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「……ここよ」
しとしとと降り続く雨の中、遠坂凛は足を止めて呟いた。衛宮士郎が静かに頷く。二人に続くは大十字九郎とアル・アジフ。そして黒衣の人捜し屋、秋せつら。遠坂邸から数十分、坂を上りきると、全員共通の目的地が目の前に現れる。
薄暗い雨空の下、教会がそびえ立っていた。ベッドタウンである冬木に相応しい、豪奢にすぎず、同時に簡素すぎもしない造り。設計者のセンスの良さを伺わ
せる。形状的には、長崎の天主堂に酷似していた。教会を形作る白壁は清潔そのもの。どこからどうみても、文句の付けようの無い「教会」である。
教会の前に少しの階段が伸び、扉へと続いていた。五人は無言で階段へと足をかける。先頭は緊張感みなぎる凛、続いて士郎。その後ろに、九郎とアルが横並
びといった順番だ。この二人もまた、一種の警戒からか気配が鋭い。殿をつとめるせつらだけは、いつもながらの茫洋たる面持ちと超然とした態度を崩していな
かった。
凛は扉をノック。きっかり二回。鉄製の扉が打ち叩かれ、重い音が響く。
待つ事しばし。
ぎい、と両開きの扉が教会の中へと向けて開いた。
「行くわよ、士郎」
残りの三人は眼中に無いがごとく、さっさと教会へ歩み入る凛。慌てて士郎、九郎が。傲然とアルが。そしてあくまでゆったりとせつらが扉の中へと向かう。
ぎい。
ばたん。
せつらが通り過ぎると、誰の手も触れずに自動的に扉が閉まった。誰一人振り向かない。わざわざ気にするようなことでもない、とでも言いたげに。
会堂は薄暗かった。両端に並ぶ木製の長椅子。扉の前に佇む皆の視線は、ある一点へと集中した。真っ直ぐに走る通路から続く壇上、そこに何者かが後ろ手を組んで立っている。その視線は扉の反対、真正面に掲げられた十字架へと。重い緊張感の中、誰も声を出そうとしない。
待つこと数秒か、数分か。その人影がゆっくりと振り向いた。
「ようこそ、我が教会へ。本日この場をあずかる、言峰綺礼だ??久しぶりだな、凛。それに衛宮士郎」
肩口まである微妙にはねた髪。長身を彩る荘重なコート様の神父服。鋭く余裕綽々とした瞳。傲岸さをたたえた面持ち。右掌を天へとかざ笑むその姿は、間違いなく、言峰綺礼と呼ばれた男のものであった。
ミラーワールドのアリス第九話
「鏡の国の魔術師」
がらんとした教会に、言峰の声は良く通る。朗々とした響きの中、衛宮士郎と遠坂凛をはじめとする一行は、水を打ったように静まり返っていた。
??死んだはずの人間が、生きている。
凛や士郎といった魔術師であれば、半ば不老不死といえる存在も知らぬではない。死んだとしか思えない人間がひょっこり現れることも、可能性としてはあろう。
ただ、凛にとっても士郎にとっても、言峰は聖杯戦争で少なからぬ縁があった相手である。ましてや凛にとっては兄弟子。聖杯戦争で恨み骨髄に至る相手とは
いえ、死去した折にはある種の喪失感があったのも確かだ。そんな相手が死から蘇って悠然と立っている。この状況で平然としているには、凛も士郎もまだ若す
ぎた。
誰も言葉を発しない。九郎とアルは今は己が脇でしかないことを自覚しているのだろうか、おとなしくしている。状況がいまいち掴めないということもあろうか。
数秒。沈黙を破ったのは
「ふわぁ……」
場違いといえば場違いすぎるあくびだった。全員の目があくびの主に集中する。
「……あ、これは失礼。どうぞどうぞ、話を続けてください」
奇妙な緊張感など意にも介さず、ぼんやりとせつらが言う。眉目秀麗なこの青年は、我関せずとばかりに突っ立っており、あくびをして悪びれる様子も無い。そんな様子ですら微笑ましく思えてしまうのは、とろんとした美貌のゆえか。
一行は微苦笑し、溜息をつく。ようやく、緊張がとけた。
「お久しぶり。まさかまた会うなんて思ってもいなかったけどね」
腕を組んで、じっとねめつけながら凛が答える。持ってきた木刀を下げて、士郎も言葉を続けた。
「言峰、聞きたいことは山ほどある。何を企んでるのかも気になるしな。だけど、とりあえず……」
「とりあえず、何かね?」
「……なんでお前、生きてるんだ」
凛と士郎にとっての最大の疑問点を、真っ正面からぶつける士郎。強い意志のこもった瞳と、全てを見透かすような瞳がぶつかった。言峰は顎を撫でると、腕を後ろに組んで思案気な顔になる。
「さて、どこから説明したものかな。そこのアル・アジフ嬢を呼んだ理由も説明せねばなるまい。そう慌てずに、少し私の話を聞いていってはどうかな」
「まあ、もっともね。こっちにしても説明してもらわないと解らないことが多すぎるし……」
「うむ、妾もわざわざ出向いたのだ。相応の話は聞きたいところだな」
凛とアルが答えた。こうなると士郎と九郎に選択肢は無い。せつらはせつらで、関心があるのかないのかぼんやりとしたまま。言峰は一行を見渡すと、満足げに頷いた。
「ふむ、では順序立てて説明するとしよう。まあ、かけたまえ」
椅子を勧めると、説教をはじめるように壇上に位置する言峰。固唾をのんで皆が見守る中、良く通る声で言峰が話出した。
「さて諸君、並行世界という概念について聞いたことはあるかな」
「パラレルワールドってやつだよな。多世界解釈とかなんとか……だったっけ」
士郎の答えに言峰は首を振った。まるで教壇に立った講師の如く、余裕を持って説明を続ける。
「いや、エイブリッドの多世界宇宙解釈と並行世界の概念は別物だ。エイブリット解釈が示すのは、観測行為はシュレティンガー方程式に従う過程である、とい
うことにすぎんよ。そもそもエイブリッド解釈は無限に存在する宇宙などという仮定を置いていない。拡大解釈すればともかく、並行世界の概念は全くの別物
だ」
「てーことはだ。俺たちの世界と異なる世界が、ここではないどこかに無限にある、程度の理解でいいのか?」
「世界というより宇宙、だがね。抽象的だが、この宇宙から『可能性のある無限の組み合わせの宇宙』が分岐していると思ってもらえばいい。もっとも、我々は
我々のいる宇宙しか観測することは出来ない。私や凛がおらず、衛宮士郎だけが存在している宇宙があるかもしれん。その逆に、衛宮士郎だけがいないだけで他
は我々の世界と全く同じな宇宙があるかもしれんな。どちらにせよ、その存在を知る術は我々には無い」
九郎の質問に頷く言峰。わかりきった内容なのか、アルは興味も無さげに聞き流している。
「で、それがどうアンタと関係してくるのよ。放っておくといつまでも話してるんだし、とっとと説明しなさい」
「慌てるな、凛。ここからだ」
苛立って口を挟む凛を制する言峰。このあたりの呼吸は流石というべきか。端からみれば、凛が口を挟むタイミングも計算していたとしか思えない。
「今言ったように、並行世界の存在を知覚する術は我々には無い。ましてや、他の世界と行き来するなど魔法の領域。我々には不可能??いや、不可能だった」
「……なんだと?」
“だった”との言葉にこめられた意味に、アルが素早く反応した。凛も眉を吊り上げ、言峰を睨みつける。せつらの眼にも、興味をひかれた色があった。一際緊迫感を増す空気。言峰は満足げに頷くと、講義を続ける。
「少し脱線しようか。古来より鏡には様々な言い伝えがある。曰く、真夜中に覗くと未来の自分が見える、曰く、中国の古の王が鏡の中に閉じ込められた、曰
く、合わせ鏡をすると鏡の中に入り込むことが出来る。これらの伝説には共通点がある。鏡の中には異世界が存在し、条件次第では行き来が出来るということ
だ」
言葉を切って教会内を見渡す。見事な呼吸だ。いつの間にか、聴衆五人は言峰の話術に引き込まれていた。
「さて、近年のことだ。神崎士郎という科学者がある発見をした。彼は鏡の性質に取り憑かれて研究を続けていたのだが??その発見は、真に驚くべきものだったのだ」
「……ちょっと待ってよ、綺礼。それって、まさか……」
「お前の想像している通りだ、凛。伝説は正しかった。鏡の向こうには本当に異世界ーー並行世界が存在し、条件次第で行き来することが出来たのだよ」
言峰は言葉を切って、教会に会する一同を見渡した。これで説明は十分、とでも言いたげだ。九郎が腕を組んで首をひねった。
「わからないな。いや、並行世界についてはわかったぜ。でも、それは士郎くんたちが聞いてることの説明にはなってないだろ」
「相変わらず鈍いな、汝は」
「鈍いって言うな!じゃあ何か、アル、お前はもう大筋がわかったってのかよ」
「ふふん。妾を誰だと思っている。この程度のことが解らいでか」
九郎の問いに、アルは得意げに胸を張った。腕を組み、指を立てて口を開く。
「遠坂の娘はともかく、そこの赤毛も理解してはいまい。神父に確認してみるか」
「何なりとお答えしよう、アル・アジフ殿」
挑戦的なアルの言葉に、言峰は慇懃に頭を下げた。ぴょん、とアルは椅子の上に飛び乗り、腕を組んでポーズを決めると話しだす。フリルの多い服装もあってか、小さい子が威張っているような妙にかわいらしい仕草だ。
「良いか、先ほどまでの神父の言によれば、鏡を通じて並行世界を行き来出来るという。ならば、我々のいるこの世界から通じる鏡の世界。神父よ、そこからもまた、鏡を通じて異なる並行世界が繋がっているのではないか?」
「ご名答だ。そこから導かれる結論は一つ」
「うむ。鏡の世界から、また別の世界へ。その世界からまた異なる世界へ。原理的には、無限数の並行世界全てを渡り、各世界の存在を我々の世界へ持って来れる算段だ。何しろ、鏡さえあれば良いのだからな」
「??ということはだ」
だいたいの流れを理解したか、士郎は考え考えといったまま言った。ゆっくりと、だが確実に真実へと近づいていっているのか。言葉の端々には、自信と確信が溢れていた。
「無限の世界があるということは、その中には、言峰が聖杯戦争が終わるまで生き残った世界もある。聖杯戦争の展開自体は同じでも、本来なら生き残るはずも無かった奴が生き残った世界もある……なるほど、やっとわかった」
「ほう、理解したかね。おそらく正解だ、衛宮士郎。君の思考は、おおむね正しい」
キッと面を起こした士郎が椅子から立ち上がった。木刀を握りしめると、言峰を睨みつける。神父は嘲弄めいた笑みを浮かべ、穏やかに返す。
「言峰、今そこにいるあんたは並行世界の一つから来たんだな。聖杯戦争の展開、その後の時間の流れは全て俺たちの世界と一緒。当然持っている知識と記憶も同一だ。ただし、どんな理由でか、あんたが生き残ったか、生き返ったかして存在している世界からな」
びし、と木刀の切っ先を言峰に突きつける士郎。言峰は感極まったかのように、首を振って軽く手を打った。
「完璧だ。そう、この私は、いわば“こちらにいた私”と同一の記憶を有している。ここに生きて実体として存在している以上、君たちが知っている私と同一人物と思ってもらって構わんよ」
言峰が言葉を切ると、場は水を打ったように静まり返った。淡々としたやり取りではあったが、その内容は士郎や凛にとって二重の意味で衝撃的だ。並行世界
の行き来、すなわち“魔法”を限定的とはいえ可能とし実践したという、魔術師としての驚き。そして、死んだはずの男が存在してるのが、紛れも無い事実であ
るという、個人としての驚き。
士郎は言峰を睨みつけたまま動かず、凛は厳しい面持ちで思案したまま。せつらに至っては、我関せずとばかりにぼうっとしたままだ。寝ているのかもしれない。
沈黙を破ったのは、
「話はわかった。して、妾をわざわざ呼び寄せたのは何のためだ?」
「そうだな。アルに何の用があるのか、聞かせてもらいたいとこだ」
アルと九郎の、厳しい誰何の声だった。
「勿論説明させてもらおう。本来私の目的は君たちをここへ呼ぶこと。そのためにわざわざ<新宿>最高の人捜し屋にまでご足労願ったのだ」
「ってことは、今までの説明は蛇足なのか?」
「いや、世界最強の魔道書とその主であれば、規則に従いこの地の管理者――凛を尋ねるはず。凛たちが私のことを知る過程は、あまり多くない。秋くんからア ル・アジフへ。アル・アジフから凛と衛宮士郎へ。この流れで凛たちは私の存在を知った訳だ。思った通り、二人はこちらへと出向いてきた。遅かれ早かれ、君たちがまとめて来ることは想定の内だったのだよ」
「全部計算のうちだったってわけね。全く、アンタのそんなところが嫌なのよ」
九郎の問いに悠然と答える言峰を尻目に、凛がぶつぶつと呟いた。確かに、ここに至る過程がどうであれ、凛と士郎は言峰に相見えたならば、なぜここにいるのか、なぜ生きているのか説明を要求していただろう。アルがふむ、とばかりに頷く。
「まあ、それも本題ではなかろう。神父、貴様は一体何を企んでいるのだ」
「企むとは人聞きの悪い。簡単なことだ。世界最強の魔道書に用があるとしたら、その魔力に関心があるに決まっているではないか」
「ほう。して、妾の魔力を使ってどうするつもりだ」
「何、たいしたことでもない。少しばかり冬木の龍脈を支配させてもらうだけのこと。鬼械神の召喚を可能とする力をもってすれば、龍脈の一つや二つを支配するなど余裕だろう」
「……っ!綺礼、アンタ、何のつもりよ!」
一見和やかに進んでいたアルと言峰の会話。言嶺が静かに目的を告げた途端、アルの言葉に先んじて凛が爆発した。それはそうだろう。遠坂の家は冬木の管理
者。凛には魔術的な土地を管理し、見守る義務がある。土地の魔術経路の生命線ともいえる龍脈を支配するなどと言われては、黙っていられるはずも無い。いや、黙っていてはいけないのだ。管理者の義務として、そのような行いは断固排除せねばならない。
「凛、君の意見は聞いていない。私が今求めているのは、アル・アジフの答えだ」
「断る」
凛には歯牙もかけずに、アルへと向き直る巨漢の神父。対照的に小柄な魔道書は、鼻を鳴らすと一言で切り捨てた。
「魔道書である妾が力を振るうのは主のためだけ。そして、妾の主は大十字九郎ただ一人だ。九郎が命ずればともかく、貴様の求めに応ずる理由は無い」
「それは残念だ。マスター・オブ・ネクロノミコンとしてはいかがかね」
「お断りだ。言峰神父とかいったな。詳しいことは解らないが、あんたのやろうとするのが良いこととは思えない。まして、龍脈を独占するなんて言われちゃあ、な」
がたり、と九郎が席を立った。アルもぴょこん、と椅子から飛び降り九郎に並ぶ。話は終わりだ、とばかりの二人の様子。アルはせつらへと振り向いた。
「時間の無駄であったな。人捜し屋、汝も無益な仕事を引き受けた者だ。汝なら妾がこのような話を受けるかどうか解っておろうに」
「いやまあ、ぼくの仕事は探すことですから。その後は当事者の皆さんの問題でして」
せつらはのほほんと答えると、席を立った。帰るつもりなのだろうか。確かに、この青年にとってもう仕事は終わっているのだ。今までの会話もどこまで聞いていたか疑わしい。冷静に考えれば、せつらが教会にいる義理はもう何も無いのだ。
やる気満々なのは既に士郎と凛だけ。さすがにこの二人は教会を出て行くわけにはいかないだろう。士郎は席を立ったまま、凛は座ったまま、じっと壇上の神
父を睨みつける。言峰のほうは二人の視線を華麗なまでにスルーし、扉へと向かおうとする三人組ーー九郎、アル、せつらを見つめていた。
三人が扉に手をかける直前。言峰が思い出したように口を開く。
「ああ、忘れていた。アル・アジフにその主よ。君たちを狙っているのは私だけではないぞ」
「……何だって?」
九郎が足を止めて振り向いた。怪訝そうな面持ち。何か動きがあればすぐに迎撃出来るよう、手はクトゥグァ&イタクァへとかけられている。さすがに、隙がない。
「話を聞いていなかったのかね?鏡の世界を経由して、私だけがこちらへ来たわけもあるまい。私以外にも、この世界では死したはずの者が何人も来ているのだよ。そう、例えば――」
言葉を切った。最大の効果をあらわすために、十分な間を置いて。
「――アンチクロス、という名の者たちもね」
「九郎、危ないっ!」
逆十字の名が告げられるのと。アルの叫びは全くの同時だった。
アルの叫びと、どこからから放たれた殺気に、九郎の体は自動的に反応していた。九郎の立っていた位置を正確無比に襲った超高速の物体。咄嗟に横へと跳躍し、間一髪でかわす。どこからか放たれたその物質は、石製の床をえぐって煙を立てていた。
九郎は床を削ってめりこむそれへと目をやる。一見するとそれはおもちゃにしか見えない。鋼鉄製のベーゴマといった感じの小さな鉄の塊。こんな玩具めいた道具が発熱するほどに石を削るとは、どれほどの力と技量で放たれたものか。
普通なら不可能な技だ。だが、九郎はこの玩具に、その技術に明白な見覚えがあった。
「この武器……ってことは!」
「ちっ、ちょこまか動くんじゃねーっての。大人しく殺られときゃいいのによ」
「やっぱりてめえか、クラウディウス!」
九郎が振り仰いだ天井、梁に腰掛ける小さな影。ハーフパンツにスニーカー、動き易そうな上着と野球帽めいたキャップという格好だけをみれば、元気が取り
柄の少年にも思えるだろう。だが、紫のマスクから覗く瞳は、冷酷そのもの。一片の暖かみも無く、九郎たちを見下ろしている。
元ブラックロッジ大幹部が一人、クラウディウスだ。神速の動きを武器とする残虐非道な少年であり、鬼械神ロード・ビヤーキーの召喚主。幼い外見に騙されると痛い目にあうということを、九郎とアルは嫌という程知っている。
「久しぶりだなあ、大十字九郎。ま、もう少し残って話聞いてけよ。ここで解体しちまってもいいんだけどよ、そこの神父さんがまだ言いたいことあるらしいんでな」
「へっ、随分とお優しいことだな、クラウディウス。有り難い申し出に涙が出そうだぜ」
減らず口を叩きつつも、九郎の脳裏にはある疑念が生じていた。言峰はアンチクロスが、いわば蘇っていると言った。そして、クラウディウスが真実目の前にいる。ということは、もしかして――
「大十字九郎よ、今君が思っている通りだ。かの大導師も、勿論こちら側に存在している」
「……やっぱりそうくるかよ。わかったわかった、アル、もう少しここに残るぞ」
絶妙のタイミングで放たれた言峰の言葉に、九郎は心底苦々しい思いで答えを返した。
大導師。九郎はその名を冠する魔術師を一人しか知らない。元ブラックロッジ大首領、七角十頭の獣、時空を超えた不倶戴天の仇敵ーーマスター・テリオン。
最古の魔道書ナコト写本を従え、鬼械神リベル・レギスを操る、最大最強、史上最悪の魔術師の一人。あの人知を超えた男が携わってきているとなれば、このまま教会を出て行くわけにもいくまい。明らかに敵の――最早敵とみなして差し支えなかろう――術中にはまっているとしても、だ。
アルも思いは同じらしく、黙って頷く。九郎とアルはまたも踵を返すと、士郎と凛のいるあたりの椅子へと戻っていく。扉付近には、結局せつらだけが取り残された。
「奇麗なお兄さんよ、あんたはどうすんだ。残るなら残るで歓迎するぜ?」
「そりゃあ帰りますよ。ぼくの仕事はここまでですから」
「ちっ、連れねえなあ。まあいいさ。遅かれ早かれまた会うことになるんだしよ」
きしし、と嫌味たっぷりのクラウディウスの笑いに対し、感情の色も無くせつらは告げる。俗事の一切に興味が無いような声と表情。こんな状況で平然と出て
行くというのはある意味であり得ない行為なのだろうが、それを納得させてしまうものがこの青年にはあった。士郎、凛、九郎、アル。誰一人非難することな
く、黙ってせつらが扉に手をかけるのを見やる。
「それじゃ、ご用命ありがとうございました」
ぎい……ばたん。
おざなりな言葉を残し、扉の向こうへと美しい黒衣の青年は消えた。ふう、と。誰とはなしに息をつく。あれほど美しいと、いるだけで場に何か奇妙な空気が漂うのだ。せつらが消えることに、士郎たちがある種の安心感を抱いたとしても不思議ではなかろう。
「さて。聴衆は一人減って四人。色々聞きたいことはあるだろうが、一旦整理するとしようか」
「そうね。とりあえず解ってることはそんなに多くないし。アンタたちが人形でも何でもなく本物だってこと。それに、冬木の龍脈を何やら利用したがってるってこと。これだけだものね」
「的確な整理だ、凛。我々としては龍脈の力を得るために、アル・アジフの助力を得たい。だが、当人もその主も首を縦に振ってはくれそうにないな」
「当然だな。こう言っちゃなんだが、あんた悪人だろ。私利私欲で動く奴に手は貸せないな」
九郎は椅子にもたれると言峰と、その横に立ったクラウディウスを睨みつける。言峰は首をすくめると平然と笑った。心の底から、楽しそうだ。
「ああ、私は悪人だ。だからここは悪人らしく、ゲームを提案させてもらおうか」
「ゲーム?」
士郎が怪訝そうに言葉を繰り返した。猜疑心が拭えぬといった表情だ。それもそうだろう。この神父、言峰綺礼の言い出すことに、裏が無いはずも無い。凛と士郎は、聖杯戦争でそれを嫌という程実感していた。
「ああ、ゲームだ。ゲームである以上、勝敗と、それに伴う賞品が発生する。クラウディウス、あれを出してくれたまえ」
「おい言峰、俺に命令するんじゃねーよ」
クラウディウスは不満げに舌打ちすると、ぱちん、と指を鳴らした。途端、教会全体の照明が消え、場は薄い闇に包まれる。それに呼応するかのように、教会の壁面に冬木の地図が浮かび上がった。遠坂邸、中央公園といった霊的に強い場所に光点が灯っていた。そして冬木の霊的中心、すなわち柳桐寺は一際大きい光点として表示されている。
「準備は完了。では、聖杯戦争に続くゲームについて解説しようか」
暗闇にぼうと浮かび上がる言峰の顔。それは聖職者にこのうえなく相応しく、あらゆる意味で似つかわしくない、慈悲に満ちた邪悪な笑みを浮かべていた。
***
秋せつらは階段を下ると、教会を見上げた。外はまだ冷たい雨が降り続いたまま。今の今までの教会内での奇妙な問答に何を感じたか。せつらの瞳には、何の感情も浮かんではいない。
数分。軽く右手を振る。特殊チタン製の糸を通して聞こえていた会話が、途切れた。いつの間に仕掛けておいたのか、ミクロン単位の極細の妖糸は、教会内部の人々の会話と動きを、手に取るようにせつらへと伝えてきたのだ。
だが、まだ会話は続いている。なぜ途中で糸を退いたのか。それはせつらにしかわからない。
教会へとくるりを背を向け歩き出す。漆黒のコートが翻り、雨を散らした。
大通りに出た。雨はますます激しく、視界が煙る。
どこか、奇妙だ。何とはない違和感が、せつらは感じている。
違和感の正体はすぐに知れた。人気がない。まるっきりない。冬、いくらこの空模様とはいえ、冬木ほどの街で午後の昼下がりに他人を見かけないことなどあろうか。その奇妙さを知って知らずか、無表情な美貌はゆっくりと振り向いた。
「いい加減出てきたらどうです?」
雨に濡れてぞくりとするばかりの美貌と、錆びた声。にもかかわらず緊迫感が無いのは、どこかぽややんとした空気が漂っているせいだろう。
ずるり。声に応えるがごとく、影が動く。いつの間にそこに潜んでいたのか。電柱の影から現れた影は、180センチを超えようかという長身として結実した。
「そろそろ挨拶をせねばならぬと思っていたが。いつから気付いていたかな」
「教会を出た時から」
せつらのそれとは違う、重々しく錆びた声が響く。せつらと同等かそれ以上の長身、袈裟の色合いを思わせる深緑のコート、苦行僧を思わせる厳しく引き締
まった彫りの深い顔立ち。雨に打たれそびえるその姿は、深遠な命題に思いを馳せる哲学者を想起させた。一言で言えば、その男の周囲にはあまりにも重い“凄み”が渦巻いているのだ。
冬の冷たい風が、せつらと男の髪をなびかせた。男は強面を崩さず、淡々と言葉を継ぐ。
「個人結界を通して私を知覚し得るとは、大したものだ。それに、その秀麗な面。噂以上の魔性であるな、秋せつら」
「はあ、それで――どちら様?」
重々しい声に対し、せつらの声は妙に軽い。賞賛の言葉を述べたものの、男の神経はせつらの美貌に毛一筋でも動かされたものか。気配にも、面相にも、全く変化がない。賞賛すべき精神力をあらわし、男は重々しく告げた。
「――魔術師、荒耶宗蓮」
「それで、その荒耶さんが何の用でしょう」
荒耶の声に驚かなかったのもこの青年ならではであろう。常人ならば耳にしただけで魂まで痺れてしまいそうな、全てを圧倒する力が荒耶の声にはあった。平然と問い返すせつらの様子に、荒耶は笑みもせずに続ける。
「知れたこと。魔術師が君に用があるとすれば二通りしかあり得ぬ。人捜しの依頼があるか、あるいは――」
「それでしたら事務所においで下さい」
「いや、此度は依頼ではない」
「と、いうと?」
あっさりとした答えにも、苦笑微笑を浮かべるどころか、眉一筋動かさない。こりゃ厄介な相手だぞ、とせつらが思い始めたところで、
「超人類としての君に用があるのだ」
などと、せつらにとって至極面倒そうなことを荒耶が言い始めた。
「そういうことは<新宿>病院のヤブ医者にでも聞いてください」
「そうはいかぬ。いかなる系であろうと、最良の実験は現物に触れること。ましてや、超人類に関しては絶対的に情報が足りぬ。世にある魔術師であれば、君のような存在に直接触れる機会を逃すはずも無かろう」
荒耶の太く、渋い声には、明らかな情熱がこもっていた。信念のためなら何を捨ててもいとわぬタイプであろう。
「困った人だなあ。僕にどうしろっていうんです」
せつらは天を仰いだ。もっとも、声と様子からは本当に困っているのかどうかはっきりしないが。荒耶は構わず一歩を踏み出す。ぎしり、と空気の密度がまた濃くなった。
「そう難しいことではない。<新宿>の生んだ魔人、秋せつら。その力を我が身で体感することで、私はまた一歩<根源>へと近づくことが出来る」
「えーと、遠慮しときます」
言うなり、せつらはふわりと後方に跳躍した。荒耶が追うべく一歩を踏み出し??瞠目して立ち止まる。いかなる方法をもってしてか、せつらの体は飛び、宙
に浮いたままなのだ。いつの間にか張り巡らせた妖糸の上に立っているとは、さしもの荒耶でも看破し得たかどうか。さっさと歩き出そうとするせつらに、荒耶
が追随せんと足を踏み出す。
「逃がさ――ぐぬっ!?」
一歩を踏み出したところで、荒耶の声が苦痛に染まった。肉ばかりか骨にまで食い込む痛みが、全身を襲ったのだ。超人的な精神力を持つ荒耶が苦痛に声を漏
らしたことからも、その痛みは知れよう。頭頂部から爪先までをくまなく覆う妖糸は、この魔術師の歩みさえも止めさせたのだ。
「なるほど……これは、聞きしに勝る……だが!」
ぎり、と荒耶の歯が鳴る。みちみち、と左腕に力がこもり、筋肉がふくれあがった。じり、と一筋の汗が荒耶の額に流れる。
「……ぬんっ!」
荒耶の気合いが響くなり、せつらの表情に動揺が走った。荒耶が渾身の力を込めて振るった左腕が、妖糸を全て断ち切ったのだ。あり得べからざることであった。
「……だが、無駄だ。我が起源は“静止”。いかに君の妖糸であろうと、はじめから静止しているものを留めることなど出来ぬ。ましてこの左手は仏舎利よ。その気になれば断ち切れぬものはない」
「ありゃ。甘くみてたかな」
慢心の欠片も無く、ただ淡々と良く響く声で告げる荒耶。せつらはぽりぽりと頭をかいてごちた。軽い言葉とは裏腹に、流石に緊張の色がみえる。必殺の妖糸をこうも容易く破られるとは思ってもいなかったのであろうか。
「こちらも少々手荒くいかせてもらおう――肅!!」
「!?」
今度こそ、せつらは驚愕を浮かべた。荒耶のただ一声の叫びと共に、通常の数十倍に値する重力がのしかかってきたのだ。重さに耐えきれず、妖糸からすべりおち、地面に膝をつく。ばきり、と、足元のコンクリートが重力の余波を受けて沈んだ。
せつらの本拠、<新宿>では超重力現象は珍しくない。「外谷のおんぶ」、重力魔法、超G発生装置など、その方法も枚挙に暇が無い程だ。だが、目の前のこ
の魔術師ほどの、圧倒的な呪力と圧力を発生させる相手はせつらも初めてであった。その証拠に、みよ、魔人せつらが苦痛の色を浮かべ、じりじりと押しつぶさ
れてゆくではないか。
「こいつは……まいった、な……」
せつらが息も絶え絶えに呟いて、地面へと目を落とした。前髪がさらりと面を隠す。荒耶は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「まさかにこの程度で終わりではあるまい。ここからが本番で――」
それを鋭く知覚したのは、流石荒耶宗蓮というべきであろう。咄嗟に身をかわしたのも、一流以上の動きであったろう。
ぼとん。
荒耶の足元に、何かが落ちた。五本揃った指、そこから伸びる筋骨たくましい組織。荒耶の右肩口から先は、見事に消失している。妖糸の仕業としか、考えられぬ。
せつらはうずくまったままだ。否、厳密には違う。今の彼は、せつらであってせつらではない。そう、荒耶の知覚を全てくぐりぬけ、容赦なくその右腕を切り飛ばせるような真似は、先までの彼には決して出来まい。
「ほう……ようやくか」
鮮血溢れ出る切り口を抑えようともせず、荒耶ははじめて感情を剥き出しにし、笑った。比類なき歓喜と、それすら圧しかねない恐怖と。まるで冷えきった氷
を首筋に当てられた如くに、体の芯までが冷えきっている。魔術師は目撃したのだ。目の前の美しい、茫洋とした青年が?ーあまりに美しい妖人へと変わる様
を。
「気の毒に」
ゆっくりと、せつらが立ち上がる。雨に濡れた黒髪が、此の世ならぬ美貌を彩っていた。その美の前には、鬼神も三舎を避けよう。姿形はそのままに、人間性だけが変わった青年は地獄よりも冷たく告げた。
「私に会ってしまったな」
―ー秋せつら。美しき魔人。
怜悧に魔術師を見据える秋せつら。歓喜に燃え深く嗤う荒耶宗蓮。いずれ劣らぬ魔人二人は、雨降りしきる中、「その時」を待ち、じっと見つめあっていた。
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