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闇である。
一面の闇である。
降り続いていた雨足は弱まったものの、暗雲は未だ晴れず上空を覆い尽くす。午の五つとも思えぬ、夜半のような街の姿。
此処は冬木市は柳洞寺、山門へと連なる石段。足腰を鍛えるためにか傾斜は厳しい。常ならば、冬の冷え込みにも関わらず修行を積む僧形が見られることであろう。
だが、今日の其処には、人気が無い。否、寺や山門に限らず、周囲一帯に人の姿が見えぬし、気配も感じられぬ。
昼を回り、夕刻へと差し掛かる刻限。淡々と静かに、ただそこにある山門。
ひゅう
冷たい風が吹き抜ける。
ふと。
ふらり、と。
山門より現れたは、一つの影。
姿を認めたものがいたとしたならば、まずは違和感に首をひねり、続けて感嘆の声を漏らしたであろう。
その影、長身の青年は、あまりにも時代錯誤であった。
面立ちはあくまで涼しげ。悠揚迫らぬ物腰。
流した長髪。洒脱な藍の陣羽織。そして、手にある数尺はあろうかという抜き身の刀。それこそ、時代劇の役者としか思えぬ。街中で出会ったならば、失笑してしまうような姿だ。
しかし同時に、その出で立ちがあまりにも似合っているのだ。この若者には、現代のいかなる装束も相応しくあるまい。
アルマーニのスーツ、王侯貴族の贅を尽くした衣装を纏わせても、どこかぎこちない、本来の姿でないという感情がつきまとうはずだ。
青年に相応しいのは、矢張りその陣羽織と長刀であった。いわば戦国の絵巻物から抜け出してきたといった風情。
若武者、と。
形容するのに最も相応しいのはその言葉であるか。
さあ、と。
ほぼ止んでいた雨が、一瞬だけ強まった。若武者は空を見上げ、柳洞寺へと続く長道に目を戻す。
いつの間にか彼の視界には、迫り来る一つの姿がはっきりと映し出されていた。
「なあアル、その柳洞寺ってとこでも、誰か待ってるんだろうかな」
「わからぬ。向こうの手の内は未だ不明だからな。だがあの神父、相当な喰わせ者だ。黙って通して貰えるとは思えん」
「ま、そいつは同感だ」
人の姿が無いのを良いことに、マギウス化した士郎は宙を疾走していた。マギウス・ウィングを展開し、路面を蹴って、壁を支えとし、高速で柳洞寺へと向かう。万が一にその光景を目撃したものがいたとしても、人間の姿と視認出来るかどうか。
数分を待たず、長く続く道の先に立派な石段と山門が姿を見せた。マギウス化により魔術的に強化された視力は、「柳洞寺」との表記をしっかりととらえている。
とん、と。翼をたたみ地に脚を降ろした。ふわり。肩のあたりに浮かぶのはちびアルの姿。白にと変色した髪と鋭い瞳、体にぴったりフィットした黒のボディ
スーツを纏う大十字九郎の姿は、精悍そのものだ。最も、周囲に人の姿が無いからこその凛々しさであって、服装だけでいえば変態に近い。
「しかしまあ、すげえ魔力だな……」
「うむ。流石は冬木市の霊的中心地と言うべきであろうな。油断するなよ、九郎」
「おう」
柳洞寺、ひいてはその中心部から放射される無形の力を感じつつ、堂々と道の中心へと踏み出す。攻撃的な結界や、進行を妨害する罠の気配は感じられない。
石段に足をかけた、その時
「待っていたぞ」
「――!?」
愕然として九郎は石段を振り仰いだ。今の今まで欠片ほども感じられなかった気配。
石段の奥、山門のあたりに朦朧とした影。薄暗いとはいえ、まだ夕刻。姿がはっきりと見えぬのは、逢魔が時故だろうか。
かつ、かつ。石踏む足音。茫、と。空気をかき分けて一つの姿が石段を降りてくる。霞んでいた輪郭が、少しずつその姿を露とし始めた。
「そう警戒することもあるまい。逢魔が時とはいえ、挨拶も無しに斬りかかるほどの無粋者ではないつもりだ、私は」
流れるように、涼しげな声が響いた。雲間の切れ目から一瞬だけ薄暗い陽光が覗き、また消え去る。
刹那に、九郎とアルの目の前、石段の最中に一人の男が立っていた。美形、と言うっても良い面立ちであろう。まとめて流した長髪に、爽やかな色合いの陣羽
織に袴。切れ長の瞳はどこまでも落ち着いており、どこか湖畔を思わせるものがある。先ほど、疾走する九郎を石門から見つめていた若武者だ。もっとも、九郎
たちはそのことを知る由が無い。
九郎はその姿を前に思わず動きを止めた。怯えたわけでも、気圧されたわけでもない。若武者の悠揚迫らぬ物腰を訝しげに感じたのもある。状況を見極めようとのもある。だがそれ以上に、九郎の注意をひいたのは、その若者が身に纏う気配であった。
場と状況を考えれば、この若者は明らかに戦うための存在、九郎たちのとっては敵である。というのに、全くといって良い程敵意や殺意が感じられないのだ。余裕綽々といった態とも違う静謐な落ち着きは、九郎が今まで戦ってきた相手からは感じたことがないものであった。
「……早速かよ。準備のいいことだ」
舌打ち一つして深呼吸。気を取り直して手を握ると、指の関節がこきこきと鳴った。全身は力を抜いていながらも、いつでも臨戦態勢へと入れる心構えだ。油断の欠片もないのは、流石に熟練の戦士である。
だが、相棒の戦士、アル・アジフは違った。魔力節約形態で九郎の肩に浮いたまま、若武者を見据える。視線に油断はないものの、今から戦う、といった風情ではない。
「おい、アル……?」
訝しげな九郎には答えず、アルはその若武者を指差す。
「そちらから出向いてくれるとは丁度良い。お主らに聞きたいことがあったのだ」
「なんなりと。件の女狐に呼ばれて以来の現世。せっかくの機であるゆえ、知る限りにおいてはお答えしよう」
錆びていながら透き通るような爽やかな声。アル、うむ、とばかりに頷いて
「汝、かの神父らの仲間であろう。即ち、本来ならば現世にあらぬ者のはず――なれば汝ら、何者に呼ばれ来たのだ。神父の説明はそれなりに筋が通っていたが、どうやって汝らがこちらの世界に来たのかは説明しておらぬ」
「申し訳ないが、私に関する限りそれには答えられぬな。死ぬ――いや、私の場合は消滅する間際に何者かに呼ばれ、気がついたらこの世界に身があった次第」
ふむ、と思案げに頷くアル。九郎も体勢を少し楽にし、見つめ問う。
「俺も一ついいか」
「構わぬよ。問いの仔細については検討がついてはいるが」
「あんたらの――少なくともあの神父さんやらはここらの魔力を狙ってるそうだな。そりゃまあ、アンチクロスの連中だっているんだし、恨みつらみってのもあ
るだろう。だけどさ、それだけじゃ街全体の魔力を狙う理由がわからない。誰に、どうやって呼ばれて此岸に帰ってきたかはともかく。あんたらは一体何がした
いんだ」
「ふむ、大方の者どもは居場所が欲しいのであろうよ。此岸に戻ってきたとはいえ、生者は死者を受け入れることなど出来ぬ。私が真に生きていた時代とて、黄泉に近き者は忌避された。術師や外法の徒とて同様であったよ。数百数千を経た時とはいえ、そうそう変わりはあるまい」
九郎の眼前、陣羽織の青年は口元を歪ませる。微笑であるか嘲笑であるか。外からでは容易に伺い知れぬ、ただそこにあるだけの薄い笑み。もしやすると、己自身を嘲笑っているのかも知れぬ。
「もっとも、かりそめの同胞共はそうは思わぬようだがな。魔界都市とやらならば可能であろうと、真剣に信じている模様。ここまで言えば、彼奴らの目論見も大方は見当がつこう」
「そのようなところであろうとは思っていたがな」
やれやれ、とばかりにアルが掌を天に向け、呆れたように溜息をついた。軽い冗談めかした仕草。その表情の奥に強い危機感が覗くのを、九郎だけは看破した。世界最強の小生意気な魔導書がこんな表情をする時は、ロクなことがない。
肩に乗る少女にだけ聞こえるよう、九郎はそっと声を出す。
「……なあアル」
「うむ、我が主よ。これは容易に聞き捨てならぬ事態だ。奴らめ、とんでもないことを狙っておるな」
「いや、あっちはああ言ってるが、あいつらの狙いっての、俺には見当もつかないんだが……」
申し訳なさそうに身を屈める九郎。アルはそんな主人の姿をきょとん、と一瞬見つめ
「……ええい、相変わらず汝は鈍い!後で教えてくれるゆえ、少々黙っているが良い!」
腰に手を当てて若武者をびしりと指差し振り向いた。九郎への説明は後回しらしい。
「こほん……では最後に一つ。お主はどうなのだ?妾の見るところ、汝も彼岸より還り来し類であろう。この現世に居場所が存在し得ると、そう考えておるのか?」
「欠片ほども信じておらんよ」
「ほう?」
アルの瞳が興味深げに細まった。陣羽織の武者は、瞳を閉じ薄い笑みを浮かべる。
「知れたことであろう。この世の理に縛られぬ者は、所詮現世に永住することなど出来ぬ。魔界都市とやらとて、人が住まい日々暮らす地であろう。我ら還り人のいるべき場ではあるまい。なれば、死すべき時に死なぬは恥知らずなだけよ。是非にも及ぶまい」
弁舌爽やかに云い放つと、若武者は爽やかに笑った。思わず笑い返したくなるような笑みだった。これから何がどのように起こるかを知っており、それに心から期待している。そんな純粋一途な笑顔だった。
「とはいえ、私は私で此処にいる理由はあるのでな――問答は終わりだ。貴様らが此処を通るというなら、相応の挨拶をせねばならん。せめて名を聞いておこうか」
ぴしり。空気が緊張する。若武者の姿勢も表情も変わらない。それなのに、空気だけが変わった。ただの魔力溢れる寺から、一瞬の油断が命を奪う戦場にとなっていた。つまり、若武者の問いは、戦場での名乗り上げであった。
だからこそ。大十字九郎とアル・アジフも、深く息をつくと素直に答えた。
「大十字九郎。ただの探偵だ。正義の味方でも魔術師でもないぞ」
「妾はアル・アジフ。大十字九郎のパートナーにして、世界最強の魔導書なり――して、汝は何者か」
「アサシン――佐々木小次郎」
アサシンが柄の握りを返す。四尺はあろうかという刀剣。刀剣というより、それは既に長巻か長刀の類であろうか。
刃が雲間からの光を照り返すのと。大十字九郎が跳躍したのとは、全くの同時であった。
ミラーワールドのアリス第十一話「死ぬことと見つけたり」
――時同じくして、遠坂邸前。こちらも人気の無い道路。正確に言えば、平和な生活を送る市民の姿が無い道路に、閃光が走っていた。
きん。
ききん。
金属と金属が噛み合う音。一陣の疾風が、衛宮士郎の周囲を駆け抜け続ける。
「おら、さっきの威勢はどうしたよっ!」
「ちっ……!」
地面はおろか、壁、電柱、果ては電線までを足場とするクラウディウスの機動力に、士郎は防戦一方だった。マンホールの蓋を蹴って飛んでくるかと思えば、
次の瞬間には重力を無視して壁に垂直に立ち、ベーゴマめいた武器を投げつけてくる。回転しつつ空気を裂くそれを何とか弾けば、矮躯は既に己の背後に回って
いる、という寸法だ。
「ほーらほら、遅いって。ボク、欠伸が出ちゃうなあ」
「ちょこまかと……っ……!」
士郎の目の前1メートルといった近距離で、ベロベロと舌を出すクラウディウス。咄嗟に干将莫耶を水平に振る。士郎の腕は決して悪くない。そもそも魔術師
とは身体を鍛えるものである。技量、身体能力を兼ね備えたその斬撃をかわすのは、熟練の剣士であっても容易ではなかろう。
だが、相手も魔術師。それも、一人で一軍を相手に出来ようかという存在である。
ひょい。
横薙ぎの一撃が振るわれた瞬間、クラウディウスの右手が士郎の手首を捉えたと視認出来た者がいたかどうか。
「あらよっと」
「っ!?」
クラウディウスは手首を捉え、軽く上方へと力のベクトルを向けた。手首を解放するな否や、ぐん、と士郎の体が宙に浮かび飛ぶ。合気柔術などにみられる、力操作の技術か。
空中では体勢の立て直しなど出来ようはずもない。士郎は凛が倒れたままのコンクリート塀へと投げ飛ばされ、余裕の笑みを浮かべるクラウディウスの姿がまた掻き消える。
次の瞬間。激突のまさに間際。士郎とコンクリート塀との間に、クラウディウスの姿が出現した。少年らしい活動的な服装が風になびいた。150そこそこか
の体躯はまるで空中を歩むかのように静止している。身軽というよりも、重力の枷がないかのようだ。それでいて、魔力の放出は必要最低限しか感じられぬ。段
違いの運動能力とはこのことだろう。アンチクロス大幹部の名は伊達ではない。この少年もやはり、魔人であった。
くい、と。クラウディウスの足が力ためて曲がるのを、士郎の視覚ははっきり捉えた。アイマスクから覗く瞳、酷薄に細まって
「ほーらよ、飛んでけ!」
サッカーボールを蹴る要領で振るわれた脚は、見事なほど的確に士郎の胴体をとらえた。見た目は小学生のそれだが、破壊力はプロの格闘家以上だ。肋骨の歪
む感触。無理矢理歪まされた胸部が肺を圧迫し、呼吸が一瞬停止する。受け身どころか身を支えることも出来ずに、士郎は反対側のコンクリート塀に激突した。
ぐしゃ、と嫌な音が響いた。ずり落ちた士郎が咳き込むと、血の塊が吐き出された。干将莫耶が手を離れ、からからと音立てて地面に転がる。
(内臓、やっちまったかな……)
激痛に表情を歪ませる士郎。クラウディウスが地面へと降り立ち、馬鹿にしたように肩をすくめる。
「あーあ、最初だけかよ。つっまんねーの。これなら大十字九郎を殺りにいってたほうが良かったぜ」
士郎は答えない。答える余力が無い、と言ったほうが正確か。胴体を直接に蹴られた衝撃で、全身がまだ痺れている。呼吸をすれば肺が痛みを伝え、指先を動かそうとすれば骨が軋んだ。下手に声でもだそうなら、吐瀉物か血が口から溢れてきそうだ。
踏みつけられた干将莫耶が乾いた音たてて割れた。
「しばらく立てないだろ。ここでボコっちまってもつまらないしなあ……」
クラウディウスからみて右手には、痛みで動くもままならない衛宮士郎。左には、塀に激突して以来気を失ったような遠坂凛。何やら首をひねっていたクラウディウスは、ふと、何かを思いついたかのように手をうった。心底楽しそうな笑みを浮かべると
「ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な――っ、と」
凛、士郎、と。言葉のリズムにあわせて交互に指を指してゆくクラウディウス。
子供らしい、微笑ましい仕草に思えるだろう。だが、この“子供”は、熟練の魔術師たちを易々と倒す実力と、苦痛に苦しむ相手をいたぶる邪悪さを兼ね備えている。実に性質の悪い子供だった。
この指差し確認が何を意味しているかは明白だ。凛と士郎、どちらを先に犠牲にしようかという、それだけのこと。だが、その仕草が実に子供じみており。かつ何をされるかわからないという不透明感。ある意味で、直接的に攻撃をくわえられるより遥かに不気味といえた。
「か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り――OK、そっちからに決定だ」
士郎の背筋が泡立つ。順々に振られていた指先が凛を示していた。
自分ならば良い。全身くまなく痛めつけられているとはいえ、何とか身を引きずることくらいは出来るだろう。もしかしたら投影魔術を用いる隙くらいあるかもしれない。
だが、凛は?
意識を失い、壁際にもたれたままの少女が、クラウディウスの餌食となったらどうするか。
逃げる手段は無い。士郎が駆けつけて助けるも間に合うまい。身を起こそうとするも、ずる、と自分を引きずるだけで精一杯だ。どうしょうも、ない。
士郎の苦悶を尻目に、クラウディウスの右手が軽く振られた。無造作に、凛がもたれた塀をめがけて。
頑丈なはずのコンクリートの塀に、一つの黒点が穿たれた。続いて一つ。何事かと士郎が塀を見つめる。また一つベーゴマが飛び穴が開くと、塀全体がぐらり
と揺れた。四つ目。塀はぐらぐら、ぐらぐらと揺れだす。構造を支える力点を正確に打ち抜かれ、崩壊寸前とされたのを士郎は看破した。
「さて、続いて五つ目。何が起こるかわかるよな」
「やめろ!!」
士郎が絶叫し、続いて咳き込む。次の一点が打ち込まれれば、塀は脆くも雪崩となって崩れ落ちる。街中の塀とはいえ、コンクリートの塊だ。粉々に砕かれれ
ば刃のように尖った破片も、質量の塊となる破片もあるだろう。コンクリートの重さについては言うに及ばず。そんなものが、肉体的にはただの少女である凛
に、勢い良く降り掛かればどうなるか。想像もしたくない。
クラウディウスが士郎を振り向いた。にやにやとした底意地の悪い笑いと、圧倒的優位にあるという優越感が、幼い表情を醜く歪ませている。
「あん?何、ボクに命令してんのさ。やめてください、だろ?」
「……っ」
ぎり、と。士郎は歯を噛んだ。あまりに屈辱的な状態。自分は身動きもかなわず無様に倒れ、相棒にして想い人の少女の安否は敵の手に握られている。意志の強さだけは僅かなりとも衰えない瞳が、クラウディウスを射抜く。
一方。いやらしい笑いを張り付かせたまま、クラウディウスが士郎の元へと歩んでくる。見下ろすというより、見下した構図だ。暗い空の背景は、アンチクロス大幹部の少年の背景として、実に良く似合っていた。
ふん、と鼻を鳴らすと、クラウディウスは足元の顎を蹴り上げる。もんどりうって倒れる士郎。
「……ったくよ、大十字九郎といい、お前といい、その眼が嫌なんだよ。もういいよ、遠坂凛の次、お前な」
クラウディウスが軽く手を振る。音速を超えるベーゴマが塀を直撃した。
屹立と崩壊の最中ぎりぎりにあった塀は、その一撃に容易に屈服した。支柱が折れ、ブロックとブロックの繋がりがたわみ、自重と互いの重さで割れてゆく。バランスを失った塀は、雪崩となって凛の頭上へと覆いかぶさった。
ずしゃあ。
思った程の迫力は無い音と共に、残骸と化した塀が凛へと降り注ぐ。崩壊とそれに伴う煙のせいで、何がどうなっているか、士郎にもクラウディウスにもはっ
きりとは判別が付かない。だが、あれだけの重さと、危険に尖った破片をまともに頭から受けて、凛が無事でいられるとは思えなかった。
「遠坂っ!!」
顔を絶望に染めて叫ぶ士郎。痛みと傷で自由にならない身がもどかしい。対するクラウディウスは、喜悦に顔を歪ませて大笑い。
士郎は怒った。頭に血がのぼった。がばりと無理に身を起こすと、クラウディウスに斬りかかろうとした。クラウディウスは易々とかわし、蹴りを腹に叩き込んだ。士郎がたまらず一歩さがると、軽くジャンプして顎を蹴り上げた。
苦痛の言葉もなく士郎は崩れおちた。状況は絶望的だった。
クラウディウスがもう一度蹴りを叩き込もうとした時だった。
「……調子乗ってんじゃないわよ、ガキんちょのくせに!」
「うわっ!?」
表に出ない怒りがにこごったような一声。続けて、クラウディウスに向け何かが降り注ぎ、その体を後退させた。
詠唱も無く、クラウディウスの全身にガンドが叩き込まれていた。それも、ただのガンドではない。魔術師が常に最低限は展開している防御用の結界を易々と突破し、クラウディウスの体を数メートル先まで跳ね飛ばすほどの威力である。
通常ではあり得ぬ破壊力であった。クラウディウスには完全に予想の外であり、士郎にとってもこの瞬間に来るとは想定出来なかった一撃であった。空気を切ったガンドの塊を尻目に、士郎はある姿を予感して振り向いた。
荒い息をつき、遠坂凛が立っていた。右手は水平にと突き出され、指と指との間には二つの宝石が握り込まれている。片方で防御の結界を展開し崩れ落ちる塀
から身を守り。もう一方で今のガンドを放ったものであろう。咄嗟の一撃とはいえ、タイミングの計り方の見事さは、さすがに音に聞こえた遠坂凛であった。
「助かったわ、士郎。声が聞こえたからね、ぎりぎり間に合ったみたい」
魔力を放出して空となった宝石を懐中に戻し、凛が少しだけ表情を柔らかくする。してみると、士郎の叫びによって意識を取り戻したものであろうか。
頭を振る。気力を振り絞り、士郎は何とか立ち上がった。凛の無事な姿と頼もしい笑顔に元気付けられたか。意志の強さで肉体の痛みを克服し、しっかと大地に足を据える。このあたりの精神力は、見事であった。
「怪我は無いのか、遠坂」
「自分のほうを心配しなさいよ。ま、今は心配より先に――することがあるけど」
「……みたいだな」
その通りであった。宝石の魔力をこめたガンドとはいえ、一定の距離と、正確無比な狙いを定める余裕が無い状況では、必殺とまでの威力は期待出来ぬ。一定
の手傷を負わせることは出来たであろうが、それだけだ。事実、ガンドによって数メートル吹き飛ばされたものの、クラウディウスが倒れるような様子は無い。
(これは、今このままじゃかなわないかもね)
声にこそ出さなぬが、凛はそう思った。魔術師としての冷静な判断である。
純粋な魔力量と技術ならば、凛もクラウディウスに遅れをとるつもりはない。魔術結社の大幹部らしいとは聞いてはいるが、凛とてこの若さで協会でも右に出る者は数えるほどしかいないのだ。そんじょそこらの“幹部”程度では、凛に正面切って太刀打ちできるはずもない。
相方の士郎とて同様。魔力量と技術こそそれなりにすぎないが、投影魔術という武器があるのは大きい。そして、現存する術師ではほぼ皆無といえる固有結界
の使い手である。クラウディウスの虚をつき一撃を叩き込むには、最適の人材であった。何よりも、士郎は己と心を通わせた最良にして最高の相棒である。
だが同時に、クラウディウスの圧倒的身体能力、戦闘に特化した魔術的能力には、今の自分たちでは逆立ちしてもかなうまい。相応の準備があればともかく、
純粋な身体能力では、凛も士郎も「優秀な魔術師」の範疇を出ないのだ。三次元的な高速移動を可能とし、四方八方から攻撃を繰り出してくる魔人相手では少々
荷が重い。
「……やってくれたじゃねえか」
凛がそこまで思考を走らせると、クラウディウスが動き出した。十字形に交差させていた両腕を降ろし、低く呟く。
表情は怒りに歪んでいた。 額に浮かぶ青筋が、何より雄弁に心中を物語っていた。あどけないともいえる童顔は、眼を血走らせて士郎と凛を睨みつけている。凝集する魔力が、手にとるように感じられた。ごうごうと、風が鳴ったのは気のせいではあるまい。
「大怪我程度で許してやろうと思ってたんだけどな……もういいや。お前ら、ここで死んじゃえよ」
クラウディウスの眼が危険な光を帯びた。特別な動作も、はったりがかった仕草もない。ただただ、凝結した魔力と殺気が、びんびんに吹き付けてくる。魔力
に対する訓練を積んでいない常人ならば、この場で昏倒しかねない危険な香り。凛にも士郎にも、本気さがはっきりと伺い知れた。
「宝石はもう種切れよ。どうするの、士郎」
「どうする、じゃないだろ。どうにかするんだよ、遠坂」
「……そう言うと思ったわ。それじゃま、死ぬ気でいきましょうか」
「ああ、背中は任せた」
「任されたわ」
不敵に頷きあう二人。凛と士郎も身構える。
風に吹かれて一枚の新聞紙が、道路を舞った。静かに、吹き流れ去る。
クラウディウスと、凛と、そして士郎とが。おのおの動き出そうとしたその刹那――
「――術師よ、貴様の言葉、宣戦布告と受け取った。なれば己が斬られるも厭わぬな」
ぞくり。
凛々しく、そして鈴の音を思わせる透き通った声が響くや否や、宙へと飛んだのは流石はクラウディウスと言うべきか。
コンマ秒の後、風切り音と共に、クラウディウスの立っていた場所を斬撃が襲った。一瞬でも跳躍が遅れたならば、クラウディウスの体は真っ二つになっていただろう。
「っ!?何モンだ、テメエ!!」
クラウディウスの声は焦りに彩られていた。当然であろう。この自分が、風よりも速いアンチクロス・クラウディウスが余裕の一片も無くすほどの一撃であっ
たのだ。避けられたのは行幸にすぎない。凛・士郎相手の戦いに突入していたら、万に一つもかわすことは出来なかったであろう。大十字九郎の銃撃も、ここま
での速度と殺気は有していなかった。熟練の戦士、それも近接距離での戦いに特化した戦闘者が持つ必殺の一撃であった。
残る二人は、それが誰だか解っていた。凛にとっては現在の使い魔にして、友人。士郎にとっては、戦友であり、凛とは異なる意味合いでの最良の相棒。
ぴょこん、と一房が飛び出た金髪が風に揺れた。小柄でありながらも戦士ならではの迫力をかもしだす姿。
不可視の長剣携え、白銀の鎧纏う、少女の名は――
『セイバー!!』
凛と士郎の声が唱和する。
中世の大英雄。過去と未来の王にして、最優のサーヴァント。騎士王、セイバーは、二つ名に相応しい姿で、雄々しく美しく剣を構えていた。
(第十一話・了)
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