かしゃり。
 かしゃり。
 血みどろの部屋に、甲殻類の足音が響いた。
 東京都新宿区・旧南新宿駅すぐ、ホテル・トランシルヴァニア。「区外」の人間のみが利用出来る、<新宿>最高級ホテルの634号室である。薄紅色の品の良い絨毯、人間二人半が横になれるベッド2つ、壁にかかった風景画。客室は15世紀ルネッサンスめいたインテリア。映画に出てきそうな一室だ。最も、現状にあってはラブロマンスよりアクション映画に相応しいのが難点か。
 というのも。絨毯をさらに紅に染めているのは、じくじくと広がる血液。元をたどればごろりと転がる、膾に切り刻まれた、ボーイだったモノ。控え目に言って、猟奇的な殺人現場というわけだ。
 「式、そこの人――」
 「手遅れ。それより幹也、少し黙っててくれ」
 黒桐幹也のためらいがちな声に、両儀式はにべもなく答えた。
 目の前の存在に注意を集中する。鋭利な鋏。頑丈そうな外骨格。無機質そのものの、冷酷な瞳。その全てが、獲物を狩り、貪るためにあることを疑う余地は無い。
 ぱちん、と。袂から手にされる、両刃のナイフ。怜悧な輝きは、式の浅葱の和服に良く映える。
 ――ああ、全く
 式は、心の中で何度目になるかわからない溜息をついた。中性的に整った面立ちは、不機嫌そのもの。まあ、無理もあるまい。
 何の気まぐれか、朴念仁な恋人から誘ってきた聖夜。穏やかな空気流れるデートコース、少し洒落たディナーをすませ、夜はこれから。そんな時に目の前で人死にがあれば機嫌も悪くなるだろう。
 おまけにその犯人が。
 鏡から飛び出てきた、黄金色の二足歩行する蟹であった日には――



連作二次創作



『ミラーワールドのアリス Alice through the Glass of Nightmare』
第1話:「鏡の怪物は2度ベルを鳴らす」




 「黒桐。今月の給料だが」
 「二ヶ月連続で無しは勘弁してください」
 丁度一週間前。人形師にして魔術師のオフィス。
 口を開きかけた蒼崎橙子にむかい、黒桐幹也は即答した。先々月は給料1/2。先月は無し。
 ―― このままでは、死んでしまう――
 幹也がそう思ったのも無理はあるまい。まあ実際のところ、両儀式がいる限り(ついでに何かとやかましい妹がいる限り)、彼が生活に不自由することは、絶対に無いのだが。
 「ほほう、君は私をそんな目で見ていたのか。せっかくのボーナスがいらないとみえる」
 「……は?」
 思わずの間の抜けた声に対し、橙子はニヤリと意地悪く笑った。いつの間にか、その手にはヒラヒラと紙切れが踊っている。
 「ホテル・トランシルヴァニア。クリスマスイブ、スイートルームの1泊2日コースだ。君がいらないなら、可愛い弟子にでも」
 「いりますくださいお願いします」
 再度、幹也の即答。狙い通りとばかりに橙子が口元を歪めた気もするが、大した問題ではあるまい。
 特別なトラブルが無く、邪魔も入らずに、聖夜が過ごせる。幹也にとって、十二分すぎるくらい、いや、出来すぎたくらいの幸福だ。無愛想な“彼女”も、なんだかんだ言って喜んでくれるだろう。
 「有難うございます…ところで橙子さん。今月の給料ですが」
 「給料とボーナスが一緒に出ると誰が言ったね」
 微妙に口元が緩んでいる幹也に、橙子は今度こそ意地悪な笑みを浮かべたのだった。

***

 肉だ。女の肉だ。
 数ヶ月ぶりの柔らかそうな肉。死の前までに食したのは、ほとんどが筋ばった肉ばかりだった。
 美味そう。引きずり込む。刻む。喰らう。
 乱雑極まりない、非言語的思考。蟹ことボルキャンサーの野生は、獲物を前に興奮の極にあった。人は餌だ。奴は獲物だ。どくどくと流れる血肉は、さぞかし己の喉を潤してくれるだろう。
 「KYSHAAAA!!」
 真紅のカーペットを踏みしめ、立ち込める血の匂いに興奮した“蟹”は、目の前の柔肌に飛び掛った。

 跳躍。
 開鋏。
 そして、切断。


***

 蟹である。
 どこからどう見ても蟹である。出来の悪い着ぐるみ。後楽園のヒーローショーの敵役。こんな連中が仮面のヒーローのキックで爆発する光景に胸躍らせたのは、果たしていつのことだったか。
 とりとめのない思考の中、両儀式の冷め切った脳髄は、“敵”の本質を冷静に看破していた。外骨格の強度はおそらく、コンクリート以上。鋏の切れ味は下手な日本刀など比較になるまい。ユーモラスともいえる外見に比して、本質的な、徹底的な殺戮機械。
 「KYSHAAAA!!」
 嫌になるほど安っぽい叫び。 敏捷なだけの、単純極まりない動作。何より、あまりにもくっきりと正中線を形作る「死」。

 (死に易い――)
 (あんなにも死に易い体が、オレに向かって――)

 一閃。
 切断。
 そして、沈黙。

***

 「えーと、式」
 「幹也、橙子に連絡してくれ。事と次第によったら、ただじゃ済まさない」
 「いや、それより……」
 「あーもう!こいつらの死体はホテルに引き取ってもらえばいいだろ!お前はいつもいつも細かいことばっかり気にして……」
 ゴロン。見事なまでに“線”を両断されたボルキャンサーを前に、怒気を孕んで式が振り向く。彼女の目にはいるのは、のほほん、としたいつもの笑顔。青磁のベッドに座った黒桐幹也は声1つ荒げず、マイペースそのもので
 「細かいことじゃないよ。式が怪我してたら大変だろ?手当てしなくちゃ」
 穏やかな笑顔で、さらりと一声。見る見るうちに、式の顔が朱に染まる。

 この笑顔には弱い。全く、どうしてこいつはいつもこう――

 「…怪我はしてないし、心配するようなことも無い。とりあえずホテル側に連絡しないといけないだろ」
 冷静さを取り戻したか、落ち着いた式の声に幹也は安堵の溜息をついた。高校や大学の時分ならともかく、今となってはこんな事件には慣れっこだ(それはそれで悲しい気もするが)。ホテルに頼んで警察あたりを呼んでもらわねばならないだろう。
 式に頷き、備え付けの電話を取り上げ……ふと、受話器を持った手が止る。
 「ところで、なんて説明しよう」
 「幹也、何ボけてるんだよ。鏡から蟹が出てきて……あ」
 微妙に困惑気な幹也。半ば呆れ顔で返答しようとした式も、言葉に詰まる。
 それもそうだ。「ボーイが突然倒れて死んだ」「部屋にナイフをもった暴漢が入ってきて暴れた」程度なら、まあ、ありえない絵面ではない。「窓を破って吸血鬼が襲い掛かってきた」。ここ、魔界都市なら可能性は零とは言えぬ。
 だが、「備え付けの鏡からいきなり黄金色の二足歩行する蟹が飛び出て襲ってきた」、となると――まるっきりの悪ふざけと思われても無理は無かろう。

 「……まあ、仕方ないか。ありのままに説明して、後は見てもらうしかないね」
 「そうだな。全く、なんだっていつもいつもこんな目に……」
 ふてくされてベッドに転がる式を横目に、 幹也は苦笑した。式の言うとおりだ。コルネリウス・アルバ、白純里緒、そして荒耶宋蓮。異なる力持つ者たちとの関わりが絶えても、二人の周囲には異常事が耐えなかった。それこそ、一々説明するのも面倒なほどに。ここまで極めつけに異常な状況というのは流石に無かったが――突き詰めれば大同小異かもしれない。
 (でもね、式)
 フロントの番号をプッシュ。式は、横のベッドでまだふてくされている。
 (君と一緒なら、何があっても平気だよ)
 心の中で呟いて、ホテルフロントに事情を説明し始めた。

***

 「それで、何て言ってた?」
 よいしょ、と身を起こして式が問うた。受話器を戻し、幹也が答える。
 「うん、すぐに警察の人が来るってさ。それと、『ご迷惑をおかけして申し訳ありません。後ほど支配人が伺います』だって」
 「ふーん……」
 気の無い返事をかえすと、またぞろ横になる式。幹也もそれに習いベッドに転がる。警察が来るのなら、現場を無闇にいじるわけにもいかない。
 待つこと数分。ゴンゴン、というノックの音。来意を告げる野太い声。幹也と式は立ち上がり、ロックを外し――

 その男を見た途端。
 幹也は凍りつき。
 式は懐のナイフを握り締めた。

 頭部で踊る、レゲエめいたドレッドヘア。左眼を覆うのは黒く灼いた日本刀の鍔。筋骨隆々たる190センチ近い巨漢が、幹也と式を見据えていた。花模様を散らしたグレーのシルクの上着は、ミスマッチなことこの上ない。ぴしりと伸び切った鼻筋と、樫を思わせる無骨で分厚い顎は、精悍そのものといった印象を与える。
 だが、何より圧倒的なのはその“凄み”。野生の気を揚揚と吹き付ける巨漢は、静かに口を開いた。
 「黒桐幹也くんに、両儀式さんだね」
 外見に相応しい、硬質な、鋼めいた声。人を威圧するこけおどしは欠片も無く、それでいて絶対的な迫力が溢れ出る、そんな声音。
 「ああ、そうだけど……アンタは」
 式が応じた。直感が告げる。いつでも動けるよう、筋肉を意識。敵で無いにしろ、こいつは――本物だ。
 「これは失礼。<新宿>署刑事、殺人課所属・屍刑四郎」

 屍刑四郎。人呼んで「凍らせ屋スパイン・チラー」。
 泣く子も黙る魔界刑事は、のっそりと部屋に入ってゆく。式と幹也の蜜時は、ここに終わりを告げた。ここからは、面倒な事情徴収が待っているのだろう――

***

 360度、全方位を覆う鏡。己が反射し、その鏡像がまた反射し、鏡像の鏡像がまたまた反射し――無数の歪んだ己を形作る鏡の世界。
 無限の鏡の中に映る世界の光景。<新宿>のホテルにおける騒動を冷徹に観察するひとつの姿。
 「動き出したようだな」
 白衣の男が、ボソリと呟いた。隠々滅々とした声に感情の色はなく。典型的日本人を示す茶の双眸だけが、暗く深く燃えさかる。
 「動き出した?いや、まだだよ、博士。まだ開幕してすらいない。お楽しみはこれからだ」
 男の声に呼応するかのように、鏡の一枚が像を結ぶ。体にピッタリとした紫の衣装。腰までの金髪。何より、倦怠の極にある瞳。神々しいまでに――禍々しいまでに美しい少年の姿。
 「博士、序幕の指揮者は貴公だ。余の手勢は添え物に過ぎぬ。ここよりの一幕、お手並み拝見といこう」
 「言われるまでも無い。全ては計算済みだ。玉座でせいぜい悦楽を享するがいい。それこそが望みだろう、マスター・テリオン」
 突き放した男の言葉に、テリオンは酷薄な笑みを浮かべ。無限の倦怠を秘めた瞳だけが、情熱的なまでに両儀式を見つめていた。


第1話・了

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