「あのう、すいませんが」
「はい?」
 春風を思わせる茫洋とした声が響く。それが己にかけられたものと知り、振り向いた柳洞一成は己の眼を疑った。
 12月末の冬木の街。黄昏にも、逢魔が時にも未だ早い時刻の、学園からお山へと通じる交差点。今は冬期休暇といえど、常から通い慣れた道だ。行きも帰りも、今日のような買い物の途中でも眼に映るものは大抵が同じ。それが今は、今だけはまったく違ってみえた。
 理由は簡単だ。一成へと声をかけた青年があまりに印象的だったからにすぎない。180センチの長身に纏った黒衣の着こなしは、超一流のモデルですら足下 にも及ばぬほどに完璧。全身からは侵しがたい気品と、まるで小春日和のような穏やかでぼんやりした空気を発散している。そして何より、青年は実におそるべ き美貌の持ち主であった。
 黒瞳、鼻梁、唇。あらゆる点で非の打ち所がない。もし一成が女だったならば、この場で失神してもおかしくなかろう。柳洞寺秘蔵の菩薩像ですら恥じ入るだろうなどと一成が反射的に思ったほどだ。
 見惚れていたのは数秒か。一成は軽く頭を振ると、声をかけてきた青年を見返す。くらり、と。凝視するとそれだけで意識が飛びそうになった。自分が男であったことに心から感謝していると、青年が再度口を開く。
「えーと、深山町の坂へはこちらでいいんですよね」
「坂というと……ああ、あそこか。ええ、それでしたら、この分岐を真っ直ぐいけば案内があります。近くにいけば古い家が密集しているのですぐわかると思います」
 青年が意味しているのは、深山町でも高級住宅街に位置づけられる坂の一帯であろう。間桐桜や、あの遠坂凛の住まいがあるあたりだ。指差して方角と向かい方を伝える。
「ありがとう」
 青年はどこかぼんやりと礼を述べると、坂の方角へと足を向けた。漆黒のコートの裾が風にたなびく。一成も軽く頭を下げると、寺へと戻るべく踏み出す。最近は何やら寺の空気がよろしくない、早めに戻らなければ。
 一成がふと振り向くと、黒衣の青年はもう数十メートルは進んでいた。どんより灰色に淀んだ空の下にあって、歩む姿は漆黒の天使と見紛うばかり。その美しすぎる姿になぜか漠とした不安を感じつつ、一成は寺へと歩み始めた。





ミラーワールドのアリス第8話
「黒衣の人捜し屋マン・サーチャー





「――つまり、大十字さんたちはその吸血種を追うためと、冬木の龍脈の調査のためにこちらに派遣されてきたと、そう考えてよろしいのですね」
 時計は既に正午を指していた。凛がじろりと九郎とアルへと視線を向ける。遠坂凛、衛宮士郎、大十字九郎、それにアル・アジフといった魔術関係者が揃うこ こは、遠坂邸の居間。異人館を思わせる瀟洒な調度類。四人がテーブルを囲んでもかなりスペースがある設計ということもあり、どことなくゆったりした落ち着 きを感じさせる一室だ。穏やかな暖房がきいた中、各自の前ではティーカップが上品な紅茶の香りを発している。
「ああ。覇道財閥の人があの吸血種の犠牲になってね。で、姫さん――覇道財閥総帥の依頼で追ってきたわけ」
「しかしよく、この街にそいつがいるってわかりましたね」
 ティーカップを置いて答える九郎に、士郎が問うた。当然の疑問だ。どこそこにいる、などと調べてパッとわかる方法などそうありはしない。魔術的な痕跡を追うにしても、対象がどこへ向かったかわからぬのでは容易であるまい。
「まあ、俺じゃ調べきれないけど……シュルズベリィ先生に頼んだからなあ。で、その時に冬木市の龍脈調査を依頼されたと」
「レーバン・シュルズベリィ博士……なるほど、そういうことだったんですね」
 凛が得心したように頷いた。レーバン・シュルズベリィ博士といえば、外宇宙の深奥に通じた当代最高クラスの魔術師だ。魔術協会に直接所属してこそいないものの、内外においてその名を知らぬものはなく、影響力は多方面に及ぶ。
「だいたいのところは解りました。覇道と協会からはこちらへ人が向かうとしか聞いていませんでしたから。それで、大十字さんは、これからどうなさるおつもりでしょう?」
 あくまで余所行きの表情と声色で、凛が問う。とはいえ視線は鋭く、きつい。九郎が味わうのは、なぜか覇道瑠璃と対峙する時と同じような感覚。自然と声が小さくなり、押しも弱くなる。
「あ、ああ……つまりはですね、くだんの吸血種を追うのと、しばらくこの街の魔術的な状況や龍脈などを調べさせて欲しいなあ、と」
「九郎、何を遠慮しているのだ。我らは別段協会に属している訳でもない。このような小娘の顔色を伺うこともあるまいに」
「だああ!アル、お前は少し黙ってろ!」
 魔術師は余所者の介入を極度に嫌うものだ。協会に属する管理者、つまりは凛のような立場にあるものは、とりわけその傾向が強い。九郎の弱気はともか く、今回のような場合は下手に出るにこしたことはないのだ。これは、覇道やシュルズベリィといった有力者の後援がある場合でも同様。いや、それほどまでの 協力者がある場合、虎の威を借る狐と見られぬためにも傲慢な姿勢は慎む必要がある。
 とはいえ、「歩く傲岸不遜」アル・アジフがそんな気遣いをするはずもなく。さっきからアルが口を開くたびに凛の視線はきつくなっていっているのだった。
「……わかりました。シュルズベリィ博士には恩義がありますし、好きになさってください。一応こちらでも協力はさせていただきます」
 ティーカップから紅茶を一口含み、凛は答えた。九郎があからさまにほっとした顔をする。それを見計らうかのように、凛は視線をアルに移してにっこり笑んだ。
「ただ、小娘小娘言われるのはあまり気持ちよいものではありませんの。とりわけ、そちらのおチビさんにそんな風に呼ばれる筋合いはありませんわ」
「む、小娘を小娘と呼んで何が悪い。妾から見れば汝など赤ん坊も当然だ」
 おチビさん、との呼ばれ方がカチンときたか、アルがむっと反論する。
「そちらの言葉をそのままお返しします。おチビさんをおチビさんと呼んで何か問題でもあるのでしょうか?」
「し、失敬な!妾こそは世界最強の魔導書、アル・アジフ。千年の刻に比べれば汝は小娘にすぎぬ!」
「いや、あの、だからその、俺としては二人とも落ち着いてほしいなー、なんて思うわけですが無理ですかそうですか」
 冷たく笑う凛。いきりたつアル。すでに諦観モードに入った九郎。混迷してきた場の空気を救ったのは
「ああ、“アル・アジフ”って名前、どっかで聞いたことがあると思ったら、死霊秘宝ネクロノミコンか」
 などとという、士郎ののんびりした一声だった。凛が毒気が抜かれたように、士郎へと振り向く。
「何、士郎、あなた気づいてなかったの?」
「いや、名前は聞いたことはあったような気もしたんだけど、はっきりと思い出せなくてさ。オヤジに昔教わったのをついさっき思い出した」
「アンタねえ……」
 溜息をつく凛を余所に、士郎は九郎とアルへと視線をむけると、気持ちの良い笑みを浮かべた。
「この街に起きてる異変を追ってるなら、仲間ですね。改めて、俺は衛宮士郎。よろしく、大十字さんにアルさん」
「ああ、俺のことは九郎でいいよ。こちらこそよろしく」
「うむ、以後見知りおくが良いぞ」
 気持ちの良い笑みには爽やかな笑み。衛宮士郎と大十字九郎はがっしり握手をかわし、アルは満足げに頷く。凛はしばしその光景を見つめ、ふう、と息をつくとこちらも軽い笑いを浮かべた。
「なんか毒気抜かれちゃった。ま、それじゃあしばらくの間よろしく。街の異変は私も気になってたとこだしね」
 口調も余所行きから素に戻っている。士郎はそんな凛を見て安心したように息をつくと、真剣な面立ちで九郎とアルを見つめる。
「そうそう、街の異変といえば例の行方不明事件。九郎さんたちが吸血種を追ってきたってことは――」
「ええ、そいつが犯人なんでしょうね。一体どんなやつなの?」
 凛が士郎の言葉を受けて、九郎たちに問うた。九郎も頷き返し、資料を出す。
「名前は馬呑吐。吸血種といっても、中国産の永生者エルダーらしい。詳しいことはここに――」
 九郎が資料を開こうとした途端、居間に軽やかな音が響いた。人の来訪を告げる電子音。玄関に備え付けのチャイムだ。
「遠坂、誰か来たみたいだぞ」
「おかしいなあ、今日はもう特別な予定ないはずなんだけど。ごめん、ちょっと待ってて」
 凛は立ち上がり、玄関へと向かう。残り三人は、なんとはなしにそれを見送っていた。
***

 その青年が入ってきた途端、部屋の空気が一変した。士郎と九郎は思わず目を見張り、アルはなぜか溜息をついた。案内してきた凛は凛で、青年をまと もに見ようとしない。結界が警報を鳴らさなかったことから考えて、敵意はないのだろうが??もしかすると敵意があっても通したかもしれぬ。それも無理はな い。青年は、天上人と紛うばかりに美しかったのだ。春風を思わせるのんびりした表情も、その美を引き立てるばかり。八つの瞳が注視する中、壁にもたれた黒 衣の青年は口を開いた。
「急なお邪魔失礼します。こちらにアル・アジフさんがいらっしゃると思うのですが」
 声色もまた美しい。少しぼんやりした響きがあるが、それが美貌にありがちな冷たい印象を退けていた。黒曜石のような瞳が室内の一同を見渡す。既にこれからなされるであろう問答を知っているかのような仕草だ。
 青年の言葉に、アルはぐい、とティーカップを手に取った。一気に紅茶を飲み干す。カップを置くと、何やらもう一度溜息。やがて意を決したかのように眦を 上げると、厳しく青年を見返した。エメラルドの瞳は、敵意とまでは言わねど、好意的には程遠い。アンチクロスを相手取ってるわけでもなし、アルの態度が妙 に厳しげなのが九郎には気にかかった。あまりいい前兆では、ない。
「アル・アジフは妾だ。だが、まずは汝が名乗るが礼儀であろう」
「あ、これは失礼。ぼくは人捜し屋マン・サーチャーの秋せつらといいます」
 あからさまに不機嫌なアルの声に、秋せつらなる青年の眠そうな返答。アルの表情はますます険のあるものとなってゆく。
「<新宿>の主が一体何用だ。汝のような者が巣の外に出てくると、ロクなことが無い」
「のっけから手厳しいなあ」
 せつらが困ったように呟く。アルは動かない。せつらもまた、壁にもたれたままだ。
「おいアル、知り合いなのか?」
 美貌の呪縛から解放されたか、九郎がアルに問うた。確かにそうとしか見えぬアルの反応。士郎と凛も物問いたげに見守っていることからして、同じ疑問を有しているのであろう。
「いや、直接会うのははじめてだ。だが九郎、汝も噂くらいは聞いたことがあろう。『魔界都市<新宿>』の捜し屋、黒衣の魔人・秋せつら。魔術師でこそないが、ある意味ではそれ以上に危険で厄介な輩だ。妾としては出来れば関わりたくない」
「そりゃ俺も名前くらいは知ってるけどよ??」
 九郎は呟く。魔術のみならず、少しでも裏の世界に関わった人間ならば、<新宿>と秋せつらの名を知らぬものはなかろう。
 三代続いた西新宿のせんべい屋の若天守にして、腕利きの人捜し屋。あの魔界都市にあって畏怖され、「触れてはならぬ三魔人」に数えられる人間離れした美 貌の青年だ。実態不明の超絶的な技の使い手であり、彼に抗し得るのは、かのメフィスト病院の院長をはじめ五指に満たぬという。
「嫌われたもんだなあ。とりあえず、用件だけでも聞いてくれませんか。こっちも仕事でして」
 アルの反応に戸惑う九郎をよそに、気を悪くした様子も無くせつらがのほほんと口を開く。その仕草はとても<新宿>で恐れられる魔人のものとは思えない。
 しばし逡巡。せつらの申し出を無下に断る積極的な理由も無く、無精無精、アルは頷いた。
「捜し屋というからには妾を捜す者がいるのだろう。何者だ?」
「ええと、その前にこれを見てもらえますか。あなたを見つけ次第渡してくれとのことでしたので」
 せつらが取り出したのは、布にくるまれた長方形の物体。白い布にはばまれ、中身が何であるかは判然としない。大きさは辞書ほどだろうか。あまり厚みの無いそれをテーブルにおくと、コツン、と固い音がした。
「中身は?」
「さあ」
 アルの問いに小首を傾げるせつら。その仕草は無邪気ですらある。本当に知らぬのか、とぼけているだけか。言葉からも面からも判断はつかない。アルが目で合図すると、九郎が布に手をかけた。
 はらはらと布をめくると、中から出てきたのは一枚の小さな鏡だった。木彫りの枠に、化粧台に置く程度の小型の鏡がはめこまれている。ひっくりかえすと誰 でも知っているメーカーの刻印と、Made in Taiwangとの表示。何の変哲も無い、それこそ一山幾らで売っている鏡だ。九郎が訝しげに眉をひそめた。
「鏡……だよな」
「魔力の残滓も無いわ。普通の鏡よ、これ」
 凛も首をひねる。わざわざ<新宿>一の捜し屋を雇ってまで渡すようなものではない。テーブルに立てられた鏡は、正確に居間の壁面を投影している。アルはしばし鏡をなだめすかし見繕っていたが、やがてせつらへと面を向けた。
「ふむ、これはまあ良い。それで、妾を捜せという依頼人は誰なのだ?」
 アルが問う。
「ええとですね……」
 せつらが答えようとした刹那、
「……やっぱり、なんか変だなこの鏡」
 一人じっと鏡を見つめていた士郎が呟いた。鏡をテーブルに置いたまま、先からずっと注視している。
「何がよ?」
 凛が不思議そうに問うた。きょとん、といった態で士郎の言葉に首を傾げる。
「いや、なんか変なモノが時々映るんだよな、これ。じっと見てないと解りにくいけどさ」
 士郎の言葉に、どれどれとばかりに皆が寄ってくる。やはり興味をそそられるものがあるのだろう。カツ、と天井に鏡面を向ける形に置かれた鏡。士郎、九郎、アル、凛、せつら。居間にいる全員が覗き込む。
「さっきから見てると、時々黒い影が映るんだよな。それも見る度に大きくなってる。まるで鏡の奥から向かってるような……」
 士郎が鏡を指差してそう説明した、次の瞬間。
 鏡が、爆ぜた。

***

「っ!?」
 士郎は咄嗟に身を後方にそらし、凛、九郎にアルは席を立った。何者からかアル・アジフへと送られてきた謎めいた鏡。そこから突如、猛烈な閃光が発せられ、同時に何かが飛び出してきたからだ。
 人間二体分はあろうかという質量を持ったそれは、鏡から飛び出てくるとまず居間の壁へむかって跳躍。ごく僅かな凹凸に爪をかけると、壁に対して垂直に停 止し、直後また方向を転じて跳んだ。あからさまなまでに、人間の動きではない。圧迫的な体躯を持ちながらも飛び回るその姿は軽快そのもの。やがて、それは 八本の足で天井からぶらさがり、人間でいう腕を振りかざして一行を威嚇する。その姿は、カリカチュアされた蜘蛛に近い。黄色と赤を基調にした毒々しい色合 い、人間と蜘蛛を足して割ったような忌々しいフォルムは嫌悪感を催すに十二分だ。
「アトラク=ナチャ!?」
「いや、違う。妾の断片は回収されておるし、眷属としての力も感じぬ。妾や九郎が敵している存在ではあるまい」
 どこかデジャブを感じさせるフォルムに、九郎が叫んだ。アルが冷静に否定するが、九郎の手元は自然にイタクァ&クトゥグァの元へと移動。何かあれば瞬時に迎撃出来る体勢だ。先までの少し弱腰の姿勢とは違う、戦士としての表情が鋭く蜘蛛の怪物を見つめる。
「士郎、大丈夫!?」
「ああ、なんともない。それより、こいつ、一体……?」
 身をそらした士郎は咄嗟に体勢を立て直し、凛を守るようにその前へと移動。手近な棒か何かあればいいのだが、場所が場所だけにそんなものは皆無。徒手空 拳で身を守る構えに入る。凛も士郎の無事を確認すると、ガンドの詠唱に入った。眼前の怪物が何者かはわからぬが、明白な敵意だけは感じられる。放っておく というわけにもいくまい。
 二組から発せられる敵意に、蜘蛛の怪物も反応したか。知る者にはディスパイダーと呼ばれるそれは、声なき声で高らかに笑い、吼える。硬質な音たてて、捕獲肢めいて凶悪な腕が鳴った。人間に一見近い顔つきが、不気味さを際立てる。
 きちきちきちきちきち。
 蟲としか言いようの無い笑い声たて、ディスパイダーは多脚を踏み出さんとする。身構える二組。
 最も小柄な獲物と判断したか、怪物はアル・アジフへと飛びかかるべく行動を開始した。全く無駄のない動き。妨害がなければコンマ数秒単位で獲物は捕獲肢 によって餌とされるだろう。天井にかけていた八本の脚のうち四本までを離し、残り四本で怪物にとっての「床」を蹴って跳躍しー?
「!!??」
 灼熱の痛みに身を引いたのは、怪物の本能ゆえか。怪物が跳躍せんとし、身をひいた一瞬に、前面の四脚がすっぱりと断ち切られているではないか。ごとり、と地面に落ちた脚の残骸は、極彩色の体液を散らしてぴくぴくと蠢いている。
「困ったなあ。こんな趣向は聞いてないよ」
 壁にもたれたまま、のんびりとせつらがぼやいた。誰が知ろう、1/1000ミリという特殊チタン製の妖糸が天井すれすれに張られ、そこへと触れたディス パイダーの脚を断ち切ったなどと。蜘蛛へと気を取られていたとはいえ、凛も九郎も手練の魔術師である。彼らに気配も感じさせずに妖糸を準備していたとは、 やはり秋せつらは魔界都市の住人であった。
「どうしましょう。話が出来る相手じゃなさそうですし、片付けちゃいましょうか」
 せつらが問う。断たれてなおぴくぴく蠢く残肢を心底嫌そうに見ていた凛は、せつらの言葉にはっとなった。
 一方、まるっきり緊迫感の無いせつらの声に、ディスパイダーがいきりたつ。化生といえども、己が軽んじられているのは認識出来るのか、怒りのおたけびと共に。まだ脚は四本、捕獲肢も残っている。人間数人程度なら、余裕で捕獲し、餌とすることが可能だ。
 力をためる。天井すれすれに罠が張られているとはいえ、全く隙間無しというわけでもあるまい。壁際すれすれ、あの黒衣の男を視認不可能な速度で喰らってくれる??
 目にも止まらぬ速度でディスパイダーは壁際へと天井を走り。
「それじゃお願い。一気にやっちゃって」
「りょーかい」
 凛へと答えるせつらの声が響くと同時に、ディスパイダーの全身は完膚なきまでに寸断されて床へと落ちた。

***

 応接用の一室で、五人はソファーにもたれていた。体液で汚れた居間は既に使えない。ただちに徹底調査を行ったものの、例の鏡はまるっきり普通の 鏡。あの怪物は召喚されたのでも封じされていたのでもなく、鏡を出入り口として出てきたとしか思えないと結論されたのだ。さしものアルもそんな例は聞いた ことがないという。
「さっぱりね。大師父の資料でもあされば何かわかるかもしれないけど、関係ある項目捜してるだけで日が暮れちゃうわ」
 凛がお手上げ、とばかりに背伸びをした。なぜかお茶を運んできた士郎が皆に湯呑みを配り、凛の隣へと座る。
「とりあえずさっきの鏡を送ってきた相手に直接尋ねてみるのが良さそうだね。アルさんのことを探していたっていうわけだし」
「うむ。して人捜し屋、妾を探していたというのは何者だ?」
 士郎の言葉に、アルは鷹揚に頷いた。せつらも士郎のお茶をすすって、顔を上げる。
「そういえばさっき言いそびれましたね。そう??言峰綺礼という人です」
『……え?』
 士郎と凛の声が唱和した。まるで数十年行方不明だった知人の消息を突然聞いた時のような、そんな反応。驚くでもなく、ただただ唖然とする、そのような反応だ。
「……確認したいんだけど」
「はあ、なんでしょう」
「確かにそいつは、言峰綺礼と名乗ったんだよな」
 士郎が押し殺した声で問う。せつらは茶をすすって、ゆっくり頷いた。
「ええ、ぼくのオフィスに来て、アル・アジフさんの捜索と先ほどの鏡を届けることを依頼されました。で、アルさんを見つけたらこの街の教会で待ってるので連れてきてくれと」
 微かな舌打ち。ありえない話だ。士郎は、己の内心がさざ波だって苛立ってくるのを感じていた。茶番だ。そう思いつつも、放置しておける話ではない。
「……遠坂、どう思う」
「……」
 せつらの答えに、士郎は難しい顔で凛を見た。凛は凛で、士郎に答えることもなく眉間に皺を寄せて考え込んでいる。返答すら、しようとしない。
「なあ、遠坂……」
「……どうもこうも無いわ。行くわよ、士郎」
「行くって、どこにだよ」
「教会に決まってるでしょ!今の話ならそこに言峰……少なくともアイツの名を名乗ってこんな仕掛けをしてくる奴がいるってことじゃない。本物か偽物か知らないけどね、放っておけるわけがないでしょうが!」
「でもさ、罠かもしれないんだぞ」
「何の罠だってのよ。それにね、アイツが罠仕掛けるならもっと手の込んだことするわ。言っとくけど、止めても無駄だからね。士郎がなんて言おうと私は行くから」
「わかったよ……それじゃ、俺も行くからな。遠坂一人そんな状況に向かわせられるか」
 口調が強い。もうテコでも動くまい。明らかに激高している凛を前に、士郎はきっぱり言い切った。こうなったら誰にも止められない。心情的にも状況的にも、士郎と凛はも教会へとすぐにでも向かうだろう。
「おい、どうするよ、アル」
「こちらも選択の余地はなさそうだ。妾も行かねばならないだろうしな。その教会に妾を連れてゆくことが仕事なのだろう、人捜し屋」
「ええ、まあ、そういうことになってます」
 こちらはこちらで、急展開に戸惑う九郎に、仏頂面のアル。せつらは一人泰然自若に、茫洋と頷く。
「しゃーないな、これは。結局全員その教会とやらに向かうことになりそうだし、せつらさん、案内してくれないかな」
「それは構いませんが、すぐ行くんですか?」
「当然。道は私と士郎も知ってるし、さっさと行くわよ」
 凛はもう愛用のコートを出してきている。一刻一秒が惜しいといった様子だ。時計を見れば午後一時半を回っていた。応接室の扉を開け放つと、全員がソファーから立ち上がる。
「仕方ない。それじゃあ、行きますか」
「あ、ちょっとだけ待ってくれ。すぐ戻るから」
 号令をかける九郎に、士郎が断りを入れる。待つこと数分。戻ってきた士郎を見れば、手には愛用の木刀などを持っている。
「一応護衛用にと思ってね。それじゃあ、行こう」
 士郎の言葉に、全員が頷いた。凛の頷きがひときわ強いのは言うまでもない。
 階段を下り、ホールを通って玄関へと。窓から見る限り、どんよりした雲は晴れる気配が全くない。
「……あ、雨」
 扉を開き教会へと歩みだすと、誰かが呟いた。冷たい冬風に空を見上げれば、ぽつりぽつりと、たれ込めた雲の合間から落ちる水滴。言峰という忌まわしい 名。曇りきった空に、身を切る風と冷たい水滴。どんより立ちこめた暗い空気は、これからの一行の運命を暗示しているようだった。

(第八話・了)

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