| 戒厳令の行使。現代日本においては前代未聞ともいえる、映画めいた市街の封鎖。それが起きたのは一昨年の夏のことであった。 空を覆う雲霞の如き怪物。地を疾り人を屠る異形。某市はこの世のものとも思えぬ獣に埋めつくされ、壊滅寸前の憂き目を見た。事件発生直後、日本政府は戒厳令を施行。48時間後には米軍経由による中性子爆弾投下の手はずになっていたのである。政府のものとも思えぬ迅速な判断ではあり、背後には米国政府やかの覇道財閥の影が見えると指摘する識者もいた。 本来ならば、某市はこの地球上から消滅していたはずなのである。だが―― ミラーワールドのアリス第5話「鏡の世界、再び」 「――で、それからどうなった。それにオレたちとどう関係あるんだ」 式がいらついたように口を挟んだ。白衣の男――神崎士郎といったか――の語り口はどうにも不愉快だ。淡々とした、淡々としすぎた言葉の群れ。感情の色も何も見えぬのに、どす黒く篭った怨念だけが何故か明確に伝わってくる。 (――なんて、不快) まとわりつくような想念に、吐き気が込みあがってきた。眉を潜める式に対し、神崎士郎は冷たい視線を向けるのみ。 「それが、どうにもならなかったのだよ。異形のものどもは翌朝を待たずして全滅。市民に相当の被害は出たものの、隠し通せぬレベルではなかった」 メフィストが言葉を継ぐ。この医師は例によって超然としていた。来し方行く末全てを見通したかのような立ち居振る舞いは揺らぐことがない。一人高みに佇み、裁定者めいた物腰は、崩れるそぶりすら見せぬ。 「“龍騎”、“ナイト”なる存在が関わったという話も聞いているが、今は本題ではないな――では博士、続きをお願いしよう」 「ドクターの言う通りだ。鏡の怪物(ミラー・モンスター)は全てが滅ぼされた。鏡の世界(ミラーワールド)も現実と融合し、この私ごと消え去ったはず――だった」 「だが、アンタは生きている。怪物どもも健在だ。そこのミスター・サムライも――」 腕組みしながら壁にもたれていた屍がぐるりと首を回す。隻眼の先には顎に手をあて瞑目するティトゥスの姿。 「然様。拙者も、そこな道化もまた煉獄に焼かれた身。いかに左道を然くしようと、輪廻の輪から外るるは不可能よ」 今や地虫と化したティベリウスは何も言わぬ。それはすなわち肯定の意。 「あのままなら私は本当に消え去っていただろう。だが、私はそこで――」 ――神に、会ったのだ 神崎士郎は、確かにそう告げた。 *** 一昨年。 神崎士郎は妹を失った。つまらぬ男たちの、くだらぬ思いにほだされ命を自ら断った。妹、神崎優衣は士郎にとって女神であり、世界であり、唯一無二の存在。まあ、とどのつまり――神崎士郎は全てを失ったわけだ。 現と幻の間に消えようとしていた神崎士郎。茫と視界に浮かび、彼を呼び止めたのは暗く響く男の声。神父めいた服を纏う、褐色の肌の男は告げた。 「憎くはないのかね」 「君の妹御はもういない。このまま消え去るは癪ではないのか」 「世界に復讐したまえ。もし、その意があるならば。今一度鏡の世界(ミラー・ワールド)を開くならば」 「――我が手をもって、君の願いを成し遂げて見せよう」 「君の願い」。神父は全てを見透かしていた。士郎の願いはただ1つ。神崎優衣の復活のみ。否も応も無かった。神父の言葉は嘘ではない。悪意と憎悪に満ち満ちているが、虚偽を述べていなかった。 「結構だ」 神父は満足そうに頷く。慈愛に満ちた微笑を浮かべ、両手を広げる。新たな使徒を歓迎するかのように、その姿は神々しい。 「これを使いたまえ」 士郎に手渡される1冊の本。著者名、アーサー・ブルック・ウィンターズ=ホール牧師。表紙には、"ELTDOWN SHARDS"。ぱらぱらとめくると、奇怪な紋様、呪文、意味不明な言葉の羅列。訝しげに面を上げた士郎に、神父は厳かに告げる。 「君ならば、使いこなせよう。しばし観劇させてもらう。君を裏切った世界。呪い、壊し、喰らうといい」 薄れ行く。浅黒い肌が、黒を貴重とした神父服が、闇へと飲み込まれてゆく。 「待て。貴様は」 「私かね。私のことは、そう」 ――ナイ神父と、呼んでくれたまえ。 聖者の微笑浮かべたまま、ナイ神父は闇に姿を消す。瞬時、再構成され、現世との境を取り戻す鏡の世界。 かくして、現実世界への復習は始まった *** しん、と場が静まり返る。神崎士郎は相も変わらぬ虚無で一同を見渡していた。ティベリウス、ティトゥス、両儀式、屍刑士四郎。誰も口を開かぬ。 あまりにも荒唐無稽、どう考えても妄想としか思えぬ話。だが、鏡の怪物(ミラーモンスター)は厳然として存在し、死より還ってきた逆十字もまたこの場にある。ぴりぴりとした沈黙が、一室を満たしていった 「……ELTDOWN SHARDS。ナイ神父。輪廻を無視した死者の復活――なるほど、イスの偉大なる種族の遺産か。まだ懲りぬようだな、無貌の徒」 静寂を破ったのは、魔界医師。メフィストがつまらなげにごちる。水を打ったように静まりかえった空間、魔界医師の美声は、いつにも増して眩く響き渡った。 「メフィスト、わかったような口叩いてないで説明しろ。俺には何がなんだかさっぱりだ」 「さて、博士」 「何かな、ドクター」 憮然とした屍を完全に無視し、メフィストは神崎士郎を見つめる。細波ほどの揺らぎもみせぬ紺碧の瞳が、白衣の天才をしっかと見据えた。 「事情はのみこめた。それはそれとして」 目元にかかった髪をはらう。その仕草すら嗚呼、美しい。 「私の病院でまだ続けるかね?」 言葉が発せられた瞬間。空間がまたも凍りついた。 *** 寒気を覚えたなど何年ぶりだろう。両儀式はメフィストの言葉に、心底慄然としていた。 メフィストの言葉は、例の如く感情の色が無い。ただただ淡々と、事実と思念を告げるのみ。なのに、なぜ、こんなにも背筋が凍るのか―― 「ドクター」 喉が重い。意識せずとも声が掠れる。額を伝うのは一筋の汗だろうか。浅葱の和服が、じっとりと重い。 メフィストがゆっくりと振り向く。 「アンタ、何者だ」 それは、全てを集約した問い。今感じている恐怖の正体、先の意味ありげな発言。全てを見透かしたような、メフィストの言動。 ばさり。式の視界を覆う純白のケープ。きらきらと光の筋引いて翻る中―― 「我が名はドクター・メフィスト。十分な答えではないかね?」 ドクター・メフィスト。魔界医師。両儀式は、その言葉の真の意味を知ったと直感した。 式の感情は、逆十字の魔人にとっても共有可能なものであったのだろう。メフィストが言葉を紡ぐや否や、あれほど凝結していた殺意、瘴気がまるっきり消えてしまった。 否、消えたのではあるまい。メフィストに気圧され、氣を発することが出来なくなったというのが正しいのだ。 屍刑四郎はそれをよく理解していた。ドクター・メフィストは正真正銘の怪物だ。己もまた超人であるが、この医師はある意味でケタが違う。そもそも本当に人間なのかどうか、屍は心底疑うこともあった。 今はわかる。メフィストが人間なのかどうなのか、そんな問いには意味が無いのだ。ドクター・メフィストはドクター・メフィストであり、それ以外のものではありえない。いや、あってはならない。林檎は地に落ちる。地球は自転する。時は刻まれる。世界法則と同等の意味合いで、メフィストはメフィストなのだ。だからこそ、人は呼ぶ。 ――魔界医師メフィスト、と。 屍は思考を切ると、また壁にもたれかかった。しばらくは沈黙と睨みあいが場を支配しそうだ。 *** 沈黙。ただ沈黙。 どれほどの時を経たであろう。数秒かもしれない、あるいは数分、下手をすれば数刻。神崎士郎は、重い口をゆっくりと開いた。 「――よかろう。確かに場の選定が悪かった。ここは退くとしよう」 「ハァ!?何言ってるのよ!これだけ好き放題やられてケツまくって逃げるっての!?」 即座に突っかかるのは、当然ティベリウス。口角泡を飛ばし、仮面を真っ赤にして問い詰める。それはそうだろう。両儀式――小娘相手にここまでやられたのだ。文字通りの醜態をさらした身。このまま引っ込んでは、己のプライドが許すわけも無い。 「ティベリウスよ。案ずるな」 今まで沈黙を守っていたティトゥスが、ようやく口を開く。顎に手を当てたまま、硬質かつ無感情な声と視線がティベリウスに向かう。 「忘れたか。我らの目的はそこな娘。両儀式はあの男に随分と執心の様子。さらに、かの病室には――」 「……そうね、言われてみれば」 ティベリウスは一転、それはそれは嬉しそうに笑みを浮かべる。ねっとりと、胆汁質の視線と笑み、式をねめりと嘗め回した。 「……なんだよ。やるなら相手になるぜ」 喉から絞り出すように式が答える。悪い予感が止らない。知らず知らずにじっとりと嫌な汗が漏れ出る。この悪寒は。道化の薄気味悪い笑みの理由は、一体。 「違うわよお。式ちゃんにはそんな暇は無いはず。なんてったって、幹也ちゃんの病室には鏡があるんですからねえ!」 「っ――!!」 ピエロの哄笑を背にしながら、両儀式は脱兎の如く駆け出していた。 *** (なんて、迂闊――!) 走る。疾る。式は己の間抜けさに心底嫌気が差していた。当事者が1つの場に集合している。成る程、確かに普通ならその場にだけ気を配れば良い状況だ。この場にいない者、即ち黒洞幹也は安全。そう考えるのが妥当だろう。 だが、遠隔的に手を出せるならば話が別だ。外からの襲撃には強固なメフィスト病院といえど、鏡からの侵入など想定してもいまい。 あのサムライは自分が狙いだと言った。幹也をエサにすれば釣られることも見抜かれていたようだ。ならば、わざわざ自分と幹也を引き離し、小競り合いや問答で時間を稼いだのは何のためだったのか―― 「幹也っ!!」 ノックなどあろうはずもない。ただただ焦燥にかられ、病室の扉を押し開いた。 がたん。 答えるのは、勢い良く開いた扉に押し倒された機材のみ。ひゅうひゅうと肌寒く吹き込む風の中、佇む清潔な白いベッド。 ぴかぴか。ぴかぴか。乱反射する鏡がとてもうざったい。 予期していた。当然の結果。なるほど、自分という大魚を釣るための餌の調達。わざわざこの病院を襲ったのは、はじめのはじめからこれが目的であったのやもしれぬ。 空っぽのベッド。そして、幹也の代わり。風にふかれて金髪なびかせる長身の少年が1人。 「―-え?」 おかしい、これはおかしい。 自分が予期していたのは黒洞幹也の不在のみだ。鏡の世界とやらに引きずり込まれたとしても、それこそ数秒ですむはず。両儀式が発見するのは、空っぽのベッドだけであったはずである。 だのに、何故―― 「はじめまして、かな。両儀式」 金髪の少年。驚くほどの美貌の少年は、艶然と微笑みかける。体にフィットした紫の衣装すら、艶かしい。 ――こんなにも禍々しく、美しいモノがいるのか 心臓が早鐘を打つ。まずい。こいつは、あまりにもまずい。 体が動かない。金縛りにあったかのようだ。存在不適合者、起源覚醒者、統一言語師。危険な、危険すぎる存在とは数限りなく遭遇してきた。だが、彼らは一欠けらなりとも、人間であった。 この男。妖しい笑み浮かべる少年は、根本的に異質の存在だ。なんでこいつからは、闇よりも深い闇しか感じられない――! 差し込む風が、少年の髪を彩っていた。 冷たい空気が、彫刻めいた面を際立たせていた。 硬直した両儀式を前に、含み笑い1つ。ソレは、ゆっくり言葉を紡ぎ始める。 「名乗りあげがまだであったな。これは失礼。余はテリオン。魔導の求道者マスターテリオンである」 魔術結社・ブラックロッジ大導師、マスターテリオンは静かに名乗りあげ。両儀式に微笑みかけるのであった。 (第5話・了) 【トップへ】【第6話へ】 |