時間と空間が世界と同じ意味を持たぬ地。ほんのわずかに、位相のずれた閉鎖世界。無数の硝子に囲まれたまま、白衣の男は佇んでいる。
 硝子の一枚、鏡面が歪む。音もたてずに、一つの画像が実を結ぶ。

 「士郎ちゃあ〜ん、アタシの出番そろそろじゃないかしら?」
 画像が発するは、妙に不快感を感じさせる声と言葉遣い。士郎と呼ばれた白衣姿の男は顔をしかめた。
 "It"。ジョン・ウェイン・ゲイシー。ファーストフードのマスコットキャラ。
 士郎、神崎士郎が目の前に映る存在に対して抱いた印象はまさにそれ。ティベリウスとなどご大層に名乗っているが、ハナから覚える気など無い。
 これならばミラーモンスターのほうが余程見栄えがすると、士郎は思う。
 無理も無い。人を小馬鹿にしたような蛇めいた仮面、だぶだぶのどぎつい色彩の衣装。常に漂う死んだ魚の匂い。これで不快感を感じない方がどうかしている。
 
 「ねえ、話聞いてるの〜」
 粘液質の声と視線が、ねめつけるように士郎に届いた。死神めいた白衣の男は、一瞥もくれずに淡々と言葉を紡ぐ。
 「聞くまでもない。成すべきことはわかっているだろうに」
 ぼそぼそ。陰々滅々たる声が響く。
 ちろり。腑臓めいて真っ赤な舌が、ちろちろと踊るのは肯定の合図だろうか。
 
 「なんていったかしら、あの娘。寝かせておけばいいのよね」
 「両儀式だ。殺しては意味が無い。程々にしておけ」  
 「そうそう、式ちゃん。写真みたらボーイッシュで可愛いったらありゃしないの。じ〜〜っくりと虐めて、いい声で鳴かせてあげたいわねえ」
 ねっとりと淫猥な笑みを浮かべるティベリウス。士郎はもとより相手をする気もないのか、答えようともしない。
 「士郎ちゃん、無愛想ねえ。それじゃ、行ってくるわ」
 仮面の笑みを張り付かせたまま、ティベリウスが姿を消す。士郎もまた、面を崩し陰惨に笑い、消えた。 



ミラーワールドのアリス第2話「悪夢の回廊



 警視庁<新宿>署、正面出入り口。文字通りの不夜城たる署も朝焼けを迎えようとしていた。午前4時ともなれば、さすがに人通りは薄い。
 コンクリートに対妖物用の呪印を刻み込んだ堅牢な階段。叩く足音は、わずか2つだ。
 「お疲れさま。どこかで休んでいこうか?」
 「いらないよ。それより、早く戻るぞ」
 黒衣の青年が微笑んだ。傍で憮然と答えた女は、浅葱の和服に皮ジャンの重ね着という異装。黒洞幹也と両儀式である。
 ホテル・トランシルヴァニアにおける非常識極まりない事件。式と幹也は重要参考人として署まで引っ張られた。なんやかんやと時間をとられ、結局日の出を拝む羽目になったというわけだ。幹也はともかく、式が不機嫌になるのは仕方ないだろう。

 「全く、なんで警察ってのはあんなにせせこましいんだ。オレたちが被害者なのはわかってるのに」
 「仕方ないよ、それが仕事なんだから」
 「屍とかいう刑事も酷い。あいつは確かに普通じゃないんだ。いなくなるなんて反則だ」
 そう、2人を引っ張ってきた隻眼の刑事は、署に辿り着くなり姿を消していた。式にとってはそれも不満の種らしい。
 憤懣やるかたない式の様子。困ったなあ、とばかりに、幹也はまたいつもの笑みを浮かべた。

 幹也の笑みに、式は一瞬ドキリとする。先までの不平不満が、頭から奇麗さっぱり消えてゆく。
 (全く、幹也は――)
 式はこの笑みが苦手で――好きだった。
 悟りすました笑みではない。教えさとす教師のものでも、子を見守る親のものでもない。じゃじゃ馬な恋人を見詰める微笑ですら、ない。
 ごくごく平凡な、どこにでもありそうな普通の微笑み。あまりに微笑みらしすぎ、誰もが見過ごしてしまいそうなそれ。あまりに平凡で普通であるがゆえ、逸脱している。
 式は己が本質的に異端者であることを自覚している。魔眼だけではない。彼女の出自からして、人間というハードウェア・ソフトウェアから逸脱しているのだ。
 普通ゆえの逸脱と逸脱の極地。
 幹也の笑みは己の異質性を否応なく思い出させる。同時に、自分と彼が全く彼岸の住人ではないことにも気付かせる。
 ともあれ、2人を繋ぐ大切な絆であることは確かだ。幹也が自分にとって特別な存在なのは間違いないのだから。 
 流れる思考を切って、式はホテルに向かって歩みを進めた。


  
 <新宿>の朝は早い。魔界都市の中心地、旧新宿駅周辺ではなおさらのことだ。
 巨大デパートたる新丸井、高島屋の周囲には、既に従業員らしいフルフェイス姿が見える。朝の日課、双頭犬や巨大蜘蛛といった妖物狩りだろう。お客さまの安全のためには必須だ。
 第一級安全地帯、花園神社には散歩する老人と犬の姿。老人は虚空を眺めブツブツと何事かを呟いている。視線の先、美女めいた姿の靄がたゆたっているのは気のせいではあるまい。
 入ったら2度と出て来れない閉鎖空間大宋寺。現代の九龍城犯罪者通り。
 安全地帯、危険地帯。どこの通りでも、盛況とまでは言わぬまでも人、あるいは人ならぬ姿が散見される。
 百鬼夜行めいた街の風景の中、式と幹也の宿泊するホテル・トランシルヴァニアが聳え立つ。白亜の大理石めいた外見は、威容であり異様だ。硝子の群れが、朝日を反射し眩しい。
 カツリ。2人は何事もトラブルに巻き込まれること無く。幹也がホテルへの一本道に足を踏み入れんとした時。
 式が、眉を顰めて立ち止まった。

 「式、どうかした?」
 「変だ、ここ」
 訝しげな幹也に、式は端的に答えた。
 幹也は眼を凝らす。特別なものは、何も見えようはずが無い。
 朝靄に包まれた広い広い路地。ぽっかりと広がる空間のむこう、朝の陽光をきらきらと反射するのは、ホテル・トランシルヴァニアの入り口を覆う硝子だ。
 静謐。そう形容するのが一番似合う。実際にそう、この通りには――
 「何か変かな。僕たち以外、誰も――」
 ――誰も、いない?
 幹也は、言葉を切る。違和感。式が感じていたであろうそれが、むくむくと頭をもたげる。
 警察署からここまでの道のり。どの通りも、猥雑な人の気配で満ちていた。例え姿が見えなくとも、“匂い”は確かに残留する。探し物の名人たる幹也にとって、その“匂い”を察するなど容易い芸当だ。
 魔界都市の中心地の一角、最大のホテルへ連なる界隈。そこに、商売人がいない。通行人がいない。“匂い”すらない。
 硝子だけが、ぴかぴか、きらきらと眩く照りつける。



 「あらん、結構勘いいのねえ。気付かれちゃったかしら」
 鏡面を通し、式と幹也をねっとりと見つめる影。毒々しい色彩の道化服が、暗闇の中で気色悪く映えた。元ブラックロッジ大幹部、アンチクロスが一、ティベリウスである。
 彼の周囲から漂うのは、野生動物の匂い。1つ、また1つと、闇に無数の眼が光る。
 ぼんやりと、鏡を透過する光に浮かぶその姿。動物学の素養を持つ者ならば、Tragelaphus strepsiceros。即ちレイヨウを想起したであろう。
 最も、レイヨウは二足歩行などせぬ。硬質化した鎧の外皮など持たぬし、ましてや二股の刃ついた杖を手になどしていない。
 「ミラーモンスター・ギガゼール、暴食せよ!」
 ティベリウスがさっと手を振ると、ギガゼール軍団は現実世界へと向け、一斉に浸食を開始した。



 きらり。刹那に、硝子の表面をよぎる影。硝子から飛び出たそれ、一直線に飛び来る。
 とん。バックステップ。式の目の前を、白く光る刃がかすめた。
 刃の持ち主は、すっくと立った1匹の動物。小首を傾げ、式を睨み付ける。
 ―ーああ、やっぱり、さっきからの悪寒は
 式は今日何度目かわからない溜め息をつく。ホテルの時と同じだ。二足歩行の化け物。野生動物の醜いカリカチュア。
 野生動物というのは美しい。式はつくづくそう思う。狩猟であれ、食餌であれ、生存という行為にのみ特化した完璧な彫刻。
 だからこそ、こんな造作は許しがたい。二足歩行、首を傾げるなどいう人間めいた挙動。武器をかまえ鎧を着込むなどという不粋。
 一言で言ってしまえば、両儀式はこの化け物がとことん気に入らなかった。

 思考は一瞬。見れば、奴が、逃した獲物を狩るべく腰を溜めーー再度の跳躍。
 交わすまでもない。線だらけだ。点だらけだ。リーチのある杖が得物とはいえ
 ――切ってしまえば、皆同じ。
 杖先の刃が、式を襲わんと大きく振り下ろされる。横に流れた式の体は、無造作にナイフを振るう。
 ドサリ。
 きょとん、とした面持ちでギガゼールは右の腕を見つめた。本来は有機的に接続されているはずの右腕。今は、ただのカタマリと化して地面にゴロリと転がる。
 「遅いよ。お前は、線が多すぎる」
 退屈そのものといった声。白刃の煌めき。
 レイヨウ、即ち、ミラーモンスター・ギガゼールは、振り向く間もなくきっちり17個に分断された。

 式がナイフを降ろした瞬間だった。ホテルの硝子、中空を経由し、今一度の殺気が空気を貫く。
 ――新手?
 とん、とん、とん。式を取り囲むように、怪物たちが円陣に着地した。足下に転がる膾に刻まれたギガゼール。同じ姿の怪物が、さらに5匹。1匹1匹はさして問題にならねども、数というものはそれだけで凶器となり得る。
 ましてや、式の武器は魔眼とナイフのみ。殺傷力においては比類が無いが、1対多は想定していない。
 (ちっ、多い――!)
 舌打ち。5体のレイヨウ、まとめて跳躍。二股の刃が式を引き裂こうとし。
 刹那、耳をつんざく轟音と共に爆発四散した。



 「やれやれ。あんた達はとんだお友達をお持ちのようだな」
 路地の入り口。錆びた鋼の声に、鏡より這い出しはじめていたさらなるレイヨウどもが凍てついた。
 野生は野生を知る。余裕のある空間で対峙すれば、連中は尻尾を巻いて逃げ帰ったに違いない。
 無数の瞳が、180cmを軽くクリアする影を見詰める。妖々と吹き付ける野生の気はまさに圧倒的。
 縮れたドレッドヘア。焼いた鍔で覆った隻眼。花を散らした上着に、隆々たる体躯を包むコート。硝煙たなびくは、巨大に過ぎるリボルバー。
 ――“凍らせ屋”屍刑四郎。

 化け物どもの怯えを、式が見逃すはずも無い。たん、と地を蹴り、軽やかに跳躍。浅葱の裾たなびかせ、乱入者の横にすっくと立つ。
 「尾行とは悪趣味だね」
 「仕事だからな」
 軽口。悪びれた様子もなく屍も答え、不器用にウィンク1つ。式が裾元散らしてくるりと舞った。
 カッ!小気味良い音たて、ターンする2つの影。
 「やりすぎるなよ、お嬢さん」
 「そっちこそな、刑事さん」
 口元を歪める屍に、式もまた嗤う。隻眼と魔眼はそれぞれの得物を抜き放つ。
 前方に伸びる55口径リボルバー。後方を狙う両刃のナイフ。背中合わせの魔人2人。
 開始の合図は、鮫の笑み。
 


 黒洞幹也は、半ば唖然として見守っていた。
 キイキイと不快な鳴き声と共に、ガラスから飛び出てくる怪物たち。
 式がナイフを振るう度、死線を断たれたモンスターが倒れ伏す。屍の銃が吠える度、化け物どもは跡形も無く吹き飛ぶ。
 圧倒的だった。何の防備もなく身を守るすべも無い幹也が、全くの安全であるほどに。
 幹也は一歩下がる。2人の邪魔になってはいけない。何気なくずらした視線に、ふと入るものがあった。
 路地の傍に安置された、左右確認用のミラー。そこに、何者かが映っている。幹也は眼を凝らした。式ではない。屍でもない。ほぼ全滅しつつあるモンスターでもない。マッド・ピエロ。そうとしか形容出来ない、奇々怪々たる道化服の姿だ。
 蛇の仮面が、ニイと口元を吊上げた。少なくとも、幹也にはそう見えた。ぶるん。道化師は、臓物めいたずるずると長い触手を振り上げ―ー
 視線の先を追う。間違いない。奴が狙っているのは――

 「式、危ない!!」
 「式ちゃん、いただくわよん!」
 
 ティベリウスが式を狙い触手を振るうのと。幹也が式を突き飛ばすのは、全く同時だった。



 ゴトリ。
 式、屍の知覚にあってもそれは一瞬だった。モンスターの始末に負われていた自分たち。両儀式が、己への視線に気付いた時は既に手遅れだったろう。
 式へと向け、交通安用のミラー槍を模した触手が走り。
 黒洞幹也が、彼女を突き飛ばし槍に差し貫かれた。

 「みき、や......?」
 呆然と、式が呟く。
 答えは無い。どくどく、どくどくと、鮮血が路地を濡らしてゆく。幹也はピクリとも動かない。槍に貫かれた腹からでろんとはみ出ているのは、内臓だろうか。
 「幹也、幹也――――っ!!」
 レイヨウの死骸と血煙に満ちた路地の中。両儀式が絶叫する。幹也は死骸めいてただ無様に転がる。
 彼女の声は、ただ空しく硝子に吸い込まれていくだけだった。

 (第2話・了)

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