎の体格だけで、そのような迫力が醸し出されるわけもない。荒耶の筋力任せの投擲が、いかに圧力をもっていたか――ということであろう。
「ちょっと、士郎っ!」
凛の叫びへの反応は、ぴくりと体が跳ねただけ。返事は無い。
当然だ。剥き出しの大地に勢い良く体を叩き付けられて、無事でいられるはずがない。骨の数本は軽く折れようし、打ち所が悪ければ良くて気絶、悪ければ致
命傷だ。士郎自身の鍛錬された肉体と凛の防御魔術もあり、打ち所が悪くて即死などはなかろうが――直ぐに起き上がって動き出すなぞは期待出来まい。
荒耶が向き直る。感情を浮かべぬ面は、凛を次の標的と定めたか。
近づいてくる。その度に、深緑のコート纏った姿が巨大に膨れ上がる錯覚。
圧倒的――だ。
「流石にちょっとばかりまずそうね、これ……」
不適に口元歪め、呟く。強く鋭い視線こそ荒耶を見据えて怯むことないが、頬を一筋の汗が伝った。
緊急時に備え仕込んでおいた宝石は、先日からの騒ぎでとっくに底をついている。家中を漁れば強力な呪物の一個や二個出てこようが、そんなことを出来る状況でもないのは一目瞭然だ。
地を揺るがすが如き迫力をもって、魔術師、荒耶宗蓮がまた一歩を踏み出した。
最早、手を伸ばせば届く距離。衛宮士郎は倒れ伏し、セイバーは遥か後方で不死者を敵としている。目の前に立ち塞がるは、術において己と同等かそれ以上であり、虜力においては比較にもならぬ魔人。
凛の手に魔力が集中する。荒耶が拳を握りしめる。
そして 二人の術者が激突しようとする頃、また一つの影が公園へと近づいて来ていた。
(第十四話・了)
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