「――っ!」
 式の、声ならぬ悲痛な叫びが路地に木霊する。屍の姿は見当たらない。どこに向かったのだろうか。
 ふと見れば、幹也を貫いた触手は、くねくねと、さらなる獲物を求めるかのように舞っていた。逃がさない。逃がすわけにはいかない。両刃のナイフを逆手に、式の魔眼が触手を射抜く。
 ――見えた
 “線”が見えた瞬間、式の表情が殺戮者のそれに変わる。距離はおよそ6メートル。一足刀の間合いだ。
 断!地を蹴り、浅葱の和装が宙を舞う。銀に煌くナイフ、触手を走る“線”の一端を切りつけようとした、その刹那

 するん

 触手が、鏡の中に舞い戻った。結果的に、ナイフが切り裂いたのはその先端のみ。しかも、“線”からは微妙にズれている。
 びしゃり!緑の体液撒き散らし、触手の一端は地面に落ち。びちびちと脈打って、ただの肉塊と化した。
 残されたのは、ギガゼールの無数の屍。ごろりと転がる、黒洞幹也の体のみ――



ミラーワールドのアリス第3話「白き医師



 「幹也っ!」
 触手、即ちティベリウスが去ると同時に、式は幹也の元に駆けつけた。腹部から流れ出ていた血は、既に凝固し地面を紅に染めている。
 抱きかかえた幹也の体は妙に軽く、青白い。ぬらり。残留した血と、はみ出た内臓の感覚が式の手を濡らす。
 「おい、幹也!しっかりしてくれよ!」
 「お嬢さん、乗れ!」
 己はともかく、幹也が傷つくのは耐えられない。彼を失えば、自分は生きてはいられないだろう。想いが錯綜し、今にも泣き出しそうな式の声。それを破ったのは、屍の錆びた声と。道路を焼き来たる車のエンジン音だった。
 
 「刑事さん、この車……」
 いつの間にまわしてきたのか。屍の車に、式は一瞬絶句した。怪我人を運ぶのにこれは無い。緊急事態にも関わらず、そんな感想を抱いてしまう。
 無理も無い。屍の愛車は黒塗りの覆面パトカー。上部には、棺桶を模した箱が設置され、圧迫感を醸し出している。端的に言えば――霊柩車だ。
 「そんなことはどうでもいい!病院に急ぐぞ!」
 窓から顔を出し屍が怒鳴る。
 どうでもよくない。そう言いたいのをぐっとこらえ、幹也を抱え後部座席に乗り込んだ。確かに、今は手当てが最優先だ。



 サイレンを鳴らし突っ走ったおかげで、所要時間は僅か数分。
 <新宿>区歌舞伎町、メフィスト病院。この病院は、名実共に<新宿>の最大最高の設備を誇る。屍と式が辿り着くと同時に駆けつけてきた救急隊員たちは、ものの数秒とかからず幹也を院内に運びこんだ。キャスター付きのベッドに載せ、速やかに応急室に運ぶ手際だけ見ても、超一流のスタッフを揃えていることがわかる。
 屍は急患手続きのため受付に走り。式は急患出入り口近くの待機室に一人残された。

 「急患かね」
 突然、式の視界の片隅で、白いケープが揺れた。
 場にあまりにそぐわなく、同時に完璧に調和した声。ゆっくりと振り向く。この上なく調律されたストラトヴァリウスならば、このような音色を奏でるだろうか。
 ――ああ、この街は
 天使。悪魔。ギリシャ彫刻。美術品の極。我知らず、刹那に見惚れた。月輪さえ恥じ入る美とはこのことか。幹也のことすら一瞬脳裏から消え去り、柄でも無い感想が頭を占める。
 いや、感想という言葉は的確ではあるまい人智を超越した美に触れる時、人はただ放心し畏れるだけなのだから。 
 ――やっぱり、魔界だ
 式の感慨も余所に、純白の医師の面は動かない。ちらり、と式を一瞥しただけだ。その瞳に何が映り、いかなる想いを抱くのか。式には知る由もない。
 「……アンタは?」
 かすれた声で、問う。
 「私かね。そう、私は――」
 ドクター・メフィスト。魔界医師。
 メフィストがただ静かに名を告げるのと、屍が戻ってくるのは同時だった。
 


 「やってくれるわね、あの娘。可愛い顔しちゃってまあ……」
 鏡の空間。閉鎖空間。ティベリウスが佇むは万能結界の内部、即ち鏡の世界(ミラーワールド)。
 断ち切られたはずの触手が、ずるずると再生してゆく。どぎつい緑色の体液、ぶんぶんと飛び交う蝿の群れ。どこからどう見ても、人間の佇まいでは有り得ない。
 「それじゃ、早速――」
 ティベリウスが再び動き出そうとした、その瞬間。

 「無様な。神崎とやらのお膳立ても無意味だったようだな、ティベリウス」
 ティベリウスの背後から、突如として声がかかった。冷えきった、錆びた声。突き放した物言いながら、揶揄する調子は全くない。かといって、慈愛に満ちているわけでも勿論無い。好悪の別といった人間的感情には全く縁がない、ぽっかりと口を開けた虚無だけがその声を特徴付けている。
 「何しにきたのよ、ティトゥス。アタシは式ちゃんのところに早く行きたいんだけど」
 不機嫌そうに答えるティベリウス。ティトゥスと呼ばれた男はただ口元を歪めた。くわえた一葉、ざんばら髪。着流しめいて羽織る洋装からは、引き締まった胸元が覗く。一部の隙もない身のこなし、その雰囲気。サムライと形容するのが最も適切であろう姿は、人知れぬ妖気を纏いただ静かに佇む。
 「承知の上。某はただ、貴様の手助けに参じたまでのこと」
 「はん!アンタがアタシを手伝う?どうせ大導師様の命令か何かでしょうに。
 「手負いが吠えるな。両儀の娘を取り逃がした事実は変わらぬ」
 「ふん......好きになさい。アタシの邪魔したら許さないけどね」
 ティトゥスが痛烈な悪意を込め、また口元を歪める。ティベリウスは鼻で笑ってそれに答える。
 ブラックロッジが存在していた折から、この二人はとことん相性が悪かった。荒事をこなす上では最良の組み合わせであったことも、不仲を促進させる一因だったのだろう。 
 すえた腐臭を発し、ティベリウスの触手が完全に再生した。ぽたり、ぽたり。滴り落ちる汚液に、ティトゥスが顔をしかめる。
 「・・・まあいいわ。じゃ、行きましょうか」
 「応よ」
 にたりと気味悪くティベリウスに、ティトゥスは無表情に答え。2人の魔人は暗闇に消えた。



 メフィスト病院、応接室。清潔な白壁に、豪奢なソファーが鎮座する。壁にかかっているのはゴヤの名画だろうか。
 長いくねった廊下を渡り、今ここには3人が集っていた。両儀式、屍刑四郎、そしてドクター・メフィスト。事ここに至る事情説明は既に終わり、式がメフィストを見やる。
 「……それで、幹也は大丈夫なのか?」
 「問題ない。あの程度なら数日とかからず全快する」
 感情を押し殺した式の声。平然としたメフィストの言葉に、式は安堵の息をつく。
 「ここの病院なら、死んでない限り大丈夫だーーあの程度の怪我は珍しくもない。安心しな、お嬢さん」
 屍が言葉を継いでニヤリと笑った。
 「で、院長さん。なんで俺たちをここに呼ぶ必要がある?」
 「それは君が良く知っているだろう、屍刑事」
 能面の如き美貌が微かに笑んだ。全てを見透かすような透明な笑み。屍はそっぽむき、ドレッドヘアーをわしわしと掻く。
 「まあ、お嬢さんにも話しておいたほうが――」
 屍が言葉を紡ごうとした途端。応接室、否、メフィスト病院が、揺れた。



 メフィスト病院屋上。片山警備員は、退屈極まりない業務を淡々とこなしていた。いかに魔界都市といえ、ここの病院にちょっかいを出す愚か者がいるはずもない。大欠伸1つ。通信機に向かって報告を入れる。
 「こちら屋上。現在、異常無――」
 
 報告終了間際。片山の視線が固まった。
 屋上に鎮座する貯水タンク。その上に何かいる。
 「何か」ではない。あれは人だ。狂い風のばさばさと吹かれるざんばら髪、なびく着流しめいたコート。東洋人だろうか。茶の瞳は、ただ虚空を見つめている。
 いや、髪と洋装はなびいているのではない。よくよく見れば、風は一定の方向性を持ち、男の周囲を取り巻いている。即ち、凪いている。
 この魔界都市の風を自在に凪かせる。これだけで、目の前の男は十分に危険な存在だと、片山の無意識は認識していた。

 忘我は一瞬。危険と認識したからこそ、行動は迅速。
 「何者だ!」
 叫びと共に腰の拳銃に手をやった。片山は警備の任に伴い、筋力と反射神経強化を施されている。拳銃の早抜きは実に1/1000秒。一見普通の制服にしか見えない警備員服は強化アラミド製であり、双頭犬の一撃にも耐え切る性能を持つ。
 彼我の距離は数十メートル。1/1000秒で22口径・キッツガンを抜き――

 1/2000秒の居合いに斬り捨てられた。

 「つまらぬ」
 ティトゥスは、病院への階段を前に呟いた。ごろりと転がる遺体には欠片ほどの興味も示さない。
 疾風もかくや。何時の間にかタンクから降り立ち、警備員を斬り捨てたのか。其の身には寸鉄すら帯びていないというのに。
 妖気纏う侍は、悠々と歩を進める。目指すは、両儀の娘のみ。



 同時刻、病院最深部、地下10階。
 「はあーい、ご機嫌いかが?」
 悪夢めいた道化師が、上機嫌に笑いかける。それはそれはもう、楽しくて仕方ないといった、最高の笑み。
 対照的に、警備員・桐谷は恐怖に震えていた。目の前の化物はなんなのだ?仲間の1人が、壁から這い出てきた触手に絞め殺され。次の瞬間、また数人が這い出てきたピエロの触手に刺殺された。その間、わずか数秒。何かの対応を思案する暇もなかったと言って良い。

 ティベリウスは一歩を進める。桐谷は一歩下がる。
 「少し遊んであげてもいいんだけどね。アタシ急いでるのよ。だから――」
 ひい、と間抜けな叫びあげ、桐谷は背を向けて走り出す。逃げ場など何処にもありはしない。わかっていても、逃げるしか選択肢は無い。
 「――さよなら、ね」
 ずしゃり。桐谷の背中から腹部を、触手が一気に貫通した。せめてもの救いは。その一撃が致命傷であり、速やかにあの世に行けたことであろうか。

 「待っててね、式ちゃん。服を破って滅茶苦茶に犯して、澄ましたお顔を涙とアタシの液でびちゃびちゃにしてあげるわ♪」
 それはそれは嬉しそうに破顔すると、ティベリウスは階上へと足を進めた。こちらも、狙いはただ1人――



 メフィスト病院に振動が走った。
 慌てず騒がず、メフィストが軽く手を振る。人差し指を飾った緑石が、一条の光芒を発し像を結んだ。
 「婦長、報告を」
 「侵入者です、院長。屋上と地下10階よりそれぞれ1体ずつ。現在警備隊が排除に当たっていますが、芳しくありません」
 丸顔に白衣を纏った中年の女が、冷静沈着に答えた。“婦長”なる言葉の最大公約数といった趣だ。メフィストの表情は動かない。
 「患者に被害は?」
 「巻き添えの負傷者が多数。侵攻ルートから算定するに、応接室を目指していると推測されます。こちらが、侵入者の映像です」
 患者に被害が出た。その事実にメフィストの美貌が一瞬歪む。
 新たに2つのスクリーンが浮かぶ。屋上と地下が舞台の映像が、それぞれ結像。
 屋上、凪を纏いて淡々と歩む、ざんばら髪の侍。アンチクロスが一、ティトゥス。
 地下10階。コンクリートからずぬりと這い出てくる、狂気のピエロ。同じく、ティベリウス。
 駆け寄ってきた警備員を一瞬にして贄ると、魔術師たちは行動を開始した。



 (あいつは――!)
 ティベリウスを視認した途端、式の表情が強張った。間違いない。あの毒々しい色彩、あのずるずると不快な触手。見間違える、はずもない。
 あいつだ。あいつが、幹也を――
 危険に過ぎる殺気を漲らせ、式は魔界医師に目をやる。

 「ふむーー」
 メフィストはこめかみに指を当てると、黒髪をなびかせ、くるりと椅子を回した。視線の先には、式と屍が座している。
 「私の患者たちに害したとなれば、捨ててはおけんな。お二人にはしばらくここでお待ちーー」
 「いや、オレが行く」
 メフィストの言葉は、鋭く遮られた。
 「あのピエロ野郎には借りがあるんだ。幹也を傷つけたこと――許さない」
 声はもう平静だ。ただ、眼が据わっている。全身から発せられるのは、凍てついた怒り。

 「俺も行こう」
 のっそりと屍が立ち上がった。懐の55口径リボルバー“ドラム”の重みを確かめる。
 「一応警察だからな。見てみぬふりってわけにもいかないだろうさ」

 かくしてここに、第一幕の役者は揃う。襲い来るはピエロ、侍、狂気の学者。対するは、両儀の娘、魔界刑事、白き医師。
 魔界に聳える病院で、死闘が幕を開けようとしていた。


第3話「白き医師」了

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